碧い鱗

青が好きです。魚の体を覆っている鱗の様に今の私を形成している想いでや出来事をチラチラと散りばめて書こうかと・・・

緊急入院で思い出した夢の話

先日書いた緊急入院した夜の夢の話を書いていて思い出した事がある。

 

ある日視た夢

山の麓が海になっている場所

山の上には神社があるらしく階段が続いている

海は遠浅で時間は夕方なのか朝日なのかは不明な明るさ。

暗くはないけど真昼では無い感じ。

その海岸の近くに一本の細い木が植わっている。

その木の前を通るおばさん2人が「あらー大変ね〜」とか「大丈夫かしら」と話して居た

見るとその細い若木に大きなヘビが絡まっている

細い木の一番下の枝にとぐろを巻く様に

そのヘビは美しい濃いグリーンだ

光が当たって一部はエメラルドグリーンにも見える

確かに大きなヘビ、と驚いていると、そこに2匹のヘビがやって来た。

そのヘビは1匹は薄茶色、もう1匹は薄茶色に赤いマダラ模様のヘビだった。

何故だか2匹のヘビはつがいだと思った。

特に危機感も無く、悲壮感も無く、淡々とした景色だ。

私はこの風景を俯瞰でみている。

といった夢だ。

 

この話を懇意にしている杉山氏に話した。

もしかしたら何かの暗示かも知れない。

彼なら分かるかもと思ってだ。

元々自分の事はあまりよくわからない。

確実に友人や知ってる人が出てくれば分かるが、ヘビだし

きっと杉山氏に関係する何かなのではと思ったのだ。

 

話を聞き終えた杉山氏は「それは俺のじゃなくて、自分自身の方じゃないか?」と言った。

私は半信半疑ながらも「何かの暗示かしら」と電話を切った。

 

それから一ヶ月後

娘が腹痛を訴え、レントゲンを撮ると腫瘍が見つかった。

精密検査の結果、嚢腫というもので、急を要する物では無かった。

学生の為冬休みになってから摘出することになった。

 

手術前、再度レントゲンを撮って説明を受けている時に驚いた。

見つかった当初より三ヶ月ほど経っているので腫瘍がかなり大きくなっていた。

そして、レントゲンに写っている腫瘍が、まるでヘビがとぐろを巻いている様に見えたからだ。

勿論腫瘍はとぐろを巻いているわけもなく、一つの塊なのだが、他の臓器との重なりでそう見えたのだ。

私は「ああ、あの夢はこの事だったんだ」と納得した。

そして、あの2匹のヘビは私と旦那だったんだとも思った。

 

そして、今回の蕁麻疹による緊急入院。

あのマダラのヘビはきっと私だったのだ

それに気がつき、「今回の入院は決まってたのか?それとも警告をくれたのに気がつかず入院する羽目になったのか?」

と思った。

「全くの偶然」でこじつけでしか無いと思う人もいるだろう。

それでも私は、次の検査入院までにはブレスレットをお祓いして、どこかにお詣りに行くつもりだ。

気休めでも良いのです。

気が休めれば良いのですから。

 

 

 

 

 

 

緊急入院の夜の夢

先週緊急入院した

その話は次に詳しく書くとして

 

入院した当日の夢の話をしたいと思う。

 

その日は40度近くの熱を出し、そんな高熱を出した事が無いので危機感とかもさらさらなく、家族が帰った後、夜20時くらいから、ウツラウツラしては覚めみたいな夜を過ごした。

 

いくつか夢をみたのだと思うが、覚えているのは一つだけ

 

そこは緑の広い庭園の様な場所だった。

奥に白い二階建てか三階建くらいの建物が見える。

その建物には窓が無い。

長方形を横に置き、その上に小さい長方形を置いただけのフォルムをしている。

何かの研究所の様な感じだろうか?

 

でも空が真っ青で、コントラストがとても綺麗だった。

周りは森の様な木々がざわめき、足元は柔らかい芝生だった。

庭園の森の境はバラの様な花の生垣になっている。

なんとも美しい庭だとおもった。

みると建物の左側に人の列が出来ていた。

みな特に変わった感じはせず、普段着の様な感じだった。人種はよくはわからないが老若男女いる様だった。

 

次に気がついたとき、私は建物の中にいた。自分で入ったはずも、列に並んだ訳でも無いが、まぁ夢だし往往にしてある事だろう。

 

建物の中はとにかく白かった。

壁も調度品らしきものも全て白だ。

部屋は真四角という訳でもなく、何かしらの形をしている様だったが、何しろ真っ白なので、光の濃淡で角があると認識出来るくらいだった。

 

それでも、私は「水が飲みたい」と水飲み場に行き、壁の一部が開いて、そこから紙コップに入っている水を飲むことが出来た。

なぜそこに水があるのを知っていたんだろうかは起きてから疑問に思った。

 

私は何故か建物の中を歩き続けていた。

途中、何人かの人に出会ったが、彼らは皆壁に向いていて顔はイマイチわからない。そして、誰もが何も話さず、何かを見ている訳でも無い感じだった。

 

建物の中を歩いているうちに、同じ場所を何度か通った。

まるで教会の礼拝堂の様に壇上があり、ベンチが並んでいる部屋だ。勿論真っ白。私はクリスチャンでは無いので、「へーここは教会なのかしら?それにしては十字架も何も無いな」と思ったくらいだった。

そこは天井から明るい光が差し込んでいて、床も壁もベンチも全て白く、壇上は光っている様に見えた。

そこを二回ほど通った時、私は急に「ここじゃ無い」と考え、「ここから出なきゃ」と思った。

そう思って又部屋から部屋を回ったが、実際は何処からが部屋で何処からが廊下なのかさっぱりわからない

途中ドアというものがない

とにかくその建物の中を彷徨った感じだった。

 

段々イライラが募り、人に聞こうにも誰もが聞ける雰囲気では無い。

そうこうしているうちに、水色の警備員の格好をした人を見つけた。

とっさにその人に追い縋り、「あの、ここから出たいんですが」と声をかけた。

その人は、多分男の人だと思うが、髪が白く、肌も普通の人より白かった。

まつげも白かった。

その人はボーっと私の顔を見ていた。

でも面と向かってこっちを向いてくれる人が居なかったので、私は「あの、出口は何処ですか?」と更に聞いた。

その人は手振りでついてくる様にしたので、私は彼について行くことにした。

 

何処をどう歩いたのかわからないけど、彼がドアを開けてくれたら、そこは地下から外に続くスロープだった。

スロープを上がり振り返ると、その人はドアの所にまだ居て、しっしっとばかり手を振った。

私は建物の右側の半地下の様な所にから出てきたようだった。

その場所は最初と同じで、左側には多くの人が並んでいる。

それでも、私は外に出れて良かったと思って、青い空を見上げた。

 

夢はそこまで

でも何故か鮮明に、勿論フルカラーで覚えている。

不思議なのは沢山の人が入っていってあるはずなのに人の気配がほとんどしなかった。

勿論怖いとかそういうのも無い

ただ、淡々とした感触。

そして私は酷い蕁麻疹で入院したはずなのに、夢の中ではとっても健康だった。

 

警備員?は、最近見たアルビノのオランウータンの様な人だと思った。

 

あれから一週間ほど経ったが、今でもその風景は鮮明に覚えている。

いつか行く事があるのだろうか?

変な夢の話でした。

 

 

 

 

季節外れの話

日中も過ごしやすくなり、朝夕はちょっと冷える様になってきました。

もっと早くに書こうと思っていたのに書きそびれていた話を一つ。

季節はずれかもしれませんが、不思議な出来事です。

私の父親は再婚で、田舎に住む私とは離れて暮らしていた。

15歳か16歳の時、東京に住む父の家に遊びに行った時の事。

父の家は小さい借家で、三部屋しかなく、そこで父と再婚した義母と、義母の母親と三人で暮らしていた。

私が遊びに行った時、狭い家のため、義母の母親の部屋を客間として提供してくれた。

私が滞在する間は父と義母とおばあちゃんは同じ部屋に寝ると言う。

私は別にどこの部屋でも良かったのだが、実はその部屋だけは勘弁して欲しいと思っていた。なぜならその部屋は仏間でもあったからだ。

 

小さい頃から仏壇がある生活をしていたので、仏壇自体が怖いと思った事は無いのだけれど、なぜだかその仏間に寝るのは正直嫌だなと思ったのだ。

 

しかし、狭い家の事。わがままも言えず、おばあちゃんに「ありがとう」と言い、その部屋に寝ることに。

一日目は、移動の疲れもあってか、特に何も無かった。

二日目、父と買い物に行き、服などを買って貰った私は、最初感じた「嫌だな」と言う事はすっかり忘れ、次の日の事を楽しみにしながら眠った。

(確か次の日は午後から山梨に泊まりで行き、翌日は富士急ハイランドにスケートに行く予定だった)

 

深夜(たぶん)何人かの話し声で目が覚めた。

「誰かお客でも来たんだろうか?今何時だろう」

そう思ったが、特に気にもしなかった。

しかし、その話し声はだんだん大きく聞こえるようになった。

それも枕元から聞こえる気がした。

頭の上は障子で外は広い庭とその先は隣家だ。

「うるさいな、まったく、隣の家かな」

そう寝ぼけ眼で壁にある時計を見ようとした。

 

その時、「あれ、私電気消さないで寝たっけ」

壁の時計が何時なのかは判別できなかったが、部屋が薄っすら、黄色く明るい事に気がついた。

それは蛍光灯の豆電球が点いているくらいの明るさだ。

私は真っ暗にして寝る習慣があったので、てっきり電気を点けたまま寝たのだと思い、消すために起き上がろうとした。

 

そして気がついた。体が動かない。

「あ、しまった。これって金縛りだ」

そう思った時、枕元の話し声は更に大きく聞こえた。

でも何を言っているのかは判らない。

何人かの声で、言い争いをしているような感じだ。

私は悟った。枕元の声は仏壇のほうからしていることに。

 

仏壇は私の枕元の左側に置いてあった。

布団は仏壇の正面を避けて、少し下に敷いてあったので障子から仏壇の幅分は

空けてある。

声はその辺りから聞こえた。

私はとりあえず「般若心経」を心の中で念じた。

いつもなら「般若心経」を心で念じれば金縛りは解けるのに、その日に限って金縛りは解けず、声は益々大きくなって行く。

私は段々怖くなって来た。

「やばい、お経が効かない、どうしよう」

何とか声を出して、隣に寝ている父に知らせようと思ったが、声が出ない。

 

その時、誰かが右手の辺りに座って居る事に気がついた。

「ひっ!誰」そう言ったつもりだが声が出ない。

その人は、体を乗り出し、私の顔を見た。

私は顔を見ても誰だかわからなかった。

ただこんなにもはっきり見えるのがとても怖かったが、体は動かないし、声も出せない。

枕元の声は益々大きく、怒鳴っている様にも聞こえた。

 

その人は日本髪の様な髪型をし、縦じまの着物を着ているようだった。

じっと私の顔を覗き込むと、右手を顔に近づけて来た。

半ばパニックを起こしそうだった。

しかし、目を閉じようにも何故だか目が閉じれない。

「殺される?首を絞められる?幽霊って人殺せる?」

短時間の間に色んな事を思った。

 

しかし、その手はゆっくりと私の上を行ったり来たりした。まるで、さする様にだ。

「何をしているんだろう」

そう思ったが、手が振られる毎に枕元の声が遠ざかり、私は意識が遠くなるのを感じた。

 

そして、「そろそろ起きなさい」と声を掛けられるまで眠っていた様だった。

熟睡したのかどうだかわからない状態だったがとりあえず起き出した。

 

朝ごはんの後、何気なく「そういえば、あの仏壇には誰がいるの?」と聞いた。

義母は「私の先祖を奉ってお参りしてるんだよ、位牌とかは本家にあるんだけど、あまりお参りしていない様だから母と一緒にここでお参りしてるの」と言った。

「ふーん、じゃあご先祖様は沢山居るんだね」と言った私に何かを感じたのか、

過去帳に沢山奉っているけど、何かあった?」と聞かれたので、昨夜の話をした。

 

「縞の着物ね、そんな人いたかしら」そういいながら、古いアルバムを持って来た。

「明治以降の人なら写真があるかもね」おばあちゃんも「最近見ていなかったね」

と目を細めながらページをめくっていた。

「これが私の子どもの頃の写真だよ」と見せてくれたりした。

その時代から写真を撮ることが出来たと言う事はお金持ちだったんだね

などと話しながらおばあちゃんに任せて、隣で写真を覗いていた私は一枚の写真に驚いた。

「あ、この人だよ、夕べの人」と20人くらいの女の人が並んでいる写真の中にその人が居たのだ。

 

その写真は同じような縞の着物を着ていて、下は袴だったり、そのまま着物だったりだが、皆日本髪の様な髪型をしていた。

何かの記念撮影なのか、三段ほどに並んだ中に夕べの人が居たのだ。

 

おばあちゃんは私が指をさした人の顔を見て、突然泣き出した。

「○○姉さん」

私は聞き取れなかったが、確かに「姉さん」と言った。

しかしそれっきり泣いてしまい、私はいたたまれなくなって、片付けを装って台所に行った。

その間義母が聞いた話によると、その人は若くして亡くなったおばあちゃんのお姉さんで、写真は女学校の記念撮影だったそうだ。

その人は歳が離れていたので、おばあちゃんの面倒を良く見てくれたそうだ。

 

その日、出掛ける時間が来るまで、おばあちゃんは私と口をきいてくれなかった。

義母に聞くと、「なぜ血のつながりの無い私の所に出て、自分のところに来なかったのかが不満なんですって」と教えてくれた。

「そんな事言われても」と言ったが、

「まぁ、年寄りは子どもみたいになる時があるから我慢してやって、貴女とお父さんが旅行から帰って来る頃には忘れてるから」

そう言われ釈然としないがそれ以上何もいえなかった。

それより、これからちょっと大変だと義母は言う。

その人は過去帳に書いていないらしく、これから本家に問い合わせて調べて過去帳に載せないといけない。おばあちゃんの為に写真も引き伸ばして飾ってあげたい。

とやらなければいけない事があるそうだ。

 

それより、あの話し声はやはり義母側のご先祖様だったのだろうか?

それが何故私の枕元で議論の様な話をしていたのだろうか?

そして何故あの人は私を助けるかのような行動をしたのだろうか?

結局良くわからないまま私は滞在日数を終え田舎に帰ったのだった。

 

その後、その集合写真から引き伸ばされた写真は仏壇の上の方に義母の父親と一緒に飾られ、数年後におばあちゃんも亡くなり、おばあちゃんとお姉さんは一緒に並ぶ事になった。

 

おばあちゃんはお姉さんに会えたのだろうか?そして、何故自分のところに会いに来なかったのかと文句を言ったのだろうかとちょっと思った。

 

そして父達は何度か引越しをしたがその写真は今でも仏間に飾られているはずだ。

実は今でもその写真を見ると、あのときの恐怖が背筋を撫でる。

助けてくれた感謝はあるが、写真で見つけた時も背中がゾワっとした。

 

今まで色んな不思議な体験をしたけれどもその中でも忘れられない出来事の一つだ。

 

 

そんな季節はずれの話でした。

 

 

 

 

 

 

さらば巻き爪

私は両足の親指が巻き爪で長年悩まされていた。
巻き爪になってしまったのは、あのバブル期、毎日ハイヒールを履いて闊歩していた頃に違いないと思っている。
いつの間にか親指の爪の両側が内側に食い込むようになっていた。
爪が肉に食い込んだままだとそれはそれは痛いのだ。

なので、ついつい深爪をする事になる。
食い込んだところを深めに切り、食い込んだ爪をほじくって取る。

そうすると痛みはなくなるからだ。
そうやって長年過ごしてきた。勿論、「巻き爪矯正」で直せる事も知っていた。
でも、「通院が面倒」というのと、「結構高価」と言う事で、いろんなことの二の次になっていた。

しかし今回の痛みは違った。例のごとく食い込んだ爪を取っても痛みが治まらない。
寝るときに、毛布が当たっただけで痛いのだ。

まだ寒いこの時期なのに、右足だけ外に出し寝る羽目になった。
お酒を飲むともっと痛い。
日曜日、あるレストランでミニライブをやり、仲間達の演奏で歌って、その後恒例の打ち上げで、上機嫌で飲んだのだが、
家に帰って風呂に入る頃に右足の親指がズキズキしだした。
「今回は尋常じゃ無い位痛い」と旦那に訴えても、「ふーん、大変だね」と言うだけだ。
痛みは当事者じゃないと判らない、そうとは判ってはいても言わずには居られないのだ。

ズキズキする右足を布団の外に出し、痛みで眠れない私の横で大イビキをかいている旦那がことさら恨めしく、殴る拳にも力がこもった。
それでも酔いが醒めれば歩くことは出来るし、何かにぶつけなければ大丈夫。
月曜は銀行に行く用事があったので、会社を休み一日ゆっくりしたり出掛けたりしていた。だから足の痛みもたいしたこと無かった。

火曜日、普通に客先に行ったのだが、現在常駐している客先は市ヶ谷駅から15分位歩く。
いつもならかなりの早歩きなのだが、親指の痛みのせいで早く歩けない。
そして、歩いたせいか段々痛みが増して来た。お酒も飲んでないのにだ。
これはもう矯正するしかないのかも知れないと思い、仕事帰りに行ける病院をネットで探してみた。
病院で対応しているのが皮膚科と整形外科だった。家の近所にもあったが、病院は診察時間が終わるのが早い。
どうしても今日行きたいと思っている私は、診療時間が遅くまでやっていて、今の現場から近く、予約が出来る所で探してみた。
飯田橋駅の近くに19時まで予約出来る皮膚科を見つけ、ここなら歩いて15分位で行ける。
とりあえずキープ。

巻き爪矯正をやっているのは病院だけでは無い。
巻き爪矯正を専門でやっているサロンもある。サロンのメリットは終了時間が長い事と、フットケアも出来ると言う事だ。
サロンの場合はプラスチックの様なプレートを貼って矯正をする方法が多い。

プレートの上からジェルネイルも出来て見た目も綺麗だ。
金額は大体6000円から10000円位。
爪の巻き具合により、矯正完了までは半年位かかるが、プレートを貼れば直ぐに痛みが取れると書いてある。
隣の駅から歩ける場所に一箇所見つけた。

さて、病院にするか、サロンにするかだ。
サロンでは医療行為は出来ないとある。そりゃそうだ。でもフットケアをしてくれるのは魅力だと思った。
しかし一番近い店でも徒歩25分くらいかかり、長く歩くことを懸念した私は、徒歩15分の一番近い皮膚科に行くことに決め、飯田橋駅近くの病院に予約を入れた。

終了時間後直ぐに出て、靖国神社を抜け、警察官が物々しく警備している朝鮮総連の前を通り、飯田橋駅西側の「飯田橋グラン・ブルームサクラテラス」という比較的新しいビルに入っている「飯田橋駅前さくら坂クリニック」に到着した。
病院はとても綺麗だ。受付の人も愛想が良い。

(クリニックのマークがひな祭りの菱餅を連想させる感じが面白かった)
予約をしてあったので直ぐに診察室に通された。若い担当医が問診表を元に診察を始める。

医師「随分腫れてますね、食い込みも酷い」
私「そうなんです、とにかく今回は痛みが酷いのです」
医師「これくらいの湾曲している爪の場合プレートで矯正するのですが、先ずは腫れがひかないとだめですね」
私「プレートで矯正する場合お幾らですか?」
医師「保険がきかないので8000円くらいです」
私「それはサロンなどと同じ位の金額なので想定内ですが、今日は出来ないのですよね、痛みの元を取るだけで」
医師「そうですね、爪を切って、中の食い込んでいる部分をとり、腫れがひくのをまってから後日プレートで矯正ですね」
私「プレートをつけてからも時間がかかるのですか?」
医師は爪の切り方のチラシを見せながら説明してくれた。元々巻き爪になるにはいくつかの原因があるが、一番重要なのは爪の切り方なのだそうだ。
深爪をしないようにし、爪の先端は丸く切らず指の先端が平らになるようにしなければならないそうだ。
爪の両端は特に深爪してはいけないと言っていた。

私はすべての爪を丸く切っている。そう子どもの時に教わったからだ。
小学校の時、「衛生検査」なるものがあり、クラスの衛生委員が抜き打ちでチェックした。
「ハンカチとチリ紙(今で言うティッシュ)と爪」の検査だ。
私の子どもの頃は爪の白い部分が長いと不潔とされてきた。爪が指先から出ていなくても白い部分が伸びていると不潔だった人として
検査結果として名前を呼ばれてしまうのだ。
プールが始まる頃には足の爪も検査対象になった為、皆結構深爪だったと思う。
その後、冒頭で書いたようにハイヒールを履くようになって私の巻き爪は完成されていくのだ。

私は考えた。矯正しても爪の切り方に気を配らないといけない。手の指なら見やすいし、たまにはマニキュアも塗るので、頻繁に手入れが出来る。
しかし、足の爪はそうはいかない。体も硬くなり、なおかつ現在の腹の肉の状況では「ふん!」と足を寄せて、一気に切らないと苦しくなるので時間との勝負になっている。
デブにとって足の爪の手入れというのは苦行でしかない。
事前学習していた私は、病院では部分的に爪を取り除く手術が出来ると知っていた。
ネットの説明では「時間が無い場合、爪の形に拘らない場合切除手術も有り」とあった。

私は聞いてみた。「じゃあ、爪が生えてこない手術は出来ますか?」
医師「え、出来ますよ、湾曲している部分を根元からとり、爪が生えてこないように焼く方法があります。取っても良いならその方が後々は楽ですよ」
私「矯正は時間がかかるし、爪の切り方も面倒だし、もう爪の形に拘る年齢でもないので取ってもらってもいいです。今日出来ますか?」
医師「出来ますよ、そうですか、切除でいいなら保険もきくし、そのほうが良いでしょう。やりましょう」
と急遽手術してもらうことになった。
とにかく私は今すぐ何とかして欲しかったのだ。

処置室に移り、局部麻酔をする。
麻酔は針を刺した瞬間より、麻酔薬を入れるときの方が痛い。
「ううー」と唸った私に、「大丈夫ですか?痛いですか?」と医師が気を使った。
「大丈夫です。歯茎に麻酔するより、爪が食い込むより痛くないです」と答えた。
麻酔をして処置が始まって直ぐ「あー」と医師が言ったので、「どうしたのですか?」と聞くと、なんと爪の中で食い込んでいた場所が膿んでいたそうだ。
「これは痛かったはずです」
私は「病院を選んで正解でした」と言った。
「そうですね、サロンなどでは処置出来なかったでしょうね」そう若い医師は食い込んだ爪の一部を取り除き見せてくれた。
5mmほどの爪が食い込んでいた。
そして、根元まで切除したあと電気で焼く処置を行い、賞味30分ほどで手術は終わった。

若いと思っていたが医師は院長だった。

膿んでいたのもあって次の日も来るように言われた。
お風呂はシャワーだけにし、処置した場所を濡らさないように、暫くはお酒は禁止と言われた。
「あのー土曜日くらいなら大丈夫ですよね」と私は心配になって聞いた。土曜日は飲み会を予定しているからだ。
「まあ土曜日あたりなら良いでしょう。でもそれまではこれ以上化膿させないように注意してください」そう釘をさされ、処方箋を貰って帰った。

料金は初診料込みで6340円だった。
薬は化膿止めと鎮痛剤と胃薬が出て730円だった。

麻酔が切れた時はズキズキと痛かったが、食後に鎮痛剤を飲んだ後はさほどでもなかった。
ヒールがある靴は暫く履けそうに無いので、帰りに包帯していても履けるサイズの靴を買った。まあこれは仕方ないとしよう。

感想は「ざまあみろ!巻き爪め!」だ。
これで長年悩んでいた巻き爪#1は消え去った。まだ後三箇所残っているが、今のところは問題無いのでほおって置くことにする。問題になったら順次取り除いていけばいいのだ。
今までは漠然と「矯正」でと思っていたけれど、私は今後も切除する方を選ぶ事にする。
麻酔は痛いが、我慢出来ないほどではないし、何と言っても安い。
それに一箇所ではなく、左右の親指の両側を取ってしまえば爪の形も揃うし、見た目も問題なくなるだろう。
今度は痛くなったら直ぐに医者に行くことにしようと思った。
その時はストッキングではなく、靴下で行くことも忘れないようにしないといけないとも思った。
これからはなるべく平らに爪を切るようにする。それが今回の大事な教訓だ。
そして、潤滑に足の爪を切るためには痩せなければと漠然と思うのだった。

方言通信 Vol2

九州弁(と言っても私の住んだ地方限定)で、単語が違う物がある。
それをいくつか紹介しよう。

【ビッキ】 意味:蛙
これは以前書いた事があるが、ビキタンとも言う。ビッキは蛙全般の事を言い、「青蛙」など固有も指す場合は使わない。

【ひゃー】 意味:ハエ
今では年寄りしか使わないかも知れない。

余談だが、東京に来てから事、先輩の実家に遊びに行った時、先輩のお父さんが「ひゃー食え」と昼ごはんをすすめてくれたが、私は「ひゃー?そんなのが入っているのか?」と驚き、
手を出さずにいたら、「今母さんが半殺しするから」とも言われ、益々躊躇してしまった事があった。
先輩にどうしたと言われ、「ひゃーはハエの事で、ハエを半殺しにした料理なのかと思った」と言ったら盛大に笑われた。
「ひゃー」は「早く」の意味で、「半殺し」は「オハギ」の事らしい。
先輩の実家は山梨県都留郡だった。所変われば方言も変わるものだと再認識したものだ。

【はちがめ】 意味:カブトガニ
鉢を被っているように見えるからだと説明されたが、何故カメなのかはわからない。
昔は海でよく見かけたが最近は数が減っているらしい。時々調査団が来たりしていたが、上京してからは水族館でしか見たことが無い。

【てんげ】 意味:手ぬぐい
祖母はタオルもハンカチも一まとめに「てんげ」と持っていた。手に提げるという意味だと聞いた。

【ちょんごろまい】 意味:ヒイラギという魚
煮物や南蛮漬けになって食卓によく上がったこの魚の正式名称を知ったのは大人になってからだ。東京では手に入らないので、又食べたいと思う。

【カチガラス】 意味:カササギ
カササギは白黒のカラスだ。鳴き声が「カチカチ」と言うのでついたそうだ。毎年春になると電信柱に作った巣の駆除が風物詩だった。
東京には居ないと聞いて残念に思った。佐賀県の県の鳥に指定されていたと思う。

【くちなわ】 意味:ヘビ
ヘビ全般に対して使うが、蛙と同様「青大将」「マムシ」など固有名詞を指す場合は使わない。

【とんぴん】 意味:ミミズ
特に太くて長いミミズに対して使う。釣り餌に使う赤ミミズはそのままだ。

【かんげ】 意味:髪の毛
「かんげの長ごうしてやぐらしかごたる」と使う。「髪の毛が長くて鬱陶しそうだ」の意味。「の」が「ん」になった例。

【はちがぶり】 意味:ゴキブリ
伏せた茶碗(鉢)の中から出てくるからついた名前と聞いた。【恥かぶり】(恥被り)と似ているため言葉遊びで使ったりした。

【おんちゃん】 意味:オジサン
女性の場合は【おばっちゃん】(オバサン)と呼ぶ。

【つ】 意味:かさぶた
逆に「かさぶた」と言う言葉を知らなかったくらい普通に使われていた。

【ふーけもん】 意味:ボケているの意味。私は「呆け者」から来ているのではと思っている。
馬鹿ともアホとも間抜けとも微妙にニュアンスが違う。
「そがんふーけとるけん忘れ物すっと」(そんな風にぼーっとしているから忘れ物するんだ)と使う。

【手まぜ(する)】 意味:手で髪をいじったり、スカートやズボンをいじったり、鉛筆や消しゴムをいじること。ペンを回すことも含まれる。
例)「こら、そこ、手まぜせんで話ば聞かんか」

【もー(する)】 意味:おしりを持ち上げた状態
例)「もーせんばお尻の拭けんばい」

【えーくらう】 意味:調子に乗ってフラフラする、大変な目に会う
例)「あすとん、えーくろうとるけん注意したが良かよ」「昨日の障害のせいでば、えーくろうたとさ」
例)「あいの、あがんえーくろうとるけんがくさ、いっちょん仕事の進まんとさ、そいけんごっとい、後でおいがえーくらうとば」
訳)「あいつが、あんな風に調子に乗ってフラフラしているから全然仕事が進まないんだよ、だからいつも後で俺が大変な目にあうんだよ」

他にもあるかもしれないが今は思い出せない。
もしかしたら未だに方言と気づかず使っているのかもしれない。

語源はわからないが、音だけ聞くと違う意味に捉えられやすい方言を紹介する。

【かっかえる】 意味:落ちる
「かっかゆー」、「かっかいゆー」とかとも言う。前後の文により変化する。
高いところに登ったとき、「そがんことしよっぎかっかいゆーばい」と言われたり、「ほらかっかえたろーが」と言われたりした。
抱える(かかえる)と聞き間違う事が多いらしい。

【やーらしか】 意味:可愛い
嫌らしか(いやらしか)と似ている。文字で書くと違いは判りやすいが、発音するときに、左記は「ぃやーらしか」と「い」が子音の様に発音するため間違えやすい。

【どがんでん】 意味:とっても、どうでも
この方言は前後の文によって意味が全く逆になってしまうので注意が必要だ。
「あすとん、どがんでん良か人やっけんね」(あの人はとてもいい人だ)と使う場合と、
「あすとんの、どがんでん良かっていいよらしたばい」(あの人が、どうでも良いと言っていた)と使う場合がある。
又、「どがん」と短縮して使う場合もある。

いざ文にしようと思うと思い出せないものだ。
今日はここまで。
今後も思い出したら書いてみようと思う。
そいぎ!(それじゃぁ)

 

名古屋での出来事

名古屋で祖母が亡くなった時、連絡は夜だったので、当時2歳半の娘を連れて私は次の日の朝一番の新幹線に乗った。
名古屋駅から真っ直ぐ祖母が安置されているメモリアルホールに着き、夕べから泊り込んでいた叔母と交代する事にした。
叔母は疲れきっていたため、通夜は夕方からだし、午後には叔父達も到着するだろうと、少し休んでいいからと送り出し、
「ひーばーちゃん、ねんね?」と何度も聞く娘に「そう、ねんねだよ」と何度も答えながら、時折線香を替え、父や叔父達を待った。

叔母を送り出してから娘と二人になった後、「しまった」と思った事があった。
それは通夜・葬儀に関するあれこれの判断を私がしなければならなくなった事だ。
叔父達は午後には着くと言っていたが、正確な時間は判らない。葬儀社の人は、段取りがあるので、午前中から出来る事は決めて欲しいと言う。

先ず、第一の選択は「湯灌」だった。
「湯灌」にもランクがあった。しかもなかなか高い。
一つは「体を清拭+着替え+化粧」、次が「お風呂+シャンプー+着替え+化粧」だった。

私は迷わずお風呂を選んだ。祖母は長いこと病院に入っていたので、まともにお風呂に入っていなかったかもしれないし、最後くらいゆっくり浸かって欲しかったからだ。
金額の事はこの際気にしないことにした。直ぐに来ない叔父達が悪いのだ。

早速部屋にお風呂が運び込まれた。
娘は「邪魔しちゃ駄目」と言われてたので、ちょっと離れたところからそーっと覗いては「ひーばーちゃん、おむつ!」とか、「ひーばーちゃん、ぽんぽん(裸の意味)」とか報告していた。
タオルをかけられ、湯船に横たわる祖母は痩せて、二回りも小さくなっていて私は悲しくなった。
湯灌の時に「洒水(しゃすい)」と言う儀式があるのもこの時に初めて知った。
遺族が足元側から胸元側へと柄杓でお湯を掛けることだ。詳しい意味は忘れたけれど、なんでも湯灌は常に足元から行うらしい。
「ひーばーちゃんお風呂?」と言う娘と一緒に柄杓を持って洒水を行った。
湯灌が終わって死に化粧を施された祖母は心なしかほっとした顔になっていた。

湯灌が終わってスタッフが帰ると又娘と二人きりになった。
何しろ暇だ。娘は飽きて、眠くなったので、「ねんねしたい」と訴えて来た。
どこかに布団が無いか探したが判らなかったので、
「じゃあひーばーちゃんのとこでねんねしておいで」と言うと、娘は素直に祖母の布団にもぐりこんだ。
私は可笑しかったが(どうするかな~)と見ていたら暫くして、「ひーばーちゃん冷たい」と言って出てきた。
「そっか、冷たいかぁ」と笑いを堪えながら座布団とコートで布団を作ってあげた。
昨年その話を娘にしたら「なんてことすんだよ!いたいけな私に」と言ってちょっと抗議されたが、
しかし、結局「まあめったに無い経験か」と笑っていた。
もし私の娘と会うことがあったら「死体と寝た女」と呼んであげて欲しい。

第二の選択が大変だった。祭壇の選択だ。
これはランクも複数あるが、値段がとにかく高い。
豪華な祭壇となると100万とかしていて、これを一人で決めるのは荷が重かったが、先に決めてくれと言われたので
仕方なく下から二番目の祭壇を選んだ。
しかし後で(午後も遅く来た)叔父に「ちんけな祭壇だ」と言われ私は腹が立った。
その叔父は葬儀費用は一切出さなかったくせに、文句ばかり言っていた。
あげく、私に「孫一同で花輪を出せ」と言い、「お前は育てて貰って末っ子扱いなんだから葬式代を出せ」とも言った。
葬儀代は祖母の貯金から出すと一番下の叔父が言ったので事なきを得たが、花輪代は従兄弟から徴収できず、結果私一人の支払いに終わった。
この件については私は一生忘れない事にしている。

一度危篤になった時に集まって相談してあったので、叔父達がゆっくり来たこと以外は通夜も葬儀もスムーズに運んだ。
葬儀が終わり、手配された車に分乗して親戚一同火葬場へと向かった。

■ここからはあくまでも私の主観(いままでもそうだったけど)で、決して愛知の方々を非難している訳ではないことを最初にお断りしておく

火葬場について最初に驚いたのは、案内係りのお姉さま方だ。
制服を着て、クリップボードを抱え、10人以上の人が並んでいた。
玄関に横付けされた霊柩車に駆け寄り、喪主に名前を確認し、そのお姉さんの合図で棺桶が運び出されるまでの時間、賞味3分。
いや、3分もかかっていなかったかも知れない。後続車の私達は慌てて喪主の叔父の後を追いかけた。
棺桶を先頭に炉のある部屋まで行って更に驚いた。
壁に小さな扉がずらっと並んでいるのだ。端の方まで見えなかったが延々と続いているような感覚になった。そして扉と扉の間隔はとても狭い。

あっけにとられていると、「場所が狭いため、最後のお別れは喪主の方のみとさせていただきます」と説明があった。
叔父が「え?俺?」と戸惑いながら出て行き、棺桶の小さい扉から祖母に手をあわせその扉を閉めた。
叔父が下がって「それでは皆様お別れです。合掌でお送りください」と僧侶に言われ、皆が見守る中、祖母の棺桶は扉に押し込まれ、「ガチャン」と言う音と共に見えなくなった。
そこでも又驚いた。作業服を着た係員が、その場でスイッチを入れたのだ。
無造作にボタンを押し、ストレッチャーを押して出て行った作業員を、これまたあっけにとられた顔で見ていた私達を急かすように、お姉さんが待合室まで案内し、喪主の叔父に番号札を渡した。
「それでは案内があるまでお待ちください」とお姉さんが側を離れた途端、嫌味な叔父が
「なんだか随分勝手が違うな、まるで流れ作業だ」と文句を言った。
流石にそれには皆同意し、喪主の叔父も「何番まであるんだここのカマは」と番号札を振った。
確か、祖母の番号は20番台だったと思う。

私は娘をあやしながら火葬場の待合室から外が見えるところまで出てみた。
玄関ではひっきりなしに霊柩車が到着し、案内のお姉さん達は皆手際よく遺族を案内していた。
「ゴルフ場より機敏だな」と私は感心しながらその様子を眺めた。
そして同じように番号札を渡された親族が続々待合室に来る。
時折、「○○番でお待ちの○○様、ご準備が整いましたのでホールまでお越しください」とアナウンスがあり、
そのたび何処かの一団が、「おっ家だ!」と言いながらそそくさと席を立つ様子が見れた。

我が家の番になって、呼ばれたので皆で炉の前に立った。叔父が渡した番号札には鍵がついていて、間違いなく祖母の遺骨を取り出してもらった。
そもそも各扉に鍵がついていたことに驚いたが、これだけ沢山の炉があるのだから仕方ないとも思った。

「拾骨は10名までとさせていただきます」と言われ、祖母の子と孫の血縁のみで周りを囲み、拾骨した。
(狭いからここでも人数制限なんだ、てか炉の前なんだ)と思ったが、皆従うしかない。
色々勝手が違うので戸惑いながらも拾い壷に収めた。
「これで終了でございます。こちらが証明書でございます。残りのお骨はこちらで預からせていただきます」と矢継ぎ早にお姉さんに言われ、
喪主の叔父は「は、はい、ありがとうございました。よろしくお願いします」と頭をさげた。
それを待っていたかのように、係りのお姉さんは作業服のオジさん達に頷いて合図を送った。
作業服のオジさんは壁に繋がったホース(バキュームカーのホースの様な)を持ち、又ボタンを押して、
台の上に残っていた祖母の遺骨を「ボー、ボー」と吸い出した。
あらかた吸って、最後に箒でステンレスの台を掃き、粉を塵取で取って、床の掃除を始めた。
私達はその作業の一部始終を驚愕の表情で見詰めていた。
案内のお姉さんはその間も、何事も無かったかのように、骨壷を包み、喪主を出口まで案内しようとしていた。
お姉さんが合図を送ってから賞味1分。それが祖母の最後だった。

葬式をしたメモリアルホールに戻り、案内された座敷でそのまま初七日を執り行い、長かった二日間が終わった。
帰りの新幹線で叔母と別れた後、叔父が言い出した。
「ユミ、お前に言っとく事がある」この叔父はとにかく嫌味が多いので私は多分ムッとした顔で「何」と聞き返した。
「もし、俺や俺の息子が何かの理由で名古屋辺りで死ぬことがあったら、絶対に遺体を東京まで運んでくれ」
叔父は真剣な顔でそう言った。
「そんなの家族で相談しときなよ」と言いたかったが、もう一人の叔父も「俺も名古屋で焼かれたくないな」とつぶやいたので
「判った、二人も従兄弟達も必ず東京まで運ぶよ、約束する。その代わり私がそうなった場合も同じだからね」と私は答えた。
叔父は「そうだ、お互いにそうしよう、俺等親戚の約束だ、忘れんなよ」と安心した顔を見せた。
まったくもって変な約束だが、私はまだ忘れていない。

後で知ったが名古屋には当時火葬場は一箇所しか無かった。最近二箇所目が出来たらしいが、やはり炉が30基あり、大型の火葬場だ。
あれだけの大都市で当時は46基でまかなっていたと言う事なので流れ作業も致し方ない。
それにしても、名古屋は結婚式はこれまた格別に派手な事で有名なので、この格差はなんなんだろうと思ってしまうのだった。

田舎の事件3

つい先日、私の田舎で事件があった。
田舎の事件の話を書いていた矢先だったのでびっくりした。

事件のあらましはこうだ。
福岡で内縁の妻と乳児の息子を殺害し、自分の実家の近くの田んぼの畦道に遺棄。
出生届けが出されていた子どもが小学校に入学していなかったため、自治体が警察に報告。
報告後4年かかって今回の事件が明るみに出た。

と言う事らしいが、ここで疑問が起きる。
出生届けが出されていれば、小学校にあがる前に何度も検診や予防接種が行われるが、検診をしない子どもに対して行政は何も思わないのだろうか?
小学校に入学していないとわかってから4年も経ってしまったのは何故だろうか?
11年前と言えば「住民基本台帳ネットワーク」が既にあり、入転出も直ぐにわかるはずで、その気になって調べれば、生まれた子どもが何処にも転出していなく、
行方不明になった事が、少なくとも三歳児検診で判ったのではないだろうか?

この手の事件が起きると、なんのためのシステムなのだろうと思う。
どんなにシステムを整備しても使う側の人間が、縦割りだなんだと言って、ちゃんと使わなければただの無駄遣いだ。
11年も土の下に埋まっていたなんて、哀しすぎるとニュースを見ていて思った。

そして、やはり今回の事件で一番思った事は、事件があった町は当然知っている場所で、複数の同級生の家の近くで、
去年には火野正平NHKの「こころ旅」で、視聴者の手紙に誘われ訪れた場所の途中の町だ。(ちなみに投稿者は同級生だった)
テレビで見たときに、火野正平の案内で国道沿いが写った。その時は「あー懐かしいなぁ、あんな上までは行った事が無かったけど、この辺りは知ってるな」
なんてのんきに録画した番組を観ていた私だ。
そんな懐かしい田舎の風景が事件などで放送されると、驚きと共に、とても哀しく思ってしまう。
加害者には会ったことは無いが、中学校の後輩にあたるらしい。それも又なんとも言えない残念な気持ちになってしまう。

私だけでは無いと思うが、自分の田舎では凶悪な事件が起きて欲しくない、嫌、起きない、と心のどこかで思っている。
心の中にある田舎はいつも美しくあって欲しいからだ。
そう書いていながらこの感情は「うちの子に限って」と思うのと一緒なのかも知れないと気づいてしまった。

結局、いつも悪いのは人間で、弱い人の心なのだろう。

そんな弱い私と、最後までこの文章を読んでくれた方に、ここで一つ、最近知った「中川昌蔵」さんと言う人の著書の中で書かれているらしい、「幸福になるためのソフト」を紹介しようと思う。
これは以前にも書いた杉山響子さんのブログの中で紹介されている事柄で、彼女のブログも同時に紹介しておく。
ちなみに私は中川氏もその著書も知らないのだが、この文にはとても惹かれていて、さっそく私もパソコンで作ってトイレに貼ろうと考えているのだ。


「幸福になるためのソフト」

一、今日一日、親切にしようと思う。
一、今日一日、明るく朗らかにしようと思う。
一、今日一日、謙虚にしようと思う。
一、今日一日、素直になろうと思う。
一、今日一日、感謝をしようと思う。

実行しては駄目です。
意識して実行すると失敗します。

「のろ猫プーデルのひゃっぺん飯 おかわりっ!」

http://ameblo.jp/podel1007/