碧い鱗

青が好きです。魚の体を覆っている鱗の様に今の私を形成している想いでや出来事をチラチラと散りばめて書こうかと・・・

三本杉

自宅から山の稜線が見えていた。
町の外れにあるその尾根には三本杉と言われていた木があり、山の中腹の町を見下ろすように立っていた。
樹齢はわからないが、かなり古くから三本杉と呼ばれていたらしい。

その木は風景としていつもあり、特に気に留めて見ることは無かったが、ある日窓から山を眺めていると、
いつも三本見える木がその日は四本に見えた。

そこそこ遠いので、見間違いかと思って何度か角度を変えてみたが、やはり四本に見えた。
変だなとは思ったが、枝か何かのせいで四本に見えたのだろうと思った。
夕方になって、夕闇にシルエットで見えるようになった頃、また見てみたが、シルエットは三本だった。
「やっぱい、見間違いやったとね」と思った。

でも次の日も何気なく見てみるとやはり四本に見える。
三本杉は尾根から少し傾いて立っているのだが、そのうちの一本の木に寄り添うように四本目が見えるのだ。

私は祖母に、「三本杉のくさ、四本に見えるばい、木の生えたとやろうか?」と聞いた。
祖母は山を仰ぎ見て、「おいにゃ三本しか見えんばい」と言い
たまたま近くを通った近所の人にも「三本杉は三本あるね」と聞いてみた。
近所の人も同じようにみて、「うんさい、相変わらず三本たいね、なしてね」と言った。
「ユミが四本に見ゆってゆうけんさ、おいも目の悪かけん、みてもろうたと」と言って笑った。
近所の人は「おいも良うなかけんね、そいでん三本にみえたばい」と言って去って行った。

「おかしかね、四本に見ゆるとに。そいでん、夕方の影は三本にやっけん、うちが可笑しかとやろうか」
と首をかしげていると、祖母は「遠かけん確認にもいけんたいね」と言った。

それからも、ふと見上げると三本杉は四本に見えたり、三本だったりと私を悩ましたが、遠い場所の木の事なのでそのままだった。

私が四本に見えたと言っていたという話が町で自然と広まって、時々仰ぎ見ている人が居たが、それだけだった。
きっと皆、確認はするものの、やはり三本にしか見えず、「なんだ」と言う感じだったのだと思う。

ある日、衝撃的なニュースが舞い込んだ。
山菜取りに入った人が、偶々三本杉の辺りに行き、白骨を見つけたのだ。
そのニュースは瞬く間に町に広まった。
白骨は性別もわからない位古く、きっと三本杉で首を吊ったのだろうと言う事が分かるくらいだったそうだ。
カラスが騒いだりすれば判りそうな物と誰かが言ったが、田舎の山では獣が死ねばカラスが騒ぐので、まさか自殺なんてだれも思わず、
たとえカラスが騒いだ事があっても気にも留めないのだとも言った。
警察が来て、苦労して登り、又苦労して降ろして行ったと聞いた。
事件などめったに無い田舎なので、暫くその話で持ちきりだった。

祖母は「随分前のものんとんごたって、きっと見つけて欲しゅうてワイに見せたとやろか」そう言って、三本杉を仰ぎ見た。
「なして急に見せらしたとちゅ?」と聞く私に祖母は、「急じゃなかろ、ずっと見せよらしたとに、だいも気づかんやったとやろ、たまたまワイが気が付いたってことやろね」
と言って、ちょっと哀しそうな目で私を見た。
「見らんで良かもんまで見っとやろうね」そう言って仏壇に向かいお経をあげ始めた。

私は「見せられても、なんもしぃえんとに」そう思いながらいつもの様に窓から三本杉を見たが、発見された以降三本杉は三本にしか見えなかった。

田舎のトラップが尾を引いた話し

稲刈りの後の田んぼは子ども達のかっこうの遊び場だ。
広い田んぼを使ってキャッチボールをしたり、バドミントンをしたり、凧揚げをしたりして飛び回って遊んでいた。

 

冬休みの注意は「とっこ積みに登らない事」や「とっこ積みを燃やさない事」と言うのがプリントに書かれていた。
田舎ならではの注意事項だ。

 

「とっこ積み」というのは刈り取って、米を取った後の藁を家の形に組んだものだ。

私も良く、途中の藁を抜いて、くぼみを作り、暖を取ったりした。
藁の中は結構暖かいのだ。
藁を抜きすぎると崩れてしまうので、崩れるかどうかの所でSTOPするのがなかなか難しい。
まるでジェンガの様だったんだなと今気が付いた。

 

この「とっこ積み」は春になると燃やして灰にし、田んぼに撒くための物だと記憶している。
だから万が一燃やしてしまっても、なんとなく「ま、いっか」という考えがあった。
そのためか、時折本当に燃やしてしまう者が出てくるのだ。

 

よく「九州は暖かいでしょう?」と聞かれるが、阿蘇より下は暖かいかもしれないが、阿蘇より北にある県は以外と寒い。
風は冷たく、時には雪も降る。毎朝、霜柱が立ち、子どもは鼻水を垂らし、手足は霜焼けになるくらい寒いのだ。

 

それでも昔の子どもは外で駆け回っていた。
中には一年中半そで半ズボンの男の子達も居た。
しかし、稲刈り後の田んぼで遊ぶには半ズボンはとても危険だ。

 

稲を刈った後は稲株と言うらしいが、鎌で切った後が斜めに切り立っていて、うかつに乗ると薄いズックの底くらい貫通する場合がある。
私は体に刺さった事は無いが、切り傷や擦り傷を作った事はある。
又、足を取られて捻挫する事はざらだ。

 

それでも広い田んぼは魅力的で、毎年転びながら、時には血を出しながら遊んでいた。

しかし、田んぼには稲株よりもっと危険なものが潜んでいる場合がある。


ある、冬の寒い日、私はみっこちゃんとバドミントンをするのに田んぼに行った。
一番広い田んぼはすでに、隣の集落の子ども達が占領していて、三角ベースをやっていた。


バドミントンは余り場所を取らないので、私達は一段上の田んぼで遊び、時折三角ベースを見学したりしていた。

 

隣の集落の子ども達は男女合わせて8人くらい居たと思う。
同級生もいたし、あまり知らない子も居たが、みんな仲良く遊んでいた。

 

同級生の中でJちゃんと言う女の子が混ざっていた。その子は普段あまり男の子達と遊ばなかった子なので、珍しいなと思っていた。
多分、三角ベースをするのに人数が足りず借り出されたんだろう。
普段男の子と遊ばないJちゃんは当然外野を守っていた。

子ども達は田んぼの大きさを承知していて、上の段に入ったらホームラン、横はファールなど独自のルールを決めていた。
だからむやみにボールを追いかけたりしない。追いかけても稲株に足を取られて危ないし、田んぼから落ちる可能性もある。
ボールの軌道を判断しながら追いかけるかどうか決めるのだ。

 

でも、Jちゃんは違った。普段田んぼで三角ベースをしないから、打ちあがったボールを見ながら一生懸命追いかけた。
わたしとみっこちゃんは「あれはファールばい」と判断したが、Jちゃんは判断が付かなかったのかもしれない。
田んぼの縁まで追いかけた。

 

そこでJちゃんに悲劇が起こった。
三角ベースをやっていた田んぼの端で、上の段の田んぼの直ぐ下で、隣の田んぼとの接点になっているところに、ちょっとした平らになった場所があった。
そこにJちゃんが立ったとき、Jちゃんの足元が崩れ、Jちゃんの下半身は見えなくなった。

 

そこは肥溜めだった。Jちゃんは蓋をした肥溜めの上に乗ってしまい、腐っていた蓋を踏み抜いてしまったのだ。
「きゃー」とも「ぎゃー」とも聞こえた悲鳴で私達は声のした方にすぐに駆け出した。
そして、Jちゃんが、肥溜めから出ようとしているのをみて、足がすくんでしまった。

他の子ども達も一斉に駆け出したが、何が起こったのかを一瞬で理解し、皆同じように立ちすくんでいた。


肥溜めは暫く使われていなかったと思われる。

そこに肥溜めがあることを皆知らなかった。もちろん私達もだ。
暫く使われていなかったおかげで、本当の肥溜めの様な匂いはしていなかったが、それでも薄っすらと回りに匂いが漂っていた。

 

Jちゃんは「靴の脱げた。でも取りきれん」と皆に懇願の目を向けたが、誰一人助けようとはしなかった。
同じ集落の他の女の子が遅れて駆け寄ってきたが、「だいじょうぶね、怪我せんやったね」と声を掛けるだけで、近くには寄ろうとしなかった。


Jちゃんは「怪我はしとらんばってん、靴のかたっぽ脱げたと、どがんしゅう」と肥溜めの横に立って瓶を覗き込んでいた。
私とみっこちゃんは上の段から「なんか棒でさらってみんね」と助言した。
誰かが棒を持ってきてくれ、Jちゃんは暫く瓶をつついて、なんとか靴を拾うことが出来た。

一見、Jちゃんは泥に汚れただけに見えた。

しかし、なんとなく匂うその匂いは紛れも無く肥溜めの匂いと言う事を示していた。
同じ集落の女の子が「送って行こうか」と声を掛け、その子とJちゃんはトボトボと帰っていった。
送って行くと言っても、その女の子はJちゃんの二メートル斜め後ろを付いていくだけだ。
真後ろだとJちゃんの足跡を踏むことになるので、避けたのだと言う事が遠目でもわかった。

三角ベースをしていた子ども達は気がそがれたのか、それぞれ勝手にキャッチボールをしたり、肥溜めを覗きに行ったりしていた。


みっこちゃんを見ると、目がニヤニヤして笑いを堪えていた。

私はそれまで、Jちゃんが親に怒られるのではないかと心配していたが、
みっこちゃんの顔見た途端笑いがこみ上げて、二人で大笑いしてしまった。
Jちゃんには悪いが、肥溜めに落ちるなんてかなりレアな出来事だ。
二人は暫く笑いが止まらなかった。
他の子ども達も釣られたのか笑い出した。

 

ひとしきり笑ったあと、皆それぞれの遊びに戻り、その日は家に帰って、その話しをしたが、次の日にはもう忘れていた。

 

しかし、次に学校に行ったとき、Jちゃんの悲劇は終わっていないことに気が付いた。
同じ集落で一緒に遊んでいた男子が言いふらしたのか、Jちゃんのクラスの男子全員がJちゃんの横を通る時ジャンプして避けた。
私は同じクラスではなかったが、みっこちゃんとJちゃんは同じクラスだった。

廊下でみっこちゃんに会ったとき、「Jちゃん避けられよらす。男子が酷かとばい」と教えてくれた。
でも私は特に仲が良いわけでも無かったし、同じクラスでもなかったので、どうする事も出来なかった。

Jちゃんに対する男子の態度はどんどんエスカレートしていき、給食の時間に爆発した。
偶々その週はJちゃんは給食当番だった。

男子達は、「Jさんのよそった給食は食べられんばい、肥溜めの匂いのすっど」と囃し立てたらしい。
Jちゃんはとうとう泣き出してしまった。
騒ぎを聞きつけた担任がやって来て、Jちゃんを連れ出し、代わりの生徒に給食の給仕を任せ、その場を納めた。

給食の時は騒いではいけなかったが担任が戻って来ない事を良いことに、隣のクラスはかなり賑やかだった。
もう直ぐ給食の時間が終わるという頃に担任が戻って来て、給食を急いで食べ、片付けをさせた。
いつもなら給食当番以外は昼休みの時間なので、「ご馳走様」をした後は校庭に出たり、中庭で遊んだりとめいめいが好きに遊んでいいはずだが、
そのクラスは昼休みに遊ぶことは許されなかった。

後でみっこちゃんに聞いた話だが、囃し立てた男子全員を立たせ、一人ひとり、自分が肥溜めに落ちたらどんな気持ちか言わせた。
そして、特に庇わなかった女子もキツク叱られたそうだ。
クラス全員でJちゃんに謝り二度としないことを約束させられ、Jちゃんは午後の授業に出てきたそうだ。


そうしてこの件は一件落着したかに思われたが、実は先生の知らないところで、相変わらずJちゃんは横を通る度に飛ばれていた。
男子は無言で飛ぶ。

女子は巻き添えになりたくないために何も言わない。

そんな日々が小学校を卒業するまで続いた。

そして、それは中学校になっても続いた。


中学校は二つの小学校が同じ中学にあがる。
本来なら知らないはずの別の小学校出身の男子も、同じように横を通るたび飛んだ。
もちろんそういった事を全くしない男子も居た。
でも、やんちゃなグループは相変わらず飛んでいた。


いつだか、なぜそうするのか聞いてみたことがあった。

そしたら別の小学校から来た男子は、他の子がやっているからと答えた。

私は昔の事がいまだに尾を引いていることに驚いたが、

「なんも判らんとにそがんことすっと?」とは聞いたが、それ以上は何もしなかった。


Jちゃんと話す機会があった時に男子の態度について聞いてみたが、Jちゃんは「もう面倒くさかけんほっとくと、なんや言うぎ又なんかされるけん」と言っていた。
強いと思った。私なら耐えられないだろう。
黙っている私にJちゃんは「気にせんで良かよ、優しかね」と言ってくれた。
本当は違う。単なる好奇心で聞いただけだ。
私はバツが悪くなり、「そいぎ」と言って早々に離れたが、後味の悪さだけが残った。

冬の田んぼの映像を目にする時、ふとこの事を思い出しだした。
肥溜めに落ちたJちゃんを助けることもせず笑い、

苛められるJちゃんを助けることもせず、傍観していた自分の冷たさ。
好奇心で聞いてしまった後のバツの悪さ。

それぞれ別の高校に行き、私は東京に出たので、その後のJちゃんの事はわからない。
中学の同窓会にも出てこない。
今なら「あん時は偉かったね」と言えるのに。

 

 

ブッシュ・ド・ノエル

世の中はハロウィンが終わると、年末に向けて徐々に動き出す。
早いところは11月早々からクリスマスイベントの案内が始まって、なんだか「一年が早いなー」って気にさせられる。

クリスマスと言えば思い出すことがある。

私は子どもの頃祖母の事が余り好きではなかった。
理由は色々あったが、とにかく厳しかったからだ。

食事の時の作法は特に厳しかった。

祖母は嫁ぎ遅れたがコックの祖父とお見合いで最初の結婚をした。20歳代後半だったらしい。
祖父は当時、海軍で、将校専用の食事を作るフランス料理のコックだったらしい。

田舎の半農半漁の貧しい家で育った祖母はフランス料理のコックなんて嫌だと言ったそうだが、お見合いを断る事が出来なかったらしい。
祖母は向こうが気に入ってくれたから結婚したと言っていたが、祖父は彫りが深く、現代風のイケメンだった。

結婚当初は軍が与えてくれた宿舎で、昼間はお手伝いさんがいるのでする事は無く、夜は食事だ映画だと出歩く毎日だったらしい。
天皇陛下に食事を出した事があった祖父は当時はかなりの地位だったと言うのが祖母の自慢だった。

子どもができてからもその生活は変わらず、四人の子どもに恵まれた。
しかし、終戦と共に祖父は職を失い、不幸は重なるもので、結核になり入院。そして私の父が小学校に上がったばっかりの頃他界したということだ。

祖母は乳飲み子を抱え途方に暮れたらしいが、幸いすぐに再婚話があり、私の知るじいちゃんと再婚したらしい。
それまでお手伝いさんが居るような生活から小さい饅頭屋を手伝いながら子育てをする生活になったが、元々貧乏の家の出だったので苦労ではなかったと言っていた。

しかし、祖母は先夫の時に食事のマナーで恥ずかしい思いをしたらしく、子ども達に厳しくなったらしい。
私に対しても「外にでて恥ずかしい思いはさせたくない」と思ったらしく厳しく躾けられた。それは私から娘にも受け継がれている。はず。

小学校の頃のある日、友達のお母さんの自慢話を聞いて私は「ハンバーグが食べたい」と祖母にねだった。
祖母は「ハンバーグはよう作らん(得意じゃない)」と言いながらも作ってくれた。
しかし、席について驚いた。ちゃぶ台には洋食器に乗ったハンバーグやスープ、ご飯があり、箸は無く、ナイフとフォークとスプーンだった。
家にこんな食器やフォークなどがあった事にも驚いたが、私はその時洋食のマナーを知らなかったのでどうやって食べるのか困った。
祖母は前のじいちゃんと暮らした時に身に着けたらしく、器用にハンバーグを食べていた。
ナイフとフォークとスープスプーンの使い方を教えてくれたが、私はお腹が空いているのに食べるのに時間が掛かってくたびれてしまった。

祖母は「ハンバーグは洋食の練習するとに良かけん、こがんした。食器も出したけん、いつでんハンバーグやらステーキやら作るばい」と言った。

私は二度とハンバーグが食べたいと言わなくなった。

又、こんな事があった。

お母さんがクリスマスイブにケーキを焼いてくれると自慢していたクラスメイトに何故か対抗して、「うちのかあちゃんでん作りきらすと」と豪語し、クリスマスケーキをねだった。
祖母は「家は仏教徒やっけん、クリスマスは祝わんで良かと、そいにケーキば作るって面倒くさか」と言った。
それでも、「簡単かとで良かけん」と頼む私に根負けして作ってくれた。今思えばケーキは面倒だから無責任な事を言ったと思う。
遊びに行っても、ケーキの事が気になって仕方なかった。
もちろんみっこちゃんに自慢した。みっこちゃんは「良かったたい。ユミんとこの婆ちゃんはなんでんしいきらすね(出来る)」と一緒に喜んでくれた。

そうして、ワクワクしながら夕飯の食卓についたが、出てきたケーキを見て私はがっかりした。
予想したのは丸くて白い生クリームとフルーツやサンタの砂糖菓子が乗ったケーキだったが、祖母が作ったのはロールケーキと、小さく切ったスポンジが飛び出た形に何かでコーティングした茶色いケーキだった。
「なんこい、こいはクリスマスケーキじゃなか!」と私は抗議したが、「これが正しかクリスマスケーキたい、文句あんなら食わんでよか」と叱られた。
私は渋々そのケーキを食べたが、友達になんて言おうかと心配した。

次の日は終業式で、クリスマスイブを祝った子の自慢話が飛び交った。そのクラスメイトは私の所に来て、クリスマスケーキはどうだったかを聞いてきた。
私は祖母が作ったクリスマスケーキを説明し、それが正しいクリスマスケーキだと祖母に言われたと説明した。
しかし、そのクラスメイトは「可笑しか、そがんケーキ、クリスマスケーキじゃなか」と囃し立て、「あんたのかあちゃんは本当は婆ちゃんやっけん知らっさんとやろう」と馬鹿にして言った。
私は悔しかった。なぜ自分は普通の家庭ではないだろう。なんで私にはお母さんが居ないのだろう。
事あるごとに思っている疑問と不満で泣きながら家に帰った。でも、家に着く前に泣き止み、そのことは祖母には言わなかった。

三学期になってクラスに入ると、クリスマスケーキで意地悪を言った子が「おはよう、あけましておめでとう」と言って来た。
私は二学期の終業式の事があったので、「おはよう」とそっけなく言った。
その子は「あのばい」と言ってもじもじしながら私の席から離れようとしなかった。私は又意地悪を言われるのかと思って「なん」とちょっと怒った様に顔を見た。
その子は「クリスマスケーキの事ばってんくさ」と言いにくそうに切り出した。
私は忘れていたのに何を蒸し返すんだと思って相手の言葉を待った。多分かなり不機嫌な顔をしていたと思う。
「ごめんね、婆ちゃんやっけん知らっさんとか、クリスマスケーキじゃなかとか言うて」と謝ってきた。
私はびっくりし、意地悪を言われると構えていたので、肩透かしを食らった気分だった。
その子の説明によると、その子は家に帰ってその話しをしたらしい、
そうしたら母親に「それはブッシュ・ド・ノエルと言うクリスマスケーキで、ユミちゃんとこの婆ちゃんは正しいし、それを知っている婆ちゃんはハイカラだ」と言われたそうだ。
そして、「婆ちゃんやっけん」と意地悪を言った事を怒られたそうだ。
私はにっこりして「良かよ、気にせんで」と言い、その子はほっとした顔をして離れて行った。

私はその話しを聞いて嬉しかった。
家に帰って祖母にその話しをして、クリスマスケーキじゃないと言った事を謝った。
祖母は「ふん、おいはあれしか知らんだけたい」と言って、コックの祖父が作ってくれて、二人で食べた時の話をしてくれた。
戦況が良く、食料があった頃の祖母の裕福な生活に私は憧れ、いつも勝手な想像をしていた。
私の想像の中では、写真でしか見たことの無い祖父と祖母はいつか見た映画の様な二人だった。

クリスマスの頃になり、ブッシュ・ド・ノエルを見ると何故か想像の中の祖母と祖父がお洒落な格好をしてクリスマスの街を歩く、まるで白黒映画の様な光景を思い浮かべる。

方言通信 Vol1

私が育った場所は九州は佐賀の片田舎だ。
どちらかと言えば長崎寄りの伊万里と言う町で私は育った。
昔は栄えたらしいが、これと言った産業も無く、観光客も来ないので、商店街もシャッター通りと化している。
商店街にあった「黒澤明サテライトスタジオ」は閉館してしまったらしい。観光の目玉になるばずだったのだが残念だ。

方言についても、「九州弁>佐賀弁>伊万里弁」と言う具合に使われる方言も地域や出身によって違っていて、同じ市内でもちょっとずつ違いがあった。
私の祖母は「山代」と言う地区の出身なので、更に狭い範囲の方言を使っていたと思う。
その祖母に育てられた私もしかりだ。

そんな方言を想い出す順に紹介していく。
これを知れば九州弁はバッチシだ。但し、狭い範囲に限られるので、応用は各自に任せることになるのであしからず。

まずは基本

代名詞や指示詞の「あれ」「それ」などは語尾が「い」になる。
「あれ」「それ」「これ」「どれ」→「あい」「そい」「こい」「どい」と行った具合だ。
ただし、感動したときや、驚いたときに使う「あれ」は「ありゃ」と言う場合がある。
又、人称代名詞も同じく「れ」が「い」になる。「おれ」→「おい」といった具合だ。

指示詞で「の」が語尾の場合も基本は「い」になるが、「ナ行」は「ん」に変わる場合が多いので注意が必要だ。

感嘆や疑問を表す場合は言葉の最後に「と」がつく事が多い。
有名なのがタモリが良く言っていた「とっとっと?」だ。「取ってるの?」の意味だ。
それ以外に「しっとーと?」や「しっとっと?」と使う。意味は「知ってるの?」だ。
「とーと?」と伸ばすのは博多弁に近い。テレビで方言女子などの紹介では必ず「すいとーと?」とやっているが、
私が居た田舎では「すいとっと?」と伸ばさず使う。
ちょっと伸ばすと同姓に「カワイコぶってる」とか博多にカブレテいると思われるので要注意だ。

否定をする場合は「ん」に変わる場合が多い。語源は古文の「ぬ」らしい。
「せん」「こん」「けん」は「せぬ」「こぬ」「けぬ」から変化したと古文の先生が言っていた。
意味ま「しない」「こない」だが、「けん」だけは他の言葉とあわせて更に強調して使う。

後、混乱するのが、「行く」と「来る」だ。
私も上京したての時はこれの使い方で混乱した。
私が住んでいた地方は、「明日はマックで待ち合わせね。10時には行くからね」と言うのを
「明日はマックで待ち合わせやっけん。10時には来っけんね」と言う。
自分が向かう事を「来る」と言うのだ。勿論相手にも使う。そして「行く」も同時に使うので、「行く」と「来る」を混在させて話す事になる。
初めて聞いた人は人称がわからなくなり混乱するらしい。

そういえば、ちょっと前に「でんでらりゅうば」と言う歌と手遊びが全国的に流行った。
NHKの子ども番組で紹介されたそれは、長崎のわらべ歌だ。
と言っても長崎に近い伊万里でも普通に歌っていたので、長崎と紹介されていて、私は「へー初めて知った」と思うとともに、「長崎だけのもんじゃなかろうもん」とちょっと思った。
何しろ田舎出身者は地元の事が絡むと途端に心が狭くなる。
郷土愛と言う名の固執だ。まぁそれは置いといて、「でんでらりゅうば」だが、この歌も「行く」と「来る」が逆の意味で使われている。

『でんでらりゅうば でてくるばってん でんでられんけん でーてこんけん こんこられんけん こられられんけん こーんこん』
(出てくる事が出来るなら、出て行くけど、出ることが出来ないので、出て行かない、行く事が出来ないので、行けない、だから私は来ないよ)

こうなるともう慣れしかない、娘が「みんな意味わからないから呪文だと思ってるよ」と笑っていた。

しかし、これはあくまでも基本形だ。(と思う)
私が覚えているのは、もっと長かった。

『でんでらりゅうば、でてくるばってん、でんでられんけん、でてこられんけん、こんこられんけん、きーけられんけん、しーきられんけん、いーえられんけん、こーんこん』
だったと思う。
途中までは一緒だが、『きーけられんけん』以降は、
(行けない、出来ない、言えない、だから来ないよ)となる。
言葉遊びだけど、すべて否定になっているところが面白いと思う。
調べてみたら元は長崎の丸山町の遊女の手遊びが発祥だったらしい。だから否定的な心情を唄ったのだろう。
そう思うと、わらべ歌も奥が深い。

なんだか散らかってしまったが、方言の説明になっただろうか。
今日はここまで。
今後も思いついた時にまとめてみたいと思う。
そいぎ!(それじゃぁ)

紅葉

先日、東京の奥にある秋川、桧原村でキャンプをした。
紅葉には少し早かったが、夜は冷え込み、焚き火を囲んで延々飲んで食べると言うのはキャンプならではだ。

 

保育園に通っていた頃。保育園の庭に紅葉した葉っぱが沢山落ちていて、それを使ってままごとをした。
赤や黄色の葉っぱはどれも綺麗で、私は夢中になって集めた。

葉っぱを沢山集めて、その上にバサッと倒れこんだり、両手いっぱいに抱えて、空に振りまいてみたり。
日に翳してみたり。楽しくて飽きなかった。

そんなある日、遊んでいる途中で顔や腕がとても痒くなった。
それはあっという間に広がり、全身に発疹が出来たため、保母さんに送られて家に帰った。
祖母は赤くはれた私の顔を見るなり、「こりゃ漆じゃなかね」と言い、送ってくれた保母さんに園庭に漆の木が無いか確認するように頼んだ。

漆は園庭では無く、山に生えていた。保育園の入り口近くの山を切り開いて駐車場にしている場所がちょっとだけ崖の様になっていて、
その上に漆の木があり、葉っぱを駐車場に散らしていたのだ。

私は園庭の色んなところから葉っぱを集めていたので、その中に漆が混じってしまったらしい。

祖母は早速、例のまじないで全身を吹いた。

でも急な事だったので、精進していない。
それでも少しはマシだろうと言い何度も私の顔や手に口に含んだ水を吹きかけた。


以前も書いたが私はそれが嫌いだった。
全身の痒さと吹きかけられた水の臭さで気分は最悪だったことを今でも覚えている。

 

その夜は高熱を出した。
祖父は病院に連れて行ったが良いのではと言ったらしいが、近所には夜中に診てもらえる病院は無い。
救急車を呼んで遠くの町まで運ばれるしか夜間診療はできないのだ。
祖母は救急車を呼ぶまでも無いと判断し、その夜祖母は寝ずの看病をしてくれた。

 

翌朝高熱では無くなったが、発疹は酷くなり、火傷の様な水ぶくれが出来た。
水ぶくれが潰れて、その汁が綺麗な皮膚に付くとそこも発疹が出来た。
そのため、元気にはなったが遊ぶことも友達に会うことも禁じられ、数日は家から出してもらえなかった。

 

保育園の先生がお見舞いに来てくれた。

漆にかぶれた原因は保育園にあると言って、菓子折りつきで謝りに来たのだ。
祖母は「よくあることやっけん、そがんせんで良か」と言いながら、先生が持って来た菓子折りを遠慮していたが、最後は受け取っていた。

先生が帰った後、「まんじゅう屋に菓子ば持って来るった、気が利かんね」とブツブツ言いながら仏壇に供えていた。
私は日頃から饅頭じゃないお菓子に憧れていたので、直ぐに食べたいとせがんだ。
いつもなら数日は仏壇にお供えするのだが、全身を腫らしている私を不憫に思ったのか、直ぐにお菓子を出してくれた。

菓子折りは水羊羹だった。
祖母は「なんね、季節はずれも良かとこたい、それにお寺のくせに、ケチくさかね、お中元の残りモンやなかとね」と更に文句を言っていたが、
熱っぽい私には冷たい水羊羹は食べやすかった。
「ユミが食べやすかごと水羊羹にさしたとやろ」と祖父に言われ、

祖母は「ふん、どがんか判らんたい」とそっぽを向いた。

 

それから水疱がかさぶたになって、保育園に行くようになっても、祖母による治療は続いた。
とにかく毎日が拷問だったのを覚えている。

 

しかし今考えると私を治療する間は祖母は肉も魚も絶っていたのだからありがたい話だ。
その治療が効果あったのかどうかわからないが、私は跡も残らず綺麗な肌に戻った。

 

漆にかぶれた以外にも、水疱瘡や麻疹に罹った時も祖母の治療を受けた。
勿論そのたび拷問の様に感じていたのは言うまでも無い。

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漆の紅葉した写真を見て、「これこれ」と私も思い出した。
漆の木の葉っぱはとても綺麗だ。
漆に触ってもかぶれない人がいると聞くが、かぶれた場合の辛さは尋常じゃないので、写真を見て覚えたほうが良いと思う。
と言っても、今はちゃんとした医療機関で、ちゃんとした薬で治療するのだから、そんなに恐れることは無いかも知れない。

 

私は今でも、湿疹が出来た時に「あー良く吹いてもらったな」と祖母を想い出し、届くところなら、呪文はわからないが、息を吹きかけてみる。
そのたびに、「あの呪文をちゃんと教われば良かった」と少しだけ後悔するのだ。

改宗とお墓の引越し

以前書いたが私の家の仏壇は三つの宗派が同居するという、今にして思えばかなりヘンテコな状態だった。
祖母が出会った謎の僧から受け取ったのは弘法大師の像で「真言宗」、前のじいちゃんの宗派が「曹洞宗」、そして私の知るじいちゃんが亡くなった
タイミングで、宗派替えしたため「浄土真宗」となった。

曹洞宗」の時は、お寺が近所にあったし、保育園も経営していたので、私はその保育園に通い、お寺のイベントにも参加していた。
保育園ではブッダの劇で傷ついた鳩の役と、涅槃の時に集まる動物の役をやった。(本当はブッダにミルクを届ける娘がやりたかった)
除夜の鐘も撞きに行き甘酒を飲むのが楽しみだった。
花祭りには甘茶を貰いに行った。お稚児さんをやりたかったが、檀家の女児の中で何故か私だけ選ばれなかった。
夏休みには毎朝座禅を組みに行った。座禅の後はお粥をいただき、禅宗の作法を習った。
(ちょうど今ドラマでお坊さんの話をやっているが、本当に音を立ててはいけないのだ。)

そんな風に生活の中で自然と曹洞宗と関わっていたが、改宗に伴い、各イベントには行かなくなった。
お寺の人は「好きな時に来ていいんだよ」と言ってくれたが、
祖母は「お寺の行事は檀家さんの物で、行ったら行ったで何がしかお布施ば包まんばいけんけん」と言って参加させてくれなかった。

そんなある日、近所のお寺にあった前のじいちゃんの墓を移すことになった。
大叔父とその息子達が来てくれて、墓を開け、骨を拾いに行くと言う。
祖母は「ユミも連れていかんね」と言って、私に一緒に行く様に言った。
私は墓を開けて、骨を拾うなんて嫌だと言ったが、「なんば言いよっと、じいちゃんの為たいね、そいに良う知っとる山やろうが、叔父さん達ば案内せんね」と言われた。
しかし、私は前のじいちゃんの墓が何処にあるか知らなかった。墓参りに行った記憶が無かったからだ。
祖母は、「小まか墓やっけん良う探しんしゃいね」と言って大まかな場所を教えてくれた。

場所を聞いて私はびっくりした。お寺兼保育園の墓地は良く知っていたはずなのに、じいちゃんの墓がある辺りはかなり上の方なので行った事が無かった。

保育園の庭から墓地に続く道があり、良く遊びに行っていた。
手前の方には大きな墓があり、お盆の時期はお供え物が沢山あげてあった。
子どもの頃、お供え物はお墓にきちんと手を合わせれば頂いても良いと思っていたので、虫に食べられる前に良く頂戴したものだ。
そして大きな墓は御影石が冷たくて、夏は腰掛けて涼んだりもした。
もちろん、よじ登ったりすると怒られるのだが。

そんな墓地の敷地の上の方に前のじいちゃんの墓はあった。
登っていくにつれ、道は段々細く、険しくなり、草もぼうぼうに生えていた。
やっとの思いで着いた最上段の墓地は、一部が土砂崩れで壊れた墓があったり、参る人が居ないのか、多くの墓が朽ちていた。

また、下の大きな墓とは大違いで、小さい墓石が多かった。
「この辺やっけどなぁ」と叔父が示した辺りは、墓石の足元の地面が半分崩れていた。
「よう探さんば、かっかえとー(落ちている)かも知れん」そういいながら皆で探したが、なかなか無かった。
私は足元が緩くなっているため、用心して下を覗いた。墓地の下は針葉樹が植わった斜面で、あまり良く見えなかったが、何か無いかと身を乗り出した。

とたん、私の足元が滑り、私は斜面を滑って落ちてしまった。
「なんしよっとか、危なかたい」と叔父は斜面の途中でこらえている私に声を掛けたが、斜面の途中で私との中間ほどにある埋もれた墓石を見つけ、その石を確認するように言った。
私は滑る斜面に苦労しながらもその石にたどり着き、泥を手でどかしながら刻まれた文字を読んだ。

はたして、その墓石は前のじいちゃんの物だった。

叔父は私に手を貸して引き上げた後、墓石を引き上げ、その墓石があったと思われる辺りを少し掘った。
そうすると割れた骨壷が見つかった。
骨壷には名前が書いてなかったが、他の墓と墓石の数を数えたりして、叔父は間違いないと確信し、その骨壷と割れた箇所からこぼれたと思われる土まみれの骨を拾った。

家に戻り、お骨を祖母に渡しながら、「やっぱいユミば連れて行って良かったばい」と行った。
祖母は「そうね、役にたったね」と問い、叔父から墓が見つかった経緯を聞いた。
「やっぱい、血の繋がっとうけんね。こがん時教えらすとかも知れんたい」と言った。

年寄りは迷信深く、何でも霊のせいや、妖怪や物の怪のせいにしたりする。
祖母は特にそういった事を強く信じていた。
おかげで、普段なら服を汚すととても叱られたのだが、その日はドロドロになった私に黙って着替えを出してくれた。

そうして前のじいちゃんの骨は新しいお寺の納骨堂に後のじいちゃんと仲良く一緒に葬られることになった。

納骨堂は分厚い扉を開けると正面に大きな観音様の立像があり、小さい3段ほどの戸棚が通路と壁を作っていた。
祖父達の棚は入って右側奥の下段だったと記憶している。
お彼岸やお盆や命日にはお参りに行っていたはずなのに、その場所がいっこうに覚えられなくて、私は毎回探したものだ。
納骨堂の古い木の匂いと線香が染み付いた匂いは入ったとたん、いつも私を不安にさせた。
入るといつも複数の誰かに見られている様な気がして落ち着かなかった。

祖母が亡くなった時、四十九日に叔父達と一緒に納骨をしに来た。
久しぶりに入った納骨堂は相変わらず古い木の匂いと、線香の匂いがした。
でも特に視線は感じなかった。大人になって感受性が減ったからなのだろうか。
小さい扉の中に骨壷を三つも入れるとギュウギュウで、ちょっと可哀相な気がしたがそこは我慢して貰うしか仕方ない。

その後、叔父が「お参りが大変だから」と言う理由で埼玉の自宅の近くの霊園にお墓を建てた。
最初の祖父にしてみたら二度目の引越しだ。
今回は全員飛行機で移動だ。
もし魂があって、祖父達の魂がまだ近くに居たとしたら何と言っただろう。
最初の祖父は「今度こそ落ち着くんだろうね」と思ったかもしれない。

墓を引越しした事でもうあの納骨堂には行くことが無くなった。

それはそれでちょっと寂しい気がしたが、他の色んな記憶と同じ様に、田舎に置き去りにするしかない。

 

新しい霊園の墓は叔父達も入る事を見越してそれなりの大きさだった。
「今度はゆったりだね」と私は手をあわせた。
叔父は祖母が亡くなった時に仏壇も新しくしてくれていた。多分のあの像も位牌も過去帳も移したと思う。
結局三つの宗教が同居する奇妙な仏壇になっているのかもしれない。

父に、「あの仏像は叔父さん家にあるんだよね」と確認したが、「多分」としか帰って来なかった。
「お父さん貰えば良かったのに」と言ったら、「あれは俺の手に負えないから良いんだ」と言った。
そして、「あの像の事はタツオ(叔父)には黙っとけよ」と言われた。
「なんで」と聞くと、「何にも知らないほうがいい事もあるんだよ」と言って悪い顔をした。

実は私は叔父の家に行った事が無い。墓参りには行くが、仏壇に手をあわせたことが無いのだ。
行くべきかどうかと思った事もあるが、「ま、墓参りしてれば良いさ」と一度も行く機会が無かった。
あの仏像がちゃんと叔父の所にあることだけでも確認したいのだが、叔父に切り出せずにいる。
変に切り出して理由を聞かれても困るからだ。

今回ブログを書くことでしっかり思い出してしまった。
これは会いに行くべきなんだろう。
そう思うと何だか怖くなって、「すみませんが、もうしばらくお待ちください」と誰にって訳ではないが心で念じてみるのだ。

 

蛙と言えば・・・・

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ブログを書くようになって一つの事柄から別の記憶が呼び起こされる。不思議だ。
続けたらボケ防止になるななどと我ながら感心している。

蛙と言えば思い出した事がある。
小学校の理科の時間で蛙の解剖をやることになった。

「来週は蛙の解剖ばすっけん、班で蛙ば持ってくるごと」と先生が言った。
「おー、おいね、捕まえっと得意かばい」と自慢する男子や、「捕まえきれるかわからん」と言う女子などがいた。
そこで手を挙げて発言したのがN君だ。
「先生、おいが皆の分捕まえてくるばい、うちの田んぼにようけおるけん」と言った。
普段は大人しいN君が自分から手を挙げて皆の分の蛙を用意すると宣言したことに先生は驚き、又喜んで、
「そいぎ、N君に頼もうかな、皆良かったたい、N君にお礼ば言うごと」と褒めた。
皆は口々にお礼を言った。
N君は照れくさそうに、「まかせんしゃい」と頭を掻いた。

次の週、いつも早めに教室にいるN君がいつもより遅かった。
仲のいい男子が「どがんしたとちゅ、休みやろか」
「いや、蛙の重たかとやなかか」などと話しをしていた。

ホームルームが始まる少し前、N君が教室に来た。お父さんと一緒だ。
お父さんは大きなポリバケツを重たそうに運び込んで、帰って行った。

ポリバケツは普段は農薬を溶かす為に使われるような黄色の大きな物だ。
都会では水色のゴミバケツくらいの一回り大きい位の大きさを思い浮かべて欲しい。

N君は誇らしげに、「重かったけん、父ちゃんに車で運んでもろうたとばい」と言った。
男子が蓋を開けると、そこには予測どおり蛙が入っていた。
ウシガエルと言われる大きな蛙だ。

ホームルームの時間になり先生が入って来た。
「先生、蛙のよんにゅか(沢山)ばい」と誰かが言った。
先生は教室の後ろまで来てバケツを覗き込み、一瞬怯んだ様に見えたが、
「N~、こがんは要らんばい。班に一匹で良かったと」と先生は笑いを堪えながら優しく言った。
N君はちょっとびっくりした後、「おい、一人一匹て思いよった、昨日一日頑張って獲ったとに」と哀しそうに言った。
先生は隣のクラスに蛙が必要か聞きに行った。幸い隣のクラスは明日が解剖の日だったのでまだ準備していないとの事で、
私のクラスと隣のクラス併せて15匹ほどの蛙は使うことになった。
先生はバケツやら、水槽やらをかき集めて、解剖用の蛙を選びだし、残りは逃がしてくるようにN君に言った。
N君は残念そうに「はい」と答え、数人の男子達と蛙達を学校の裏の田んぼとの堺になっている用水路に捨てに行った。

蛙は全部で50匹ほどいたらしい。
バケツはいっぱいで、下のほうの蛙は既に死んでいるものもいたと手伝った男子が言っていた。
それでも解放された蛙は元気よく田んぼに帰って行ったと言う。

解剖の時間までN君はしょげていたが、解剖を始める前に先生が
「頑張ってくれたN君に改めてお礼ば言うばい」と皆で声をそろえて「N君ありがとう」と言い、
「そして、命をくれる蛙と、死んでしまった蛙に合掌」と手をあわせた。

近年では解剖はやらないらしいが、私が子どもの頃はフナの解剖と蛙の解剖を経験している。
勿論フナも自分達で調達した。ホームルームの時間を使って、近所の川に釣りに行った。
釣れたかどうかは記憶に無いが、解剖はした記憶がある。
旦那は都会の小学生だったためか、区の施設まで行き、ネズミの解剖をしたことがあると言っていた。
ネズミは小学校で行うには衛生面的にも大変なのだろう。保健所のような所だったと言っていたが、流石都会は違うなと思う。

理科の時間が減らされていて、解剖にも賛否両論ある昨今だが、私達はこうして命の大切さを学んだような気がする。

ちなみに食用カエルはウシガエルだ。田舎には沢山居た。モーモー鳴いていたっけ。
しかし、解剖が唐揚げの後で良かった。解剖が先立ったら唐揚げを吐き出してしまったかもしれない。

カエルを食すと言うと、ゲテモノ喰いみたいに思われるが、カエルやヘビの方が古来から食されていて、
実は豚や牛を食べるほうが、150年くらい前まではゲテモノ喰いと言われていたのだ。

花札の一枚にもなっている小野 道風(おの の みちかぜ)の柳とカエルの逸話も、もしかしたら
「あー腹減ったなぁ」なんて最初は思ったのかも知れない。