碧い鱗

青が好きです。魚の体を覆っている鱗の様に今の私を形成している想いでや出来事をチラチラと散りばめて書こうかと・・・

田舎の事件3

つい先日、私の田舎で事件があった。
田舎の事件の話を書いていた矢先だったのでびっくりした。

事件のあらましはこうだ。
福岡で内縁の妻と乳児の息子を殺害し、自分の実家の近くの田んぼの畦道に遺棄。
出生届けが出されていた子どもが小学校に入学していなかったため、自治体が警察に報告。
報告後4年かかって今回の事件が明るみに出た。

と言う事らしいが、ここで疑問が起きる。
出生届けが出されていれば、小学校にあがる前に何度も検診や予防接種が行われるが、検診をしない子どもに対して行政は何も思わないのだろうか?
小学校に入学していないとわかってから4年も経ってしまったのは何故だろうか?
11年前と言えば「住民基本台帳ネットワーク」が既にあり、入転出も直ぐにわかるはずで、その気になって調べれば、生まれた子どもが何処にも転出していなく、
行方不明になった事が、少なくとも三歳児検診で判ったのではないだろうか?

この手の事件が起きると、なんのためのシステムなのだろうと思う。
どんなにシステムを整備しても使う側の人間が、縦割りだなんだと言って、ちゃんと使わなければただの無駄遣いだ。
11年も土の下に埋まっていたなんて、哀しすぎるとニュースを見ていて思った。

そして、やはり今回の事件で一番思った事は、事件があった町は当然知っている場所で、複数の同級生の家の近くで、
去年には火野正平NHKの「こころ旅」で、視聴者の手紙に誘われ訪れた場所の途中の町だ。(ちなみに投稿者は同級生だった)
テレビで見たときに、火野正平の案内で国道沿いが写った。その時は「あー懐かしいなぁ、あんな上までは行った事が無かったけど、この辺りは知ってるな」
なんてのんきに録画した番組を観ていた私だ。
そんな懐かしい田舎の風景が事件などで放送されると、驚きと共に、とても哀しく思ってしまう。
加害者には会ったことは無いが、中学校の後輩にあたるらしい。それも又なんとも言えない残念な気持ちになってしまう。

私だけでは無いと思うが、自分の田舎では凶悪な事件が起きて欲しくない、嫌、起きない、と心のどこかで思っている。
心の中にある田舎はいつも美しくあって欲しいからだ。
そう書いていながらこの感情は「うちの子に限って」と思うのと一緒なのかも知れないと気づいてしまった。

結局、いつも悪いのは人間で、弱い人の心なのだろう。

そんな弱い私と、最後までこの文章を読んでくれた方に、ここで一つ、最近知った「中川昌蔵」さんと言う人の著書の中で書かれているらしい、「幸福になるためのソフト」を紹介しようと思う。
これは以前にも書いた杉山響子さんのブログの中で紹介されている事柄で、彼女のブログも同時に紹介しておく。
ちなみに私は中川氏もその著書も知らないのだが、この文にはとても惹かれていて、さっそく私もパソコンで作ってトイレに貼ろうと考えているのだ。


「幸福になるためのソフト」

一、今日一日、親切にしようと思う。
一、今日一日、明るく朗らかにしようと思う。
一、今日一日、謙虚にしようと思う。
一、今日一日、素直になろうと思う。
一、今日一日、感謝をしようと思う。

実行しては駄目です。
意識して実行すると失敗します。

「のろ猫プーデルのひゃっぺん飯 おかわりっ!」

http://ameblo.jp/podel1007/

 

田舎の事件2

私が小学生の時、田舎で大事件が起きた。
それはプール開きの少し前、同じ県内のある町の小学校のプール用トイレの浄化槽の中から遺体が発見されたのだ。
その事件の話は全国ニュースになり、私の住む町にも瞬く間に広がった。
しかし、同じ県内と言っても名前も知らない様な場所で起きたので、いつものニュースと同じように「えすかねぇ」位で見ていた。

が、その事件は他の場所でも起き、連続殺人として取り扱われることになった。
当時、連続殺人事件なんてテレビのドラマの中でしか知らなかった私は、同じ県で起きたと知って、妙に興奮したのを覚えている。
大人たちの心配をよそに、子どもは盛り上がっていた。

プールの浄化槽と言うのは学校の外れにあり、盲点だったと言う事から、近隣の全ての学校の浄化槽の点検が行われることになったらしい。
私の小学校でも念のためすべての浄化槽の点検が行われることになった。
浄化槽は所謂汲み取り式トイレが溜まるところで、地下に埋められ、外にマンホールの取り出し口がついている。
マンホールの蓋は重く、普通そこを開けるのは汲み取り業者のみだ。
地元警察の立会いの下、汲み取り業者と学校の先生が共同で作業を行った。

学校が休みの日に行われたのだが、物見高い子どもはわざわざ学校に出向き、遠巻きに作業を見ていた。

「どうせ何もなかたい」と噂する子ども達が見つめる中作業は進み、運動場の横にあった資料室の外トイレの浄化槽が開けられた。
いや、トイレと言うより便所だ。
いかにも「トイレの花子さん」が住んでいそうなその便所は一人で入るには怖いため、滅多に使用されない。

このトイレが最後だったので、飽きて運動場を駆け回る子や、帰る子が出始めていた。
その時、作業をしていた誰かが「あっ」と声を出した。
途端に緊張が走り、警官が「そーっと、そーっと」と指示を出していた。

「なんかあったとちゅ?」と皆そちらを注視しているが、だれも側に寄ろうとはしなかった。
それもそうだ、浄化槽をさらうと言う事は臭いも相当なものだからだ

警官がシートの上に置かれた物の一部に水をかけているのが見えた。
そして屈んで観察したと思ったら、教師と一緒に走って職員室に消えた。
業者はとりあえず作業を続けていたが、遠巻きに見ている私達にも緊張が伝わって来た。

近くまで見に行っていた男子が戻って来て、興奮した顔で「骨ばい!骨の出たごた!」と言った。
私とみっこちゃんは「えー」と驚くしか無かった。まさか自分の小学校の浄化槽で骨が見つかるなんて思っても居なかったからだ。
いや少しは期待したかも知れない。もし全国ニュースになるような事になったらどうしようと、何だか私達も興奮した。
男子は「テレビの来っばい!」とか「おい写りたか」とか勝手な事を言っていた。
見かねたみっこちゃんが「何ば言いよっと、誰かの死なしたかもしれんとば、殺人鬼のおるかもしれんとば」と怒って言ったが、
「殺人鬼は男は狙わんけん、おいは大丈夫くさ」とか、「もし来たらおいが戦こうて捕まえるばい」とか益々興奮して埒が明かなかった。

そのうちサイレンと共にパトカーが何台も来て、おまわりさんがトイレの周りに立った。
校長先生も来た。これは本当に事件になるのでは無いかと思って私達は作業を見守っていたが、
点在して見守っていた所に先生がやって来て家に帰る様に言われた。
男の子達は抗議したが、当時の子どもにとって、先生の言葉は絶対だった。
特に家が遠い私とみっこちゃんは早く帰る様にキツク言われた。

私達は仕方なく学校を出て、それでも暫くは学校の裏門の所から様子を見たりしながら、それでも夕飯前までには家に帰った。
家に帰って直ぐにその事を祖母に伝えた。
祖母は「そいぎ、夜のニュースで流れるかも知れんけんNHKにせんば」とチャンネルをNHKにした。
しかしその日のニュースでは流れなかった。
祖母は「まだ調べる事のあっけんニュースにせんとかも知れん」と言った。私はその時はその意味がわからなかったが、警察がニュースにしたくなかったのだとうと言われなるほどと思った。


次の日、学校に行ったらクラスでは昨日の話で持ちきりだった。
私もその場に居たことは先に来ていた男子によって伝わっていたのか、教室に入って直ぐに、昨日見に来なかった子から「あんたも行ったと?見たと?」と聞かれた。
「うん、そいでん何かわからんやった」と答えたが、その子は「見たと!えすか!」と大げさに騒いだ。
実際に骨だと確認した男子が「あいは小さかったけん、こまか子どもかも知れん」と言うと、女子達は顔を覆って悲鳴を上げた。

先生が入って来て朝の会が始まったが、興奮した生徒達は口々に、「先生、昨日のとか、ほんなごて骨やったと?」とか、
「あのトイレはどがんなっと?」と言った。「はいはい、今から説明すっけん静かに」と言われ生徒は先生の言葉を待った。

先生は生徒を見回し、「昨日、運動場の横のトイレの浄化槽の中から骨が見つかりました」と告げた。
途端、悲鳴や興奮の混じった声が漏れたが、先生が続きを言うために制したので、生徒は口に手を当てながら次の言葉を待った。
「骨は出たばってん、あの骨は人では無く犬でした」と続けた。

息を殺していた子はため息を吐き、男子の中には「なーんや」と言う子が居たり、「良かった」と言う子が居たりで、騒然となった。
先生はそんな生徒を制止、「犬やったばってん、犬が自分で入る訳なかろう?蓋は閉まっとったけん」と言った。
「先生、そいでん便器の方から落ちたとかも知れんです」と誰かが言った。
「そいはあるかも知れん、そいでんおいは誰かが犬は捨てたとやなかかと思いよる」そう先生が言うと、又生徒がざわついた。
「そいでさ、犬って聞いて思い当たらんね?」と問うた。
皆はハッとした。

最近学校に野良犬が住み着いていた。主に可愛がっていたのは上級生だったが、私達もたまにパンをあげたりしていた。
その犬を最近見かけなくなった事は皆知っていた。先生は続けた。
「あの犬かどうか判らんばってん、最近おらんやろ?おいはもしかしたらと思うとる」
皆しーんとなった。想像の域を出ないことだが、無い話ではない。
すすり泣く子も居た。

「テレビだ」と騒いでいた男子も俯いていた。
その日の最初の授業は急遽道徳の時間になり、「命について」勉強した。

昔は何かあると直ぐ「道徳」の時間になった。課題を読み、何が悪いことか、何がいけないことか、議論しあったりした。
最近は「道徳」の時間より理科の実験の時間より英語やダンスや算数の時間が多くなっていると聞く。
だからなのか、未成年による凄惨な事件が多いのは。
もちろん道徳の時間があっても事件は起こる。でも昔は少なくとも「殺してみたかったから」との理由で同級生を殺めたりしていなかったはず。
そして、教師による事件も増えた。子どもに道徳を教育しながら、実は教師も勉強していた時代だったのかも知れないと詮無い事を考えてしまう。

その後、犬を浄化槽に入れた犯人が誰だ、など憶測は飛び交ったが、結局は犯人はわからず、ただ「運動場脇のトイレから犬の骨が出た」という事が学校の怪談の様に残った。
そして、連続殺人犯も捕まっていないと思う。
願わくば、こうやって思い出した私自信がこの事を小さな棘として感じたのだから、あのときのどちらの犯人も大きな不安を抱えていて欲しいと思うのは叶わない事だろうか。

田舎の事件

田舎ではちょっとした事件でも大騒ぎになる。
パトカーや救急車や消防車の音が聞こえることが滅多に無いので、たまに聞こえると何処だか知りたくなって、皆、窓から見たり、表に出たりして確認する。
田舎は遮るものが少ないので、けっこう遠くのサイレンの音も聞こえる。
それで、そのサイレンが近づいてきたらもう大変だ。
祖母と二人ソワソワして音の方向を聞き分けようとする。

ある時、夜中に町のサイレンが響き渡った。
このサイレンは滅多に鳴らないので、私は最初何の音だかわからなかった。
祖母は直ぐに飛び起き、「何のサイレンね!」と窓を開けた。
サイレンと共に半鐘が聞こえて来た。
「かあちゃん鐘のなりよる」と私はおびえて言った。
この音は知っていた。遠くで鳴っているのを聞いた事がある。
「火事たい!何処ね」と見渡すと、百メートルほど離れた家から火が見えた。
真っ暗な夜の事なので、窓から出ている火は、ことのほか赤々として見えた。

「酒屋の裏ばい」と言いながら祖母は寝巻きを脱ぎ、普段着に着替えていた。
「見に行くと?うちも行く」そういいながら私は上着を来た。

祖母と二人表に出ると、隣の人も出ていた。
「Cさんは?」と祖母が聞くと、「もう行っとろう、団員やっけん」と隣の叔母さんは言った。
そうだ、町の若い、と言っても、60代くらいまでを指すのだが、男との人は病気や事情が無い限り、全員消防団員に入っている。
勿論みっこちゃんのお父さんも入っていて、玄関の土間には消防団の分厚い半纏とヘルメットがいつもで使えるように掛けてあった。

火事の起きた家は坂の途中の家で、私の家の道からは少し上に見える。
消防団員の人が川から水を引いて放水しているが、火はいっこうに収まる様子では無かった。
里のほうから消防車の音がした。消防団より大きい車がこちらに向かって走ってくるのが遠くに見えた。
私は興奮していた。いや私だけではない、町の人が火に照らされ興奮したような顔をしていたと思う。
見回すと、お寺の子も、みっこちゃんも居た。
ちょっと離れた集落からも人が見ているのが判った。
皆遠巻きながら火事の様子を心配と興奮の入り混じった顔で見ていた。

間もなく消防車とパトカーが到着し、銀色の服を着た消防隊員が降りてきて、消防団員と共に消火活動を行おうとした時、
「ボンッ!」と言う大きな音と共に、火柱が上がった。見物していた町の人は一斉に「おお!」と声を上げた。
火柱は10メートル以上、いやもっとあったかも知れない。
盛大な火の粉と共に大きく空に伸びた火柱は、一瞬だったはずなのに、しばらく私の目に焼きついた。
誰かが「プロパンガスの爆発たい」と言った。
田舎はプロパンガスが普通だった。我が家でもそうだ。店をやっていた頃からプロパンガスは使っていたと思う。
私はプロパンガスが爆発するとかなり大きな音がする事を始めて知った。

その爆発から程なくして火は鎮火し、町の人たちも銘々帰って行った。

次の日、焼け跡が見える場所までみっこちゃんと行った。
そこには元の家がどんなだったか思い出せ無い位、黒い瓦礫しかなかった。
田舎は家と家が離れているため、隣家への延焼は無く、そこだけポッカリと黒くなっていた。
幸い死傷者は無かったようだが、火事は本当に恐ろしいと、それから何年もその火事の事が語られ、あの火柱の事を思いだしたものだ。

またある夏の日、サイレンが再び鳴った。
長雨が続き、さらに台風が押し寄せてきたある日、土砂崩れの恐れありとサイレンが鳴ったのだった。
私の家は山からの道が交差する辺りにあった。
そのため、道路は川のように流れ、床下浸水していた。
前日から浸水に備え、土嚢を積んだりしていたが、土砂崩れは防ぎようが無い。
土砂崩れが警戒され、その流れが到達しそうな家屋の者は全員公民館に避難するよう消防団員の半纏に身を包んだ近所の叔父さん達が触れ回っていた。

我が家も警戒地域となった為、祖母と二人公民館に避難した。
暴風雨の中、避難するのもやっとだったが、なんとか公民館にたどり着き、他の家族と無事を確認しあった。

台風は唯でさえ興奮するものだが、公民館に避難と言う日常とは違う様子に子ども達は興奮していた。
炊き出しが行われ、大勢でご飯を食べた。
最初は興奮していた子ども達も、畑や田んぼを気にする大人の会話に次第に神妙になって行った。

公民館にはテレビがあった。でも本当ならアニメを見る時間でも、テレビは常に台風の状況を知るためにニュースだけが点けられていた。
子ども達は次第に飽き、眠るもの、仕方なくニュースを見るもの、勉強するものとバラバラだった。
私は祖母と一緒にニュースを見ていた。
ニュースでは台風の進路図が写され、自分達の町に台風が近づいてくるのが判った。

外は暴風雨が鳴らす木々の音と、公民館のきしむ音と、サイレントが鳴り響いている音で、不安を掻きたてた。
そのうち、停電になった。
一瞬皆「わっ」となったが、そこは昔の人間で田舎の事。大人たちは慌てず持って来た懐中電灯や、蝋燭で明かりを点けた。
蝋燭の揺れる灯りに照らされて皆不安そうな顔をしていたが、いつしか子ども達は眠ってしまい、私も眠ってしまった。

台風は夜のうちに過ぎ、起こされた頃には日が差していた。
公民館の雨戸を開け、皆それぞれ自分のうちに帰っていったが、それからが大変だった。

土砂崩れは私の家の直ぐ近くまで流れていて、水の引いた土間は泥だらけになっていた。
山の方の家では納屋が潰され牛が二頭、山羊が一頭生き埋めになったと聞いた。
その牛や山羊は良く餌をやりに行っていた牛で、牛の大きい澄んだ目が好きだった。
山羊はどこを見ているのか判らない目だったが、牛より自由に小屋を歩き回り、柵に前足を掛けて草をねだったりしてくれた。
牛は餌をあげるとジッと顔を見ながら手から草を食べてくれ、山羊は鳴き声で喜んでくれていた。(勝手にそう思っていただけかもしれないが)
だから牛と山羊が死んだと聞いて、私は「もうハイジごっこが出来なくなった」と哀しくなった。

台風で避難した日は学校は休校だったが、台風一過の朝から学校はあった。
と言っても、給食センターが使えないので午前中だけだったが、家が大変じゃない子ども達は全員ではないが学校に向かった。

学校に着くともっと大変な事になっていた。
グラウンドは湖の様に水が溜まり、当時汲み取り式だったトイレが溢れ、早くに来た先生達により、消毒が撒かれ、そこらじゅう臭かった。
子ども達は担任と一緒に一階の教室を掃除して回った。勿論トイレも掃除した。
最後は手足を消毒までした。

汲み取り式のトイレが溢れると衛生上はとても危険だ。今ではそんな状態の時に子どもが掃除をするなど、到底考えられないことだが、当時はそれが普通だった。
給食が無いので午後には帰宅するが、帰りの挨拶の時、校長先生からのお礼のジュースが届けられ、子ども達は褒美を貰って得をしたとご機嫌で帰って行った。
考えてみればジュース一本で学校中の掃除をしたのだから安いものだ。

次の日からは通常授業だったが、話題は先日の台風でどれだけ大変だったかだ。
「おいんとこの裏ん山のば崩れてさ、もう少しで家の潰されるんごたった」とか、「田んぼのにきの川の氾濫してさ、稲ん浸かったっさい」とか、農家の被害は大きかった様だ。
その中でも、土砂崩れで公民館に避難したのは大きな事で、私は自慢げに話したものだ。
「サイレンのくさ、ウーウーなってえすかった(怖かった)」とか、「停電になったけん蝋燭ん中眠れんやった(本当はいつ寝た判らず気がついたら朝だったが)」とか大分誇張して話した。
家の近くの牛と山羊が死んだ話になると、農家の子ども達は自分の家の家畜の事を思い「可哀相か、苦しかったやろうね」と涙ぐんだ。

台風は木を倒し、稲を倒し、瓦を飛ばし、甚大な被害を残して去って行ったが、今は東京に住んでいる私にとって、時折来る強烈な台風は今では想い出の一つだ。
東京では救急車のサイレンは日常で、よほど近くに止まらない限り気にもしない。
台風は思うほど酷くなく、電車だけが混乱するが、いつも「なんだ、大したことない」と思ってしまう。
消防車だけは例外で、家と家がくっついて建っている東京ではちょっと遠くの火事でも油断は出来ないと思う。

そうしてすっかり都会暮らしに慣れた私だが、台風が来るかもと、雨風が強くなってくると何故かワクワクしてしまい、台風一過の朝は突き抜けたような青空を見上げ、鼻の奥で消毒の匂いを感じるのだった。

神様のお使い?

幼い頃の事を書いていると益々望郷の念が強くなるのは歳のせいだろうか。
一つの記憶から引きずられて、また一つ思い出した事がある。

中学生の頃、地元の歴史を調べる授業があり、放課後や休みの日に地元の名所に行き、歴史を調べた。
私達の班は「松浦党」の事を調べたと思う。
平安時代から戦国まで地元に居た「戦闘武士集団」といえば聞こえが良いが、まぁ、海賊まがいだと思う。
そういうと非難されるかも知れないが、祖母に聞いた時も海賊と言っていたのだから仕方ない。

その海賊、もとい戦闘武士団の一部の末裔が平戸藩主になったわけだけども、
私達の地元で古くから住む人は殆どがその松浦党の子孫らしい。
かく言う私の祖母もそうだ。昔は家に槍や刀があり、その名残があったらしい。
まあ、本家の場所を考えると多分足軽位の身分だったんだろうと思われるが。

その松浦党に縁のある神社に取材をしに行った時の事だ。
そこには樹齢年百年と言う楠木があって、古い神社だと言う事は知っていた。
でも、小学校の近くだったため、歴史有る神社という認識は無かった。

班で集まり、一通り取材をし、最後に写真を撮った。
誰かがカメラを持ってきていて、カメラを触るなど珍しい時代だったので、交代で写真を撮らしてもらった。

現像が出来上がった頃又集まって、模造紙にレポートを書き上げた。
写真を選んでいると神社を写した一枚に不思議な物が写っていた。

神社の屋根の上に誰かが立っているような白い影があった。
「なんこい!誰が撮ったと?」とカメラの持ち主が皆に聞いた。
「うちやなか、うちは楠ば撮ったけん」他の子が覗き込んで言った。
「神社ば撮ったと、だいやった?」と私を見た。
「うちかも知れん・・・」と私は答えるしか無かった。
そう、神社を正面から撮ったのは私だ。
「やっぱいね」とその子は言った。
「やっぱいって何?」
「やっぱいって、わいやっけん心霊写真になったとやろうもん」とその子は断定して言った。
「そがん、そいが心霊写真てわからんた、光の加減かもしれんし」そう私は反論したが、誰も心霊写真と言って聞かなかった。
「こがんとばレポートに貼るぎなんじゃ言われるけん、こいはどかすばい」とその写真は使わないことが決まった。
「この写真どがんすっと、もっとって良かと?」と別の子が聞いて来た。
「何の写ったとやろうか、悪かとやろか?」と心配そうだ。
「どがんね、ユミ、悪かとね」そう聞かれ私は写真をよく見た。
写真の中の白い影は悪いものでは無いと思った。さっきは自分で光の加減と言ったが、明らかに人の形をしていたそれは心霊写真といえるだろう。
私は「心霊写真かどうかわからんばってん、悪か感じはせん」と言った。あくまでも自分が心霊写真を撮った事を認めたくなかったからだ。

「どがんすっぎ良かね?」と聞かれ、「わからんけん神社に持って行くぎよかとやなか?」と返事した。
何となく、神社の宮司なら何とかしてくれるのでは無いかと言う勝手な想像での発言だった。

後日、カメラの主はその写真を神社に持って行ったそうだ。
普段その神社で宮司らしき人を見かけた事は無いが、その子は偶然にも掃除に来ていた関係者に私事が出来たと言っていた。
写真を見せて、何だか判らないので納めたいと告げたところ、その関係者は、
「久しぶりに見ましたばい。時々写るとばい」と特に驚いた様子ではなく、受け取ってくれたそうだ。
その関係者が言うにはこの白い影は神社では神様のお使いだと思っているそうで、
この姿を納めると良いことが起きると言っていたそうだ。

カメラの主は「良かこつってなんちゅ!」と喜んでいたが、私は「神社にとって良か事で、うち達じゃなかと思う」と思ったが、
とても嬉しそうに話すその子には言わずに置いた。

その後良いことがあったかと言うと、そうでもない。
でも悪いことも起きなかったので、それはそれで良かったと思った。

神社に纏わる話は他にもある。

私が住んでいた町は県の外れなのだが、県堺の山には巨石信仰の名残の岩がある。
山の中の雑木林の中に幾つのも巨石が屹立していて、子どもながらに不思議に思ったものだ。

小学校の遠足と子供会の遠足、あとはつつじが沢山植わっているので、花見にと、年に数回は行く公園があるのだが、その公園の奥にその巨石がある。
ある時、それは子供会の遠足の時だったか、みっこちゃんと他数人とでその巨石まで行った。
その巨石は登ることを拒否するかのように取っ掛かりもほとんど無い岩だ。
しかし、私達は裏に回ったり、木を使ったりして何とかその岩に登ることを試みていた。

複数ある岩のどれかでも登れないかとみっこちゃんと私は隣の岩、また隣の岩と周りを見ながら探していた。
そして、やっと登れる岩を見つけたのだ。
その岩は裏側に階段になっているように石が積まれていた。
と言ってもその石もよじ登らなければいけない高さだった。
私とみっこちゃんは何とかその石を使ってやっとの思いで岩に登った。
その岩に立つと眼下に町と海が見え、景色がとても良かった。
私とみっこちゃんは他の子に教えてやろうと、周りを見渡した時、不意に下から「眺めがよかろう?」と聞こえた。
見ると、こんな山の中に不釣合いな白いシャツを着た青年が見上げていた。
私は「うん、がばい良かばい」と答えた。
するとその青年は「眺めは良かけど、登ったらいけんよ」と言った。
私とみっこちゃんはちょっと先生の様なその言い方に、素直に「はーい」と答えた。
名残惜しくもう一度景色を見てから降りようと振り返ったらその青年は既に居なかった。
上から周りを見渡しても青年どころか白いシャツも見つけ切れなかった。
「あすとんは?」とみっこちゃんに聞くと、「もうおらっさんばい」と首をかしげた。

遠くで集合の笛が聞こえたので、私達は慌てて岩を降り戻った。

後で聞いたのだが、公園の横から雑木林を抜けると気がつかないが、道路から入る場所があり、そこは「文殊さん」といってちゃんと祀られている場所だった。
周りには無いのに、なぜかそこだけに巨石があり、昔から信仰の対象になっていた場所らしかった。

それにしてもあの青年は誰だったのだろうか、異様に足が速く、あっと言う間に道路の方に抜けたのだろうか。
私とみっこちゃんは青年は人では無かったのでは無いかと結論付けた。
きっと神様の使いで、注意しに来たんだと思ったのだ。
なぜ使いで、神様ではないのかと言うと、神様は勝手に年寄りだと思っていたからだ。
見るからに若かった青年はきっと神様のお使いなんだと言う事で二人は納得したものだ。

次にその公園に行く機会があった時、私は登れる岩を探した。
しかしいくら探しても足がかりがあった岩は見つからなかった。
みっこちゃんにそれを話すと「危なかけん石ばどかさしたとやなか?」と言ったが、
私は何となく、そうじゃないと思った。

その後も何度かその場所に行ったが二度と岩に登ることは出来なかった。
公園には展望台があり、良い景色を眺める事が出来るのだが、あの岩から見た景色のほうが、もっと良かった。

来年の春に又帰省する予定だが、その公園に行くかは決めてない。
もし行く機会があればもう一度巨石を尋ねてみよう。
そして叱られるかもしれないが、岩に登ってみよう。
そこからの眺めを写真に撮れるといいなとお願いしてみよう。

入れない場所・・私にとっての立ち入り禁止場所

コックリさんの記事を書いていて思い出したことがあった。
たまにだが、行きたいと思っても、どうしてもたどり着けなかったり、入れなかったりする場所がある。
そういう場所は私にとって行ってはいけない場所だと今は認識しているが、昔はよくわかっていなかった。


中学三年の修学旅行は、熊本・鹿児島・宮崎を回るバス旅行だった。
鹿児島のある場所で昼食のためバスを降りた。
通された場所には薩摩・鹿児島出身の偉人の肖像画が沢山あった。
私はぞっとした。肖像画に見られている気がしてならなかった。
おかげで、食事が喉を通らなかった事を覚えている。

昼食後は「城山公園」に行くことになっていた。
私は昼食の場所に寄った以降体調が優れなかった。
それでも先生に報告するまでも無い位だったので普通に目的地で降りた。

当時はあまり歴史に興味が無かったので、その場所については「西南戦争があった場所」位の認識で、
西南戦争」がどんな出来事だったのか知らなかった。

バスを降りて、駐車場から公園に入る道の途中で声が『行くな』と言った。
しかし修学旅行の行程なのだから行かないわけにはいかない。
「大丈夫でしょ」と頭の中の声に返事をし、私は歩き出した。
ところが、道を進むにつれ吐き気が酷くなって来た。
一緒の班の子が、「顔色の悪かばい、大丈夫ね?」と心配するくらいだった。
「大丈夫ばい、ゆっくり行くけん」と答えたが、吐き気と共に頭痛もして来た。
「やっぱいバスに戻ったが良かよ、結構歩くごたっけん」と言って班長は私をバスまで送り届けてくれた。
バスに戻り、席で座っていると直ぐに頭痛も治まり、吐き気も弱くなった。
引率の保健室のお姉さんが「車酔いかね、暫く休みんしゃいね」と気遣ってくれたが、皆が戻ってくる頃にはすっかり治っていた。

後で聞いたが、公園に行った生徒の中で何人か体調が悪くなった人も居たらしい。
私は公園にさえ入れ無かったのでたいした事は無かったが、もし強引に行っていたらどうなっていたか分からない。

ここで「西南戦争西南の役)」について説明する気は無いが、のちに西郷隆盛切腹した場所だと知った。
そして公園にある西郷洞窟なる場所は昔から心霊スポットで有名だったらしい。

それ以来、心霊スポットには極力行かないようにしている。
それでも知らずに行こうとしてしまう事がある。

若い頃、旅行で日光に行き、「華厳の滝」に行くことになった。
その日は快晴で紅葉の季節でもあり、観光バスも沢山来ていた。
車で向かっていたのだが、当然道は混雑していた。
それでも仕方ないと友人は車を走らせていた。
田舎者の私は「華厳の滝」がどういうものか知らず、ただの滝くらいに思っていた。

もう直ぐ駐車場という時に、霧が出てきた。山の天気は変わりやすい。
友人は「混雑時に霧は危ないなぁ」と言ったが渋滞の列の中どうする事も出来なかった。
仕方なく待っていると、前方から警備員が各車に何かを言いながら降りてきた。
何事かと聞くと、「駐車場の近くで転回中のバスが故障し、道を塞いだまま動けなくなった。いつ直るか判らないので、駐車場にいつ入れるか判らない」との事だった。
見ると、他の車のうち何台かはその場でUターンして降りていく様だ。

「どうする?」と友人に聞かれ、私は「うーん、なんか行くなって言われている気がする」と答えた。
しばらく考えた友人は「どうせ霧で景色も期待出来ないから戻ろう。腹も減ったし」と私達はUターンする事にした。
そして麓に下りた頃、それまで微動だにしなかった渋滞の列がどんどん進みだした。
立ち往生のバスが回復したのだろう。
何となく悔しい気がしたので、どうするか考えたが、友人が「今回はケチが付いた気分だからやめにして他の場所に行こう」と先ずは麓のレストランに入った。
レストランは空いていた。レストランの人に聞くと、さっき動き出したと観光バスが移動したので、お客も慌てて登って行ったとのことだ。
おかげで私達はゆっくり昼食をとることが出来た。
又レストランの人はこうも言っていた。「急に霧がでると事故も多いんですよね。そういう時を狙ってわざと来る人も居ますけど、感心しません」と
どういう意味だろうと思ったが、後に「華厳の滝」が心霊スポットと知り、レストランの人の言葉の意味も判り、「ああ、行かなくて良かった」と思ったものだ。
華厳の滝」の様な場所は快晴より曇りや霧が出たほうが心霊写真が写りやすいらしい。

とにかくうかつに心霊スポットには行ってはいけないと思う。
もし、そこに何かが居て、憑いてこられたら大変だ。
自分で祓う事が出来る人は良いが、生憎私にはそんな力は無い。
だから行かないに越したことは無い。

夏に訪れる心霊スポットブームはテレビで見ているだけで十分だ。
大抵は「??」と思う写真や場所だが、時々見ただけで身の毛が立つような本当にヤバイものもある。

そうして私は「うわーこんなの流して大丈夫?」と安全な場所でつぶやくのだ。

 

やってはいけないと言われていることをやった結末・・こっくりさん3

宿泊所に着き、二泊三日の研修が始まった。
研修と言ってもメインは九重山への登山が最大の目的だったと思う。
もちろん他にも何か研修があったが全然覚えていない。

一日目の夜。部屋は四人から六人部屋だった。夕食後だったか、風呂の後だったか忘れたが、消灯までの時間に
女子が集まり、おしゃべりしたり、写真を撮ったりしていた。

二段ベットに群がり、ポーズを取ったりして交代で写真を撮った。
カメラを構えていたある子が「撮るよ~はい、YMCA」と言って撮った直後「キャー!」と悲鳴を上げた。
「どうした?」と聞くと、フラッシュを焚いた時窓の外に何か居たと言うのだ。

皆慌てて窓に駆け寄った。カーテンが半分くらい開いて、外が見えていたが、既に外は真っ暗だ。
叫び声をあげた子が、「窓ガラスに手をついて中を覗いていた」と説明したが、窓に手の跡とかはなく、勿論誰もいなかった。

そもそもベランダなどは無く、窓にタオルを干すくらいの手すりがあるだけで、人が立てる幅はない。
周りや上下を見渡しても誰かがいたような形跡がないため、みなぞっとして顔を見合わせた。

「見間違いやなかと?誰かの影の反射したととかさ」と誰かが言ったが、そのこは絶対に違うと言い張った。
上の階の男子のいたずらではないかと言う子も居たが、階下に外から身を乗り出しても窓に手を付く位まで降りるのは無理だ。
なぜなら、その建物は玄関側は駐車場もあり、平坦だが、裏側は石垣の上で、一段高くなっている。下は木が鬱蒼とした森だ。
どんな配置だったかは忘れたが私達の部屋は裏側に面していて、二階か三階だった。

男子の部屋は更にその上なので、ロープで窓から吊り下げないと無理だ。

そんな大掛かりないたずらをするとは思えない。

やはり幽霊なんじゃないかとなった。
今と違って、撮った写真を直ぐに確認できない。
一人が私に聞いた。「なんとおもう?幽霊?」そう聞かれても困るのだが、頭の中の声は『地縛霊』と教えてくれた。
それを伝えると、皆益々おびえ、半分喜び、「きゃー、どがんするぎよか?」と更に聞いて来た。
声は『入っては来ない』と教えてくれた。

又、『話をすると寄って来る』とも言われたので、皆に伝えた。

「ユミのおって良かった」と誰かが言った。「ユミのおっけん来らしたとやなか?」と言う子も居た。
私はなんとなく自分が居るから来たのでは無いかと思ったので申し訳ない気持ちになった。

 

当然この事は直ぐに広まった。

噂とはいい加減なもので、帰る頃には霊を呼んだのは私のせいになっていた。
別のクラスの子が「幽霊ば呼んだよやろ、凄かね~」と耳打ちして来た。
「そがん事しとらん、写真ば撮った子が呼んだとかも知れんし、元々のとが偶々来たとかも知れんし」と反論したが、
「またまた、良かて、隠さんで」と意味深な笑顔で去って行った。

帰りのバスで、行きに信号当てをした男子が「わい、幽霊も呼びゆっとか、そいぎ、UFOも呼びゆっとやなかか?」と言って来た。
幽霊とUFOは全然違うだろうと思ったけど、面白ければ何でも良いと思っている男子には通用しない。
男子は勝手に色々言っていたが、仕舞いには「こいになんじゃすっぎ祟られるぞ」とまで言われた。

私は祖母の言葉を思い出した。こんな力は人に見せびらかす物では無いのだ。
私はちやほやされたかったのかもしれない。
その日以降、誰かに探し物を聞かれたとしても「もうおらっさんけん判らん」と言ってやり過ごすことにした。
「本当におらんごとなったと?」と幼馴染のみっこちゃんにも聞かれたが、みっこちゃんはおしゃべりだ。
だから私はみっこちゃんにも「うん、おらっさん」と嘘を吐いた。

コックリさんも流行らなくなり、皆の関心も薄れていった。なにしろ中学生の流行はあっという間だ。


私は時々声と無言で会話をした。寂しい時や哀しいときは慰めになった。
嬉しいときは一緒に喜んでくれた。
時には叱ってくれる時もあった。

結果私は声の正体を掴みきれないまま、それから3年ほどその声と過ごすことになる。
それは良い時もあれば、鬱陶しく思う時もあり、又、自分は頭がおかしくなったんじゃ無いかと思う時もあった。


高校生になった時、ある晴れた何でも無い日、声は言って来た。
『もう行く』
私は何の事かわからなかった。考えてみれば声を聞くのは久しぶりだった。
「行くってどこへ」そう聞きなおしたが返事は無かった。
その代わり、頭の中の一部が急に軽くなったような、霞が晴れた様な気がした。
私は「ああ、本当に居なくなった」と悟った。
途端に寂しくなり、心細くなった。頭の中で幾ら声を掛けても無駄だった。

今でもあれは一体なんだったのだろう思う。
きっと、多くの人は、思春期のアンバランスな心が生み出したものじゃないかと言うだろう。
それか、何かにとり憑かれていたのではと思ってくれる人も居るかもしれない。
でも、自分では憑かれたというより、誰かが側にいてくれたと言う感覚だった。

発端はコックリさんだった。
勿論あれ以来私は二度とコックリさんをしていない。

私の場合は悪いものでは無かったが、どんな物が来るのか分からないのだ。
世界中にコックリさんの様なものがあるが、どうなるのか試してみてとは絶対に言わない。

やってはいけないと言われている事は、やっぱり、やってはいけないのだ。

やってはいけないと言われていることをやった結末・・こっくりさん2

その日以降、私はふとした時に誰かの声が聞こえるようになった。
最初は気のせいだと思った。頭の中で別の自分が答えているのだと思った。
当時は多重人格と言う言葉も知らなかったし、所謂、「自問自答とはこう言う事か」位に思っていた。
だから最初は特に誰かに相談する事も無かった。

どんな風に聞こえるかと言うと、たとえば「あれ、この道だったっけ?」と思った時に「右だ」と答えてくれたり、
ボーっと信号待ちをしている時、信号が変わったからと咄嗟に踏み出そうとしたとき、「止まれ」と危険を教えてくれるときがあった。

私は頭の中で聞こえるその声に次第に慣れていき、自分から質問したりするようになった。
声は答えてくれる時もあれば、全く沈黙する時もあった。
そして、時折意味不明な言葉とも音とも言える時もあった。

私はテストの時に答えが聞けないものかと試してみた事があったが、そういう時は決まって、声は沈黙するのだった。
「使えない」そう私は思ってしまったが、何となく声の主の事が知りたくなった。
声は家に戻ると聞こえなくなるのも不思議だった。

私は一緒にコックリさんをやったNに相談してみた。
「あのばい、あん時コックリさんて、ちゃんと帰らしたと思う?」
「あん時?あん時さ、Mの手ば離したろ?そいけんイカンっち思いよった。何?なんかあったと?」とNも実は不安だったと答えてくれた。
「あれからばい、声の時々聞こえるっちゃん」
「え、気のせいやなか?」と言ったが、真剣な私の顔を見て、
「気のせいやなかとね、そいで何て言わすと?」
「何てって言う感じじゃなし、ちょっと迷った時、こっちとか駄目とか・・・」私は説明が難しいと思った。
Nは「なんそい、便利かた!」と言った。
「そいでん、テストん時は何も言わっさんとさ」とちょっと笑って付け加えた。
「なーん、そいは使えんとね、そいでんその声の通りにしたらおうとる(合ってる)と?」
「大抵はおうとる。でん、違う時もあるとさ」
Nは少し考えて「そい、帰っとらっさんとかもしれん、どがんすると?」
「どがんしーゆか判らんと」
「無視するぎ、そのうちおらっさんごとならんかな(居なくならないか)?」
「そいはわからん。そもそも誰ちゅ?」
「うーん判らんね。暫く様子見たら?ごめん、そいしか言いえんばい」
確かそんな内容の会話だったと思う。私は他の人には言わないで欲しいとお願いし、暫く様子を見ることにした。

声は大きかったり、小さかったり、不明瞭だったり様々だった。
でも最初は一言、二言だったのが、次第に文として聞き取れる様になっていった。

ある日祖母に何気なく聞いてみた。
「コックリさんて知っとう?」
「しっとるばい」
「あれって誰の来らすと?狐の神さん?」そう聞く私に祖母は「フッ」と笑って、
「狐さんなもんか、呼び出す側の力によって色んなとの来ると、狐さんの来るごたんなら大した力ばってん、大概はもっと位の低か霊た」
と言った。
私はそれを聞いて怖くなった。
「位の低か霊ってなんね?」
「大体が動物霊やろうね、神様になりきれんやったとか、成仏しきれんやったとかが、悪戯したりするったい」
「そいぎ、コックリさんで答えらすとて、おうとらんと?」
「おうとる時もあるかも知れんけど、大抵気まぐれやっけんね。なんね、コックリさんばしたとね」
「うん・・・・」私は祖母には嘘がつけないと思って、そう答えた。だが声がする事は言わないで置こうと咄嗟に思った。

「変なかとの来るぎ厄介かけん、せんごと」
「どがん厄介か事になっと?」
「そりゃよう判らんばってん、狐憑きんごとなるかも知れん」
それを聞いて私は益々怖くなった。

狐憑き」の話は小さい頃祖母に聞いた事があった。
祖母曰く、「狐憑き」は低級な狐の霊や狸や人の霊が取り付いて、宿主を操ろうとする恐ろしいもので、
祖母が子どもの頃、狐憑きになった人が近所に居たと言っていた。
周りの人は気味悪がり、その人はお嫁にも行けず、早死にしたと聞いている。
その人の話は何度も聞いていたのだが、大正時代の話で、科学と迷信が半々だった頃だったため、病気なのを「狐憑き」と家族も
本人も思い込んでしまったんじゃないかと祖母は言っていた。
祖母だって「狐憑き」については半信半疑だったのかもしれない。

それでも「狐憑き」は子どもの私にとって、とても怖い話の一つだった。

私は子どもの頃の怖かった気持ちを思い出したが、声の主はそういったものとは違うと何故か思った。
祖母には声の事は黙ったまま、何とか自力で声の正体を知りたいと思った。
でもその事を頭の中で語りかけても、いつも返事はくれなかった。
それ以外の事を聞けば、何かしら返事をくれるのに、自分の正体については明かしたくないと思っているかのようだった。

社会化見学で、湯布院にバスで行った時の事だ。
行きのバスで、私は後ろのほうの席に座っていた。その近くの同じ小学校出身の男子が、
「わいさ、霊感のあっと?」と声を潜めるように聞いて来た。
私は「なん、そい?」と聞きなおしたが、「隠さんで良か、わいのばーちゃんもまじないばさすた、そいけん、わいにもあっとやろうもん」
土地は広いが、有る意味狭い田舎の事だ、祖母のまじないの事を知っている人は居た。
「みっこも言いよったばい、ユミには霊感のあるって」
それに私が体験したことを幼馴染のみっこちゃんは大体しっていた。
だから小学校が同じ子達は、みっこちゃんの言葉に納得したのだろう。
「そがん霊感て、虫の知らせのあったぐらいたい」私は当たり障りの無いような返事をした。
しかし男子は、「わい達、この間コックリさんばしたとやろ、そん後わいの霊感の強うなったって女子の言いよったばい」と言った。
私は驚いた、所詮「内緒」というのはこんなものだ。大抵だれかから漏れる。
確かに私はあの日以来、予言めいた言葉を発した事があったかもしれない、でもそれは頭の中の声が言った事を口に出してしまっただけで、
私自身の霊感が強くなったわけでは無かった。
私は説明に困ったが、自分自身が霊感少女と噂されるのは困るので、頭の中で、(どうしよう)と相談してみた。
答えは(うまくやれ)だった。
悩んだ私は、男子に「あのさ、うちの霊感じゃなしにば、たまに聞けば教えてくれる時のあっと」と説明した。
男子は「だいの?」と驚いて聞いたが、「だいかわからんとさ、そいけんあんまい聞くぎ怖かた?やっけん最近は聞かんごとしとっと」
男子は「そいはコックリさんの居らすとね?」と眉を寄せたが、「コックリさんとは違うと思っとるとばってんね」
男子は更に声を潜めて「そすとんは(その人)は何でん教えらすと?」と聞いて来た。
私は(あ、何かに聞きたい事があるんだ)と思ったので「何でんやなか、出来事は教えらすばってん、人の心とかは教えらっさん」と答えた。
「そうや・・・」と男子はちょっとがっかりしたようだ。
私は「そいにさ、テストの答えとかは教えらっさんばい」と声に力を込めて付け加えた。
これは重要な事だ。霊感を使ってテストを受けたなんて思われたらたまったもんじゃない。
男子は「ふーん、そいぎ、役に立つごた、立たんごた感じたいね」といい、納得してくれたようだった。
私はちょっとホッとして座りなおしたが、男子は思いついたように「そいぎ、これから何か当ててもらわん?」と言い出した。
「え、なんば?」
「うーん、例えば信号とか、次の信号の色とかどがんね」と良い思いつきの様に目を輝かした。
私はどうしようと思ったが頭の中で(やろう)と声が聞こえたので、「良かばい」と答えた。
それから信号が見える前に色を伝えた。時には連続で言う事もあった。
色は次々と当たった。男子はそのたび「おー」と声を出したが、私はこんなの三つしかないから別段凄いとは思わなかった。
それでも男子は喜び、「今度なんか考えとくけん、教えてくれんね」と言った。

こうして中学一年の社会化見学は始まった。
でも不思議な事はこれだけではなかった。

・・・・つづく・・・・