碧い鱗

青が好きです。魚の体を覆っている鱗の様に今の私を形成している想いでや出来事をチラチラと散りばめて書こうかと・・・

方言通信 Vol2

九州弁(と言っても私の住んだ地方限定)で、単語が違う物がある。
それをいくつか紹介しよう。

【ビッキ】 意味:蛙
これは以前書いた事があるが、ビキタンとも言う。ビッキは蛙全般の事を言い、「青蛙」など固有も指す場合は使わない。

【ひゃー】 意味:ハエ
今では年寄りしか使わないかも知れない。

余談だが、東京に来てから事、先輩の実家に遊びに行った時、先輩のお父さんが「ひゃー食え」と昼ごはんをすすめてくれたが、私は「ひゃー?そんなのが入っているのか?」と驚き、
手を出さずにいたら、「今母さんが半殺しするから」とも言われ、益々躊躇してしまった事があった。
先輩にどうしたと言われ、「ひゃーはハエの事で、ハエを半殺しにした料理なのかと思った」と言ったら盛大に笑われた。
「ひゃー」は「早く」の意味で、「半殺し」は「オハギ」の事らしい。
先輩の実家は山梨県都留郡だった。所変われば方言も変わるものだと再認識したものだ。

【はちがめ】 意味:カブトガニ
鉢を被っているように見えるからだと説明されたが、何故カメなのかはわからない。
昔は海でよく見かけたが最近は数が減っているらしい。時々調査団が来たりしていたが、上京してからは水族館でしか見たことが無い。

【てんげ】 意味:手ぬぐい
祖母はタオルもハンカチも一まとめに「てんげ」と持っていた。手に提げるという意味だと聞いた。

【ちょんごろまい】 意味:ヒイラギという魚
煮物や南蛮漬けになって食卓によく上がったこの魚の正式名称を知ったのは大人になってからだ。東京では手に入らないので、又食べたいと思う。

【カチガラス】 意味:カササギ
カササギは白黒のカラスだ。鳴き声が「カチカチ」と言うのでついたそうだ。毎年春になると電信柱に作った巣の駆除が風物詩だった。
東京には居ないと聞いて残念に思った。佐賀県の県の鳥に指定されていたと思う。

【くちなわ】 意味:ヘビ
ヘビ全般に対して使うが、蛙と同様「青大将」「マムシ」など固有名詞を指す場合は使わない。

【とんぴん】 意味:ミミズ
特に太くて長いミミズに対して使う。釣り餌に使う赤ミミズはそのままだ。

【かんげ】 意味:髪の毛
「かんげの長ごうしてやぐらしかごたる」と使う。「髪の毛が長くて鬱陶しそうだ」の意味。「の」が「ん」になった例。

【はちがぶり】 意味:ゴキブリ
伏せた茶碗(鉢)の中から出てくるからついた名前と聞いた。【恥かぶり】(恥被り)と似ているため言葉遊びで使ったりした。

【おんちゃん】 意味:オジサン
女性の場合は【おばっちゃん】(オバサン)と呼ぶ。

【つ】 意味:かさぶた
逆に「かさぶた」と言う言葉を知らなかったくらい普通に使われていた。

【ふーけもん】 意味:ボケているの意味。私は「呆け者」から来ているのではと思っている。
馬鹿ともアホとも間抜けとも微妙にニュアンスが違う。
「そがんふーけとるけん忘れ物すっと」(そんな風にぼーっとしているから忘れ物するんだ)と使う。

【手まぜ(する)】 意味:手で髪をいじったり、スカートやズボンをいじったり、鉛筆や消しゴムをいじること。ペンを回すことも含まれる。
例)「こら、そこ、手まぜせんで話ば聞かんか」

【もー(する)】 意味:おしりを持ち上げた状態
例)「もーせんばお尻の拭けんばい」

【えーくらう】 意味:調子に乗ってフラフラする、大変な目に会う
例)「あすとん、えーくろうとるけん注意したが良かよ」「昨日の障害のせいでば、えーくろうたとさ」
例)「あいの、あがんえーくろうとるけんがくさ、いっちょん仕事の進まんとさ、そいけんごっとい、後でおいがえーくらうとば」
訳)「あいつが、あんな風に調子に乗ってフラフラしているから全然仕事が進まないんだよ、だからいつも後で俺が大変な目にあうんだよ」

他にもあるかもしれないが今は思い出せない。
もしかしたら未だに方言と気づかず使っているのかもしれない。

語源はわからないが、音だけ聞くと違う意味に捉えられやすい方言を紹介する。

【かっかえる】 意味:落ちる
「かっかゆー」、「かっかいゆー」とかとも言う。前後の文により変化する。
高いところに登ったとき、「そがんことしよっぎかっかいゆーばい」と言われたり、「ほらかっかえたろーが」と言われたりした。
抱える(かかえる)と聞き間違う事が多いらしい。

【やーらしか】 意味:可愛い
嫌らしか(いやらしか)と似ている。文字で書くと違いは判りやすいが、発音するときに、左記は「ぃやーらしか」と「い」が子音の様に発音するため間違えやすい。

【どがんでん】 意味:とっても、どうでも
この方言は前後の文によって意味が全く逆になってしまうので注意が必要だ。
「あすとん、どがんでん良か人やっけんね」(あの人はとてもいい人だ)と使う場合と、
「あすとんの、どがんでん良かっていいよらしたばい」(あの人が、どうでも良いと言っていた)と使う場合がある。
又、「どがん」と短縮して使う場合もある。

いざ文にしようと思うと思い出せないものだ。
今日はここまで。
今後も思い出したら書いてみようと思う。
そいぎ!(それじゃぁ)

 

名古屋での出来事

名古屋で祖母が亡くなった時、連絡は夜だったので、当時2歳半の娘を連れて私は次の日の朝一番の新幹線に乗った。
名古屋駅から真っ直ぐ祖母が安置されているメモリアルホールに着き、夕べから泊り込んでいた叔母と交代する事にした。
叔母は疲れきっていたため、通夜は夕方からだし、午後には叔父達も到着するだろうと、少し休んでいいからと送り出し、
「ひーばーちゃん、ねんね?」と何度も聞く娘に「そう、ねんねだよ」と何度も答えながら、時折線香を替え、父や叔父達を待った。

叔母を送り出してから娘と二人になった後、「しまった」と思った事があった。
それは通夜・葬儀に関するあれこれの判断を私がしなければならなくなった事だ。
叔父達は午後には着くと言っていたが、正確な時間は判らない。葬儀社の人は、段取りがあるので、午前中から出来る事は決めて欲しいと言う。

先ず、第一の選択は「湯灌」だった。
「湯灌」にもランクがあった。しかもなかなか高い。
一つは「体を清拭+着替え+化粧」、次が「お風呂+シャンプー+着替え+化粧」だった。

私は迷わずお風呂を選んだ。祖母は長いこと病院に入っていたので、まともにお風呂に入っていなかったかもしれないし、最後くらいゆっくり浸かって欲しかったからだ。
金額の事はこの際気にしないことにした。直ぐに来ない叔父達が悪いのだ。

早速部屋にお風呂が運び込まれた。
娘は「邪魔しちゃ駄目」と言われてたので、ちょっと離れたところからそーっと覗いては「ひーばーちゃん、おむつ!」とか、「ひーばーちゃん、ぽんぽん(裸の意味)」とか報告していた。
タオルをかけられ、湯船に横たわる祖母は痩せて、二回りも小さくなっていて私は悲しくなった。
湯灌の時に「洒水(しゃすい)」と言う儀式があるのもこの時に初めて知った。
遺族が足元側から胸元側へと柄杓でお湯を掛けることだ。詳しい意味は忘れたけれど、なんでも湯灌は常に足元から行うらしい。
「ひーばーちゃんお風呂?」と言う娘と一緒に柄杓を持って洒水を行った。
湯灌が終わって死に化粧を施された祖母は心なしかほっとした顔になっていた。

湯灌が終わってスタッフが帰ると又娘と二人きりになった。
何しろ暇だ。娘は飽きて、眠くなったので、「ねんねしたい」と訴えて来た。
どこかに布団が無いか探したが判らなかったので、
「じゃあひーばーちゃんのとこでねんねしておいで」と言うと、娘は素直に祖母の布団にもぐりこんだ。
私は可笑しかったが(どうするかな~)と見ていたら暫くして、「ひーばーちゃん冷たい」と言って出てきた。
「そっか、冷たいかぁ」と笑いを堪えながら座布団とコートで布団を作ってあげた。
昨年その話を娘にしたら「なんてことすんだよ!いたいけな私に」と言ってちょっと抗議されたが、
しかし、結局「まあめったに無い経験か」と笑っていた。
もし私の娘と会うことがあったら「死体と寝た女」と呼んであげて欲しい。

第二の選択が大変だった。祭壇の選択だ。
これはランクも複数あるが、値段がとにかく高い。
豪華な祭壇となると100万とかしていて、これを一人で決めるのは荷が重かったが、先に決めてくれと言われたので
仕方なく下から二番目の祭壇を選んだ。
しかし後で(午後も遅く来た)叔父に「ちんけな祭壇だ」と言われ私は腹が立った。
その叔父は葬儀費用は一切出さなかったくせに、文句ばかり言っていた。
あげく、私に「孫一同で花輪を出せ」と言い、「お前は育てて貰って末っ子扱いなんだから葬式代を出せ」とも言った。
葬儀代は祖母の貯金から出すと一番下の叔父が言ったので事なきを得たが、花輪代は従兄弟から徴収できず、結果私一人の支払いに終わった。
この件については私は一生忘れない事にしている。

一度危篤になった時に集まって相談してあったので、叔父達がゆっくり来たこと以外は通夜も葬儀もスムーズに運んだ。
葬儀が終わり、手配された車に分乗して親戚一同火葬場へと向かった。

■ここからはあくまでも私の主観(いままでもそうだったけど)で、決して愛知の方々を非難している訳ではないことを最初にお断りしておく

火葬場について最初に驚いたのは、案内係りのお姉さま方だ。
制服を着て、クリップボードを抱え、10人以上の人が並んでいた。
玄関に横付けされた霊柩車に駆け寄り、喪主に名前を確認し、そのお姉さんの合図で棺桶が運び出されるまでの時間、賞味3分。
いや、3分もかかっていなかったかも知れない。後続車の私達は慌てて喪主の叔父の後を追いかけた。
棺桶を先頭に炉のある部屋まで行って更に驚いた。
壁に小さな扉がずらっと並んでいるのだ。端の方まで見えなかったが延々と続いているような感覚になった。そして扉と扉の間隔はとても狭い。

あっけにとられていると、「場所が狭いため、最後のお別れは喪主の方のみとさせていただきます」と説明があった。
叔父が「え?俺?」と戸惑いながら出て行き、棺桶の小さい扉から祖母に手をあわせその扉を閉めた。
叔父が下がって「それでは皆様お別れです。合掌でお送りください」と僧侶に言われ、皆が見守る中、祖母の棺桶は扉に押し込まれ、「ガチャン」と言う音と共に見えなくなった。
そこでも又驚いた。作業服を着た係員が、その場でスイッチを入れたのだ。
無造作にボタンを押し、ストレッチャーを押して出て行った作業員を、これまたあっけにとられた顔で見ていた私達を急かすように、お姉さんが待合室まで案内し、喪主の叔父に番号札を渡した。
「それでは案内があるまでお待ちください」とお姉さんが側を離れた途端、嫌味な叔父が
「なんだか随分勝手が違うな、まるで流れ作業だ」と文句を言った。
流石にそれには皆同意し、喪主の叔父も「何番まであるんだここのカマは」と番号札を振った。
確か、祖母の番号は20番台だったと思う。

私は娘をあやしながら火葬場の待合室から外が見えるところまで出てみた。
玄関ではひっきりなしに霊柩車が到着し、案内のお姉さん達は皆手際よく遺族を案内していた。
「ゴルフ場より機敏だな」と私は感心しながらその様子を眺めた。
そして同じように番号札を渡された親族が続々待合室に来る。
時折、「○○番でお待ちの○○様、ご準備が整いましたのでホールまでお越しください」とアナウンスがあり、
そのたび何処かの一団が、「おっ家だ!」と言いながらそそくさと席を立つ様子が見れた。

我が家の番になって、呼ばれたので皆で炉の前に立った。叔父が渡した番号札には鍵がついていて、間違いなく祖母の遺骨を取り出してもらった。
そもそも各扉に鍵がついていたことに驚いたが、これだけ沢山の炉があるのだから仕方ないとも思った。

「拾骨は10名までとさせていただきます」と言われ、祖母の子と孫の血縁のみで周りを囲み、拾骨した。
(狭いからここでも人数制限なんだ、てか炉の前なんだ)と思ったが、皆従うしかない。
色々勝手が違うので戸惑いながらも拾い壷に収めた。
「これで終了でございます。こちらが証明書でございます。残りのお骨はこちらで預からせていただきます」と矢継ぎ早にお姉さんに言われ、
喪主の叔父は「は、はい、ありがとうございました。よろしくお願いします」と頭をさげた。
それを待っていたかのように、係りのお姉さんは作業服のオジさん達に頷いて合図を送った。
作業服のオジさんは壁に繋がったホース(バキュームカーのホースの様な)を持ち、又ボタンを押して、
台の上に残っていた祖母の遺骨を「ボー、ボー」と吸い出した。
あらかた吸って、最後に箒でステンレスの台を掃き、粉を塵取で取って、床の掃除を始めた。
私達はその作業の一部始終を驚愕の表情で見詰めていた。
案内のお姉さんはその間も、何事も無かったかのように、骨壷を包み、喪主を出口まで案内しようとしていた。
お姉さんが合図を送ってから賞味1分。それが祖母の最後だった。

葬式をしたメモリアルホールに戻り、案内された座敷でそのまま初七日を執り行い、長かった二日間が終わった。
帰りの新幹線で叔母と別れた後、叔父が言い出した。
「ユミ、お前に言っとく事がある」この叔父はとにかく嫌味が多いので私は多分ムッとした顔で「何」と聞き返した。
「もし、俺や俺の息子が何かの理由で名古屋辺りで死ぬことがあったら、絶対に遺体を東京まで運んでくれ」
叔父は真剣な顔でそう言った。
「そんなの家族で相談しときなよ」と言いたかったが、もう一人の叔父も「俺も名古屋で焼かれたくないな」とつぶやいたので
「判った、二人も従兄弟達も必ず東京まで運ぶよ、約束する。その代わり私がそうなった場合も同じだからね」と私は答えた。
叔父は「そうだ、お互いにそうしよう、俺等親戚の約束だ、忘れんなよ」と安心した顔を見せた。
まったくもって変な約束だが、私はまだ忘れていない。

後で知ったが名古屋には当時火葬場は一箇所しか無かった。最近二箇所目が出来たらしいが、やはり炉が30基あり、大型の火葬場だ。
あれだけの大都市で当時は46基でまかなっていたと言う事なので流れ作業も致し方ない。
それにしても、名古屋は結婚式はこれまた格別に派手な事で有名なので、この格差はなんなんだろうと思ってしまうのだった。

田舎の事件3

つい先日、私の田舎で事件があった。
田舎の事件の話を書いていた矢先だったのでびっくりした。

事件のあらましはこうだ。
福岡で内縁の妻と乳児の息子を殺害し、自分の実家の近くの田んぼの畦道に遺棄。
出生届けが出されていた子どもが小学校に入学していなかったため、自治体が警察に報告。
報告後4年かかって今回の事件が明るみに出た。

と言う事らしいが、ここで疑問が起きる。
出生届けが出されていれば、小学校にあがる前に何度も検診や予防接種が行われるが、検診をしない子どもに対して行政は何も思わないのだろうか?
小学校に入学していないとわかってから4年も経ってしまったのは何故だろうか?
11年前と言えば「住民基本台帳ネットワーク」が既にあり、入転出も直ぐにわかるはずで、その気になって調べれば、生まれた子どもが何処にも転出していなく、
行方不明になった事が、少なくとも三歳児検診で判ったのではないだろうか?

この手の事件が起きると、なんのためのシステムなのだろうと思う。
どんなにシステムを整備しても使う側の人間が、縦割りだなんだと言って、ちゃんと使わなければただの無駄遣いだ。
11年も土の下に埋まっていたなんて、哀しすぎるとニュースを見ていて思った。

そして、やはり今回の事件で一番思った事は、事件があった町は当然知っている場所で、複数の同級生の家の近くで、
去年には火野正平NHKの「こころ旅」で、視聴者の手紙に誘われ訪れた場所の途中の町だ。(ちなみに投稿者は同級生だった)
テレビで見たときに、火野正平の案内で国道沿いが写った。その時は「あー懐かしいなぁ、あんな上までは行った事が無かったけど、この辺りは知ってるな」
なんてのんきに録画した番組を観ていた私だ。
そんな懐かしい田舎の風景が事件などで放送されると、驚きと共に、とても哀しく思ってしまう。
加害者には会ったことは無いが、中学校の後輩にあたるらしい。それも又なんとも言えない残念な気持ちになってしまう。

私だけでは無いと思うが、自分の田舎では凶悪な事件が起きて欲しくない、嫌、起きない、と心のどこかで思っている。
心の中にある田舎はいつも美しくあって欲しいからだ。
そう書いていながらこの感情は「うちの子に限って」と思うのと一緒なのかも知れないと気づいてしまった。

結局、いつも悪いのは人間で、弱い人の心なのだろう。

そんな弱い私と、最後までこの文章を読んでくれた方に、ここで一つ、最近知った「中川昌蔵」さんと言う人の著書の中で書かれているらしい、「幸福になるためのソフト」を紹介しようと思う。
これは以前にも書いた杉山響子さんのブログの中で紹介されている事柄で、彼女のブログも同時に紹介しておく。
ちなみに私は中川氏もその著書も知らないのだが、この文にはとても惹かれていて、さっそく私もパソコンで作ってトイレに貼ろうと考えているのだ。


「幸福になるためのソフト」

一、今日一日、親切にしようと思う。
一、今日一日、明るく朗らかにしようと思う。
一、今日一日、謙虚にしようと思う。
一、今日一日、素直になろうと思う。
一、今日一日、感謝をしようと思う。

実行しては駄目です。
意識して実行すると失敗します。

「のろ猫プーデルのひゃっぺん飯 おかわりっ!」

http://ameblo.jp/podel1007/

 

田舎の事件2

私が小学生の時、田舎で大事件が起きた。
それはプール開きの少し前、同じ県内のある町の小学校のプール用トイレの浄化槽の中から遺体が発見されたのだ。
その事件の話は全国ニュースになり、私の住む町にも瞬く間に広がった。
しかし、同じ県内と言っても名前も知らない様な場所で起きたので、いつものニュースと同じように「えすかねぇ」位で見ていた。

が、その事件は他の場所でも起き、連続殺人として取り扱われることになった。
当時、連続殺人事件なんてテレビのドラマの中でしか知らなかった私は、同じ県で起きたと知って、妙に興奮したのを覚えている。
大人たちの心配をよそに、子どもは盛り上がっていた。

プールの浄化槽と言うのは学校の外れにあり、盲点だったと言う事から、近隣の全ての学校の浄化槽の点検が行われることになったらしい。
私の小学校でも念のためすべての浄化槽の点検が行われることになった。
浄化槽は所謂汲み取り式トイレが溜まるところで、地下に埋められ、外にマンホールの取り出し口がついている。
マンホールの蓋は重く、普通そこを開けるのは汲み取り業者のみだ。
地元警察の立会いの下、汲み取り業者と学校の先生が共同で作業を行った。

学校が休みの日に行われたのだが、物見高い子どもはわざわざ学校に出向き、遠巻きに作業を見ていた。

「どうせ何もなかたい」と噂する子ども達が見つめる中作業は進み、運動場の横にあった資料室の外トイレの浄化槽が開けられた。
いや、トイレと言うより便所だ。
いかにも「トイレの花子さん」が住んでいそうなその便所は一人で入るには怖いため、滅多に使用されない。

このトイレが最後だったので、飽きて運動場を駆け回る子や、帰る子が出始めていた。
その時、作業をしていた誰かが「あっ」と声を出した。
途端に緊張が走り、警官が「そーっと、そーっと」と指示を出していた。

「なんかあったとちゅ?」と皆そちらを注視しているが、だれも側に寄ろうとはしなかった。
それもそうだ、浄化槽をさらうと言う事は臭いも相当なものだからだ

警官がシートの上に置かれた物の一部に水をかけているのが見えた。
そして屈んで観察したと思ったら、教師と一緒に走って職員室に消えた。
業者はとりあえず作業を続けていたが、遠巻きに見ている私達にも緊張が伝わって来た。

近くまで見に行っていた男子が戻って来て、興奮した顔で「骨ばい!骨の出たごた!」と言った。
私とみっこちゃんは「えー」と驚くしか無かった。まさか自分の小学校の浄化槽で骨が見つかるなんて思っても居なかったからだ。
いや少しは期待したかも知れない。もし全国ニュースになるような事になったらどうしようと、何だか私達も興奮した。
男子は「テレビの来っばい!」とか「おい写りたか」とか勝手な事を言っていた。
見かねたみっこちゃんが「何ば言いよっと、誰かの死なしたかもしれんとば、殺人鬼のおるかもしれんとば」と怒って言ったが、
「殺人鬼は男は狙わんけん、おいは大丈夫くさ」とか、「もし来たらおいが戦こうて捕まえるばい」とか益々興奮して埒が明かなかった。

そのうちサイレンと共にパトカーが何台も来て、おまわりさんがトイレの周りに立った。
校長先生も来た。これは本当に事件になるのでは無いかと思って私達は作業を見守っていたが、
点在して見守っていた所に先生がやって来て家に帰る様に言われた。
男の子達は抗議したが、当時の子どもにとって、先生の言葉は絶対だった。
特に家が遠い私とみっこちゃんは早く帰る様にキツク言われた。

私達は仕方なく学校を出て、それでも暫くは学校の裏門の所から様子を見たりしながら、それでも夕飯前までには家に帰った。
家に帰って直ぐにその事を祖母に伝えた。
祖母は「そいぎ、夜のニュースで流れるかも知れんけんNHKにせんば」とチャンネルをNHKにした。
しかしその日のニュースでは流れなかった。
祖母は「まだ調べる事のあっけんニュースにせんとかも知れん」と言った。私はその時はその意味がわからなかったが、警察がニュースにしたくなかったのだとうと言われなるほどと思った。


次の日、学校に行ったらクラスでは昨日の話で持ちきりだった。
私もその場に居たことは先に来ていた男子によって伝わっていたのか、教室に入って直ぐに、昨日見に来なかった子から「あんたも行ったと?見たと?」と聞かれた。
「うん、そいでん何かわからんやった」と答えたが、その子は「見たと!えすか!」と大げさに騒いだ。
実際に骨だと確認した男子が「あいは小さかったけん、こまか子どもかも知れん」と言うと、女子達は顔を覆って悲鳴を上げた。

先生が入って来て朝の会が始まったが、興奮した生徒達は口々に、「先生、昨日のとか、ほんなごて骨やったと?」とか、
「あのトイレはどがんなっと?」と言った。「はいはい、今から説明すっけん静かに」と言われ生徒は先生の言葉を待った。

先生は生徒を見回し、「昨日、運動場の横のトイレの浄化槽の中から骨が見つかりました」と告げた。
途端、悲鳴や興奮の混じった声が漏れたが、先生が続きを言うために制したので、生徒は口に手を当てながら次の言葉を待った。
「骨は出たばってん、あの骨は人では無く犬でした」と続けた。

息を殺していた子はため息を吐き、男子の中には「なーんや」と言う子が居たり、「良かった」と言う子が居たりで、騒然となった。
先生はそんな生徒を制止、「犬やったばってん、犬が自分で入る訳なかろう?蓋は閉まっとったけん」と言った。
「先生、そいでん便器の方から落ちたとかも知れんです」と誰かが言った。
「そいはあるかも知れん、そいでんおいは誰かが犬は捨てたとやなかかと思いよる」そう先生が言うと、又生徒がざわついた。
「そいでさ、犬って聞いて思い当たらんね?」と問うた。
皆はハッとした。

最近学校に野良犬が住み着いていた。主に可愛がっていたのは上級生だったが、私達もたまにパンをあげたりしていた。
その犬を最近見かけなくなった事は皆知っていた。先生は続けた。
「あの犬かどうか判らんばってん、最近おらんやろ?おいはもしかしたらと思うとる」
皆しーんとなった。想像の域を出ないことだが、無い話ではない。
すすり泣く子も居た。

「テレビだ」と騒いでいた男子も俯いていた。
その日の最初の授業は急遽道徳の時間になり、「命について」勉強した。

昔は何かあると直ぐ「道徳」の時間になった。課題を読み、何が悪いことか、何がいけないことか、議論しあったりした。
最近は「道徳」の時間より理科の実験の時間より英語やダンスや算数の時間が多くなっていると聞く。
だからなのか、未成年による凄惨な事件が多いのは。
もちろん道徳の時間があっても事件は起こる。でも昔は少なくとも「殺してみたかったから」との理由で同級生を殺めたりしていなかったはず。
そして、教師による事件も増えた。子どもに道徳を教育しながら、実は教師も勉強していた時代だったのかも知れないと詮無い事を考えてしまう。

その後、犬を浄化槽に入れた犯人が誰だ、など憶測は飛び交ったが、結局は犯人はわからず、ただ「運動場脇のトイレから犬の骨が出た」という事が学校の怪談の様に残った。
そして、連続殺人犯も捕まっていないと思う。
願わくば、こうやって思い出した私自信がこの事を小さな棘として感じたのだから、あのときのどちらの犯人も大きな不安を抱えていて欲しいと思うのは叶わない事だろうか。

田舎の事件

田舎ではちょっとした事件でも大騒ぎになる。
パトカーや救急車や消防車の音が聞こえることが滅多に無いので、たまに聞こえると何処だか知りたくなって、皆、窓から見たり、表に出たりして確認する。
田舎は遮るものが少ないので、けっこう遠くのサイレンの音も聞こえる。
それで、そのサイレンが近づいてきたらもう大変だ。
祖母と二人ソワソワして音の方向を聞き分けようとする。

ある時、夜中に町のサイレンが響き渡った。
このサイレンは滅多に鳴らないので、私は最初何の音だかわからなかった。
祖母は直ぐに飛び起き、「何のサイレンね!」と窓を開けた。
サイレンと共に半鐘が聞こえて来た。
「かあちゃん鐘のなりよる」と私はおびえて言った。
この音は知っていた。遠くで鳴っているのを聞いた事がある。
「火事たい!何処ね」と見渡すと、百メートルほど離れた家から火が見えた。
真っ暗な夜の事なので、窓から出ている火は、ことのほか赤々として見えた。

「酒屋の裏ばい」と言いながら祖母は寝巻きを脱ぎ、普段着に着替えていた。
「見に行くと?うちも行く」そういいながら私は上着を来た。

祖母と二人表に出ると、隣の人も出ていた。
「Cさんは?」と祖母が聞くと、「もう行っとろう、団員やっけん」と隣の叔母さんは言った。
そうだ、町の若い、と言っても、60代くらいまでを指すのだが、男との人は病気や事情が無い限り、全員消防団員に入っている。
勿論みっこちゃんのお父さんも入っていて、玄関の土間には消防団の分厚い半纏とヘルメットがいつもで使えるように掛けてあった。

火事の起きた家は坂の途中の家で、私の家の道からは少し上に見える。
消防団員の人が川から水を引いて放水しているが、火はいっこうに収まる様子では無かった。
里のほうから消防車の音がした。消防団より大きい車がこちらに向かって走ってくるのが遠くに見えた。
私は興奮していた。いや私だけではない、町の人が火に照らされ興奮したような顔をしていたと思う。
見回すと、お寺の子も、みっこちゃんも居た。
ちょっと離れた集落からも人が見ているのが判った。
皆遠巻きながら火事の様子を心配と興奮の入り混じった顔で見ていた。

間もなく消防車とパトカーが到着し、銀色の服を着た消防隊員が降りてきて、消防団員と共に消火活動を行おうとした時、
「ボンッ!」と言う大きな音と共に、火柱が上がった。見物していた町の人は一斉に「おお!」と声を上げた。
火柱は10メートル以上、いやもっとあったかも知れない。
盛大な火の粉と共に大きく空に伸びた火柱は、一瞬だったはずなのに、しばらく私の目に焼きついた。
誰かが「プロパンガスの爆発たい」と言った。
田舎はプロパンガスが普通だった。我が家でもそうだ。店をやっていた頃からプロパンガスは使っていたと思う。
私はプロパンガスが爆発するとかなり大きな音がする事を始めて知った。

その爆発から程なくして火は鎮火し、町の人たちも銘々帰って行った。

次の日、焼け跡が見える場所までみっこちゃんと行った。
そこには元の家がどんなだったか思い出せ無い位、黒い瓦礫しかなかった。
田舎は家と家が離れているため、隣家への延焼は無く、そこだけポッカリと黒くなっていた。
幸い死傷者は無かったようだが、火事は本当に恐ろしいと、それから何年もその火事の事が語られ、あの火柱の事を思いだしたものだ。

またある夏の日、サイレンが再び鳴った。
長雨が続き、さらに台風が押し寄せてきたある日、土砂崩れの恐れありとサイレンが鳴ったのだった。
私の家は山からの道が交差する辺りにあった。
そのため、道路は川のように流れ、床下浸水していた。
前日から浸水に備え、土嚢を積んだりしていたが、土砂崩れは防ぎようが無い。
土砂崩れが警戒され、その流れが到達しそうな家屋の者は全員公民館に避難するよう消防団員の半纏に身を包んだ近所の叔父さん達が触れ回っていた。

我が家も警戒地域となった為、祖母と二人公民館に避難した。
暴風雨の中、避難するのもやっとだったが、なんとか公民館にたどり着き、他の家族と無事を確認しあった。

台風は唯でさえ興奮するものだが、公民館に避難と言う日常とは違う様子に子ども達は興奮していた。
炊き出しが行われ、大勢でご飯を食べた。
最初は興奮していた子ども達も、畑や田んぼを気にする大人の会話に次第に神妙になって行った。

公民館にはテレビがあった。でも本当ならアニメを見る時間でも、テレビは常に台風の状況を知るためにニュースだけが点けられていた。
子ども達は次第に飽き、眠るもの、仕方なくニュースを見るもの、勉強するものとバラバラだった。
私は祖母と一緒にニュースを見ていた。
ニュースでは台風の進路図が写され、自分達の町に台風が近づいてくるのが判った。

外は暴風雨が鳴らす木々の音と、公民館のきしむ音と、サイレントが鳴り響いている音で、不安を掻きたてた。
そのうち、停電になった。
一瞬皆「わっ」となったが、そこは昔の人間で田舎の事。大人たちは慌てず持って来た懐中電灯や、蝋燭で明かりを点けた。
蝋燭の揺れる灯りに照らされて皆不安そうな顔をしていたが、いつしか子ども達は眠ってしまい、私も眠ってしまった。

台風は夜のうちに過ぎ、起こされた頃には日が差していた。
公民館の雨戸を開け、皆それぞれ自分のうちに帰っていったが、それからが大変だった。

土砂崩れは私の家の直ぐ近くまで流れていて、水の引いた土間は泥だらけになっていた。
山の方の家では納屋が潰され牛が二頭、山羊が一頭生き埋めになったと聞いた。
その牛や山羊は良く餌をやりに行っていた牛で、牛の大きい澄んだ目が好きだった。
山羊はどこを見ているのか判らない目だったが、牛より自由に小屋を歩き回り、柵に前足を掛けて草をねだったりしてくれた。
牛は餌をあげるとジッと顔を見ながら手から草を食べてくれ、山羊は鳴き声で喜んでくれていた。(勝手にそう思っていただけかもしれないが)
だから牛と山羊が死んだと聞いて、私は「もうハイジごっこが出来なくなった」と哀しくなった。

台風で避難した日は学校は休校だったが、台風一過の朝から学校はあった。
と言っても、給食センターが使えないので午前中だけだったが、家が大変じゃない子ども達は全員ではないが学校に向かった。

学校に着くともっと大変な事になっていた。
グラウンドは湖の様に水が溜まり、当時汲み取り式だったトイレが溢れ、早くに来た先生達により、消毒が撒かれ、そこらじゅう臭かった。
子ども達は担任と一緒に一階の教室を掃除して回った。勿論トイレも掃除した。
最後は手足を消毒までした。

汲み取り式のトイレが溢れると衛生上はとても危険だ。今ではそんな状態の時に子どもが掃除をするなど、到底考えられないことだが、当時はそれが普通だった。
給食が無いので午後には帰宅するが、帰りの挨拶の時、校長先生からのお礼のジュースが届けられ、子ども達は褒美を貰って得をしたとご機嫌で帰って行った。
考えてみればジュース一本で学校中の掃除をしたのだから安いものだ。

次の日からは通常授業だったが、話題は先日の台風でどれだけ大変だったかだ。
「おいんとこの裏ん山のば崩れてさ、もう少しで家の潰されるんごたった」とか、「田んぼのにきの川の氾濫してさ、稲ん浸かったっさい」とか、農家の被害は大きかった様だ。
その中でも、土砂崩れで公民館に避難したのは大きな事で、私は自慢げに話したものだ。
「サイレンのくさ、ウーウーなってえすかった(怖かった)」とか、「停電になったけん蝋燭ん中眠れんやった(本当はいつ寝た判らず気がついたら朝だったが)」とか大分誇張して話した。
家の近くの牛と山羊が死んだ話になると、農家の子ども達は自分の家の家畜の事を思い「可哀相か、苦しかったやろうね」と涙ぐんだ。

台風は木を倒し、稲を倒し、瓦を飛ばし、甚大な被害を残して去って行ったが、今は東京に住んでいる私にとって、時折来る強烈な台風は今では想い出の一つだ。
東京では救急車のサイレンは日常で、よほど近くに止まらない限り気にもしない。
台風は思うほど酷くなく、電車だけが混乱するが、いつも「なんだ、大したことない」と思ってしまう。
消防車だけは例外で、家と家がくっついて建っている東京ではちょっと遠くの火事でも油断は出来ないと思う。

そうしてすっかり都会暮らしに慣れた私だが、台風が来るかもと、雨風が強くなってくると何故かワクワクしてしまい、台風一過の朝は突き抜けたような青空を見上げ、鼻の奥で消毒の匂いを感じるのだった。

神様のお使い?

幼い頃の事を書いていると益々望郷の念が強くなるのは歳のせいだろうか。
一つの記憶から引きずられて、また一つ思い出した事がある。

中学生の頃、地元の歴史を調べる授業があり、放課後や休みの日に地元の名所に行き、歴史を調べた。
私達の班は「松浦党」の事を調べたと思う。
平安時代から戦国まで地元に居た「戦闘武士集団」といえば聞こえが良いが、まぁ、海賊まがいだと思う。
そういうと非難されるかも知れないが、祖母に聞いた時も海賊と言っていたのだから仕方ない。

その海賊、もとい戦闘武士団の一部の末裔が平戸藩主になったわけだけども、
私達の地元で古くから住む人は殆どがその松浦党の子孫らしい。
かく言う私の祖母もそうだ。昔は家に槍や刀があり、その名残があったらしい。
まあ、本家の場所を考えると多分足軽位の身分だったんだろうと思われるが。

その松浦党に縁のある神社に取材をしに行った時の事だ。
そこには樹齢年百年と言う楠木があって、古い神社だと言う事は知っていた。
でも、小学校の近くだったため、歴史有る神社という認識は無かった。

班で集まり、一通り取材をし、最後に写真を撮った。
誰かがカメラを持ってきていて、カメラを触るなど珍しい時代だったので、交代で写真を撮らしてもらった。

現像が出来上がった頃又集まって、模造紙にレポートを書き上げた。
写真を選んでいると神社を写した一枚に不思議な物が写っていた。

神社の屋根の上に誰かが立っているような白い影があった。
「なんこい!誰が撮ったと?」とカメラの持ち主が皆に聞いた。
「うちやなか、うちは楠ば撮ったけん」他の子が覗き込んで言った。
「神社ば撮ったと、だいやった?」と私を見た。
「うちかも知れん・・・」と私は答えるしか無かった。
そう、神社を正面から撮ったのは私だ。
「やっぱいね」とその子は言った。
「やっぱいって何?」
「やっぱいって、わいやっけん心霊写真になったとやろうもん」とその子は断定して言った。
「そがん、そいが心霊写真てわからんた、光の加減かもしれんし」そう私は反論したが、誰も心霊写真と言って聞かなかった。
「こがんとばレポートに貼るぎなんじゃ言われるけん、こいはどかすばい」とその写真は使わないことが決まった。
「この写真どがんすっと、もっとって良かと?」と別の子が聞いて来た。
「何の写ったとやろうか、悪かとやろか?」と心配そうだ。
「どがんね、ユミ、悪かとね」そう聞かれ私は写真をよく見た。
写真の中の白い影は悪いものでは無いと思った。さっきは自分で光の加減と言ったが、明らかに人の形をしていたそれは心霊写真といえるだろう。
私は「心霊写真かどうかわからんばってん、悪か感じはせん」と言った。あくまでも自分が心霊写真を撮った事を認めたくなかったからだ。

「どがんすっぎ良かね?」と聞かれ、「わからんけん神社に持って行くぎよかとやなか?」と返事した。
何となく、神社の宮司なら何とかしてくれるのでは無いかと言う勝手な想像での発言だった。

後日、カメラの主はその写真を神社に持って行ったそうだ。
普段その神社で宮司らしき人を見かけた事は無いが、その子は偶然にも掃除に来ていた関係者に私事が出来たと言っていた。
写真を見せて、何だか判らないので納めたいと告げたところ、その関係者は、
「久しぶりに見ましたばい。時々写るとばい」と特に驚いた様子ではなく、受け取ってくれたそうだ。
その関係者が言うにはこの白い影は神社では神様のお使いだと思っているそうで、
この姿を納めると良いことが起きると言っていたそうだ。

カメラの主は「良かこつってなんちゅ!」と喜んでいたが、私は「神社にとって良か事で、うち達じゃなかと思う」と思ったが、
とても嬉しそうに話すその子には言わずに置いた。

その後良いことがあったかと言うと、そうでもない。
でも悪いことも起きなかったので、それはそれで良かったと思った。

神社に纏わる話は他にもある。

私が住んでいた町は県の外れなのだが、県堺の山には巨石信仰の名残の岩がある。
山の中の雑木林の中に幾つのも巨石が屹立していて、子どもながらに不思議に思ったものだ。

小学校の遠足と子供会の遠足、あとはつつじが沢山植わっているので、花見にと、年に数回は行く公園があるのだが、その公園の奥にその巨石がある。
ある時、それは子供会の遠足の時だったか、みっこちゃんと他数人とでその巨石まで行った。
その巨石は登ることを拒否するかのように取っ掛かりもほとんど無い岩だ。
しかし、私達は裏に回ったり、木を使ったりして何とかその岩に登ることを試みていた。

複数ある岩のどれかでも登れないかとみっこちゃんと私は隣の岩、また隣の岩と周りを見ながら探していた。
そして、やっと登れる岩を見つけたのだ。
その岩は裏側に階段になっているように石が積まれていた。
と言ってもその石もよじ登らなければいけない高さだった。
私とみっこちゃんは何とかその石を使ってやっとの思いで岩に登った。
その岩に立つと眼下に町と海が見え、景色がとても良かった。
私とみっこちゃんは他の子に教えてやろうと、周りを見渡した時、不意に下から「眺めがよかろう?」と聞こえた。
見ると、こんな山の中に不釣合いな白いシャツを着た青年が見上げていた。
私は「うん、がばい良かばい」と答えた。
するとその青年は「眺めは良かけど、登ったらいけんよ」と言った。
私とみっこちゃんはちょっと先生の様なその言い方に、素直に「はーい」と答えた。
名残惜しくもう一度景色を見てから降りようと振り返ったらその青年は既に居なかった。
上から周りを見渡しても青年どころか白いシャツも見つけ切れなかった。
「あすとんは?」とみっこちゃんに聞くと、「もうおらっさんばい」と首をかしげた。

遠くで集合の笛が聞こえたので、私達は慌てて岩を降り戻った。

後で聞いたのだが、公園の横から雑木林を抜けると気がつかないが、道路から入る場所があり、そこは「文殊さん」といってちゃんと祀られている場所だった。
周りには無いのに、なぜかそこだけに巨石があり、昔から信仰の対象になっていた場所らしかった。

それにしてもあの青年は誰だったのだろうか、異様に足が速く、あっと言う間に道路の方に抜けたのだろうか。
私とみっこちゃんは青年は人では無かったのでは無いかと結論付けた。
きっと神様の使いで、注意しに来たんだと思ったのだ。
なぜ使いで、神様ではないのかと言うと、神様は勝手に年寄りだと思っていたからだ。
見るからに若かった青年はきっと神様のお使いなんだと言う事で二人は納得したものだ。

次にその公園に行く機会があった時、私は登れる岩を探した。
しかしいくら探しても足がかりがあった岩は見つからなかった。
みっこちゃんにそれを話すと「危なかけん石ばどかさしたとやなか?」と言ったが、
私は何となく、そうじゃないと思った。

その後も何度かその場所に行ったが二度と岩に登ることは出来なかった。
公園には展望台があり、良い景色を眺める事が出来るのだが、あの岩から見た景色のほうが、もっと良かった。

来年の春に又帰省する予定だが、その公園に行くかは決めてない。
もし行く機会があればもう一度巨石を尋ねてみよう。
そして叱られるかもしれないが、岩に登ってみよう。
そこからの眺めを写真に撮れるといいなとお願いしてみよう。

入れない場所・・私にとっての立ち入り禁止場所

コックリさんの記事を書いていて思い出したことがあった。
たまにだが、行きたいと思っても、どうしてもたどり着けなかったり、入れなかったりする場所がある。
そういう場所は私にとって行ってはいけない場所だと今は認識しているが、昔はよくわかっていなかった。


中学三年の修学旅行は、熊本・鹿児島・宮崎を回るバス旅行だった。
鹿児島のある場所で昼食のためバスを降りた。
通された場所には薩摩・鹿児島出身の偉人の肖像画が沢山あった。
私はぞっとした。肖像画に見られている気がしてならなかった。
おかげで、食事が喉を通らなかった事を覚えている。

昼食後は「城山公園」に行くことになっていた。
私は昼食の場所に寄った以降体調が優れなかった。
それでも先生に報告するまでも無い位だったので普通に目的地で降りた。

当時はあまり歴史に興味が無かったので、その場所については「西南戦争があった場所」位の認識で、
西南戦争」がどんな出来事だったのか知らなかった。

バスを降りて、駐車場から公園に入る道の途中で声が『行くな』と言った。
しかし修学旅行の行程なのだから行かないわけにはいかない。
「大丈夫でしょ」と頭の中の声に返事をし、私は歩き出した。
ところが、道を進むにつれ吐き気が酷くなって来た。
一緒の班の子が、「顔色の悪かばい、大丈夫ね?」と心配するくらいだった。
「大丈夫ばい、ゆっくり行くけん」と答えたが、吐き気と共に頭痛もして来た。
「やっぱいバスに戻ったが良かよ、結構歩くごたっけん」と言って班長は私をバスまで送り届けてくれた。
バスに戻り、席で座っていると直ぐに頭痛も治まり、吐き気も弱くなった。
引率の保健室のお姉さんが「車酔いかね、暫く休みんしゃいね」と気遣ってくれたが、皆が戻ってくる頃にはすっかり治っていた。

後で聞いたが、公園に行った生徒の中で何人か体調が悪くなった人も居たらしい。
私は公園にさえ入れ無かったのでたいした事は無かったが、もし強引に行っていたらどうなっていたか分からない。

ここで「西南戦争西南の役)」について説明する気は無いが、のちに西郷隆盛切腹した場所だと知った。
そして公園にある西郷洞窟なる場所は昔から心霊スポットで有名だったらしい。

それ以来、心霊スポットには極力行かないようにしている。
それでも知らずに行こうとしてしまう事がある。

若い頃、旅行で日光に行き、「華厳の滝」に行くことになった。
その日は快晴で紅葉の季節でもあり、観光バスも沢山来ていた。
車で向かっていたのだが、当然道は混雑していた。
それでも仕方ないと友人は車を走らせていた。
田舎者の私は「華厳の滝」がどういうものか知らず、ただの滝くらいに思っていた。

もう直ぐ駐車場という時に、霧が出てきた。山の天気は変わりやすい。
友人は「混雑時に霧は危ないなぁ」と言ったが渋滞の列の中どうする事も出来なかった。
仕方なく待っていると、前方から警備員が各車に何かを言いながら降りてきた。
何事かと聞くと、「駐車場の近くで転回中のバスが故障し、道を塞いだまま動けなくなった。いつ直るか判らないので、駐車場にいつ入れるか判らない」との事だった。
見ると、他の車のうち何台かはその場でUターンして降りていく様だ。

「どうする?」と友人に聞かれ、私は「うーん、なんか行くなって言われている気がする」と答えた。
しばらく考えた友人は「どうせ霧で景色も期待出来ないから戻ろう。腹も減ったし」と私達はUターンする事にした。
そして麓に下りた頃、それまで微動だにしなかった渋滞の列がどんどん進みだした。
立ち往生のバスが回復したのだろう。
何となく悔しい気がしたので、どうするか考えたが、友人が「今回はケチが付いた気分だからやめにして他の場所に行こう」と先ずは麓のレストランに入った。
レストランは空いていた。レストランの人に聞くと、さっき動き出したと観光バスが移動したので、お客も慌てて登って行ったとのことだ。
おかげで私達はゆっくり昼食をとることが出来た。
又レストランの人はこうも言っていた。「急に霧がでると事故も多いんですよね。そういう時を狙ってわざと来る人も居ますけど、感心しません」と
どういう意味だろうと思ったが、後に「華厳の滝」が心霊スポットと知り、レストランの人の言葉の意味も判り、「ああ、行かなくて良かった」と思ったものだ。
華厳の滝」の様な場所は快晴より曇りや霧が出たほうが心霊写真が写りやすいらしい。

とにかくうかつに心霊スポットには行ってはいけないと思う。
もし、そこに何かが居て、憑いてこられたら大変だ。
自分で祓う事が出来る人は良いが、生憎私にはそんな力は無い。
だから行かないに越したことは無い。

夏に訪れる心霊スポットブームはテレビで見ているだけで十分だ。
大抵は「??」と思う写真や場所だが、時々見ただけで身の毛が立つような本当にヤバイものもある。

そうして私は「うわーこんなの流して大丈夫?」と安全な場所でつぶやくのだ。