碧い鱗

青が好きです。魚の体を覆っている鱗の様に今の私を形成している想いでや出来事をチラチラと散りばめて書こうかと・・・

北斗晶と福山雅治と友達の話

先週のテレビでの話題は北斗晶さんの乳がんの話で持ちきりだった。

そして福山雅治氏の結婚。

それぞれは全く別の話しだが、私の中では妙に符合してしまった。

子どもの頃の思い出をなるべく順を追って思い出しながら書いてきたブログだが、今回は割りと最近の話を書こうと思う。

(上記三名のお名前は敬称を略させて貰う)

 

三年前の6月、私は友人を亡くした。彼女は北斗晶と同じく乳がんだった。

彼女との出会いはそれより更に15年ほど前の、お互いの子どもが通う保育園だった。

若くして結婚した彼女は私より5歳若く、わが娘より2歳年上の女の子を通わせていた。

他のママ友の紹介で意気投合し、ママ飲みする仲間になった。

彼女の娘が一足先に小学校に上がってからも、保育園の娘のお迎えを頼んだり、子どもを預かったりする仲だった。

どちらかと言えば、私の方が沢山お世話になったと思う。

彼女はそのうち離婚して、私の家の近くに越して来た。それまでも頻繁に集まっていたが、更に親密になり、私は家の鍵を彼女に預けるまでになっていた。

 

彼女は猫好きで、私の家の猫を子ども達より先に面倒見る位だったが、家に来るようになって猫アレルギーになってしまった。

それでも、「猫は口が利けないから可哀相」と言って良く猫の面倒も見てくれた。

「ユミちゃんの煮物が好き」と言っては良く飲み、よくしゃべった。

大人になって友達を作るのはとても難しいと思うが、お互いに親友だよねと言い合うくらい好きだった。

 

そんな彼女が乳がんだと判ったのは彼女の娘が小学校5年生で私の娘が3年生の時だった。

いつもの様にもう一人の仲のいいママ友と三人で我が家で飲んでいるときに、彼女は切り出した。

「実はさ、今度入院するんだ」

「え、どっか悪いの?」

「うん、乳がんだったんだよね」

「ええ、でも早期なんだよね?」

「うーん、お胸取っちゃうしかなくてさ」彼女は笑顔で告げた。

「え、温存出来ないの?」もう一人の友人Cちゃんはもう泣いている。

「うん、脇まで転移してるんだって、だから取っちゃうんだよ」と平気そうな顔で告げた。

私はびっくりしたのと同時に泣きながら怒った。「なんで、もっと早く見つからなかったの?検診してたんでしょ!」

「そうなんだよね~しこりがあるなーっては思ったんだけどさ、なかなか行けなくて」

「そんな!何で笑ってんのよ!笑い事じゃないよ!」私はポロポロ涙を流しながら怒った。

「いっぱい泣いたよ~、何で私がっていっぱい泣いたよ。だから今は話せる様になったんだよ。だから二人とも泣かないで、私が泣いていないんだから泣かないで」

彼女の言葉を聞いて、私はハタッと冷静になった。(そうだ、一番泣きたいのは彼女なんだから)そう思い、「わかったお見舞いに行くから日程教えて、絶対だからね」と言った。

「うん、判ったお見舞いに来れる日を連絡するから、さ、この話はお終い!飲もう飲もう」と彼女は缶チュウハイを掲げた。

Cちゃんはまだ目に涙を浮かべながら、「大丈夫なんだよね、手術すれば大丈夫なんだよね」と鼻を啜りながら聞いた。

友人は「大丈夫だよ、多分。5年後の生存確率は50%って言われたけど、私はもっと長生きするから。そう思ってるから。でも子ども達には言わないでね、娘は知っているけど、やっと納得したから回りから同情されると動揺するかもだからさ」と言った。

 

それから暫く飲んだ頃、子ども達の話になった。Cちゃんの子どもは上が友人と同じで、下がわが娘を同じの男の子二人だ。彼女もシングルマザーで頑張っていた。

Cちゃんは男の子だから将来に自分がいたら迷惑なんじゃないかと心配していた。私は「そんな事無いよ、きっと二人はCちゃんの事もずっと大事にしてくれるよ」と答えた。

「そうかな、でもユミちゃんが言うなら信じて頑張るよ」と言った。

癌を告白した友人はEちゃんと言うが、「ねぇ、ユミちゃん、私、娘の成人式見れるかな」と唐突に聞いてきた。

私は暫く彼女を見詰め、「ごめん」としか言えなかった。

「そっか、あの子の成人式の日に私は居ないんだ」とEちゃんは言った。

「いや、単に今酔ってて視えないのかもしれないし、視えなくなっているかもだし」と私は慌てて繕ったが

「いいよ、ユミちゃんが視えないのは私の姿だけでしょ、娘の着物姿は視えたんでしょ、私覚悟してるから。知っていれば色々準備も出来るし」

「いや、その場面に居ないだけかも知れないし」となおも私は言い繕おうとしたけど、彼女は笑って、「わかった、わかった、大丈夫、きっと私病院なんだよ」と言った。

私は彼女の娘の振袖姿の横にはEちゃんは居ない事を視たが信じたくはなかった。

 

それから彼女は手術をして、私はお見舞いに行った。

抗がん剤治療も何度か受け、そのたび、髪や眉が抜けたりしたが、彼女は仕事を続けながら治療を続けた。

 

彼女には彼氏が居た。癌が見つかった時もその彼が励ましてくれたと言っていた。

私は癌でも支えになろうとしている彼をちょっと見直した。実は私はその彼を余り好きではなかったからだ。

 

彼女が癌になる前は毎年、海水浴や、スキーや、キャンプを彼女と彼女の娘と私の家族で行ったりしていた。

でも体調管理が難しくなったのと、胸を気にして彼女は一緒に旅行には行かなくなった。

それでも時々飲んではおしゃべりし、近況を報告しあった。

 

手術から5年が経ち、彼女は彼と一緒に住むために隣の駅に引っ越して行った。私は寂しかったが、このまま癌が落ち着いて、彼女が幸せになればいいと思った。

私の娘には告げていなかったので、5年達成だったが表向きには引越し祝いと言うことで集まった。

 

「早く籍を入れなよ」と私は彼氏に迫った。

「俺も入れたいんだけどさ、娘ちゃんがもうちょっとって言うんだ」と彼氏は彼女の娘を見た。

「だって苗字変わるの嫌なんだもん」そう言ってそっぽを向いた彼女の娘は高校生になっていた。

「ま、娘ちゃんの意思を尊重するよ」と彼女は笑った。

「それよりどうかな、成人式見れるかな」と聞いてきた。私は自分の娘が居たので困ってしまった。

「何、成人式がどうかしたの」と娘が聞いて来た。私は「いやー、もう高校生だからあっと言う間に成人式だな~、早いなーって話し」と答えた。

娘は「まだまだ先だよ」と笑ったが、彼女は違う意味で「やっぱそっか」と笑った。

帰り道、私の旦那は「あいつ以外といい奴なんだな」とボソッと言った。

 

その年のSMAPのコンサートにも一緒に行った。私はすっかり安心していた。

でもそれから一年半後彼女は帰らぬ人となった。

 

ある日彼氏から連絡を貰った。「春先から結構悪くって、今家に帰って来ているんだけど、夏は越せないかもと言われたので遭いに来て欲しい」

そういわれ、その日の内にお見舞いに行った。

リビングに介護ベッドが置かれ、自宅での治療にしたんだと言われた。治療はもう出来ないんだろう、自宅で死にたいと言う彼女の意思だったんだと思う。

私は後悔した。もっと早く、頻繁に会いに来ればよかったと。

彼女のエネルギーはもうほとんど感じなくなっていた。

 

半年前に、病状が進み、今じゃないと撮れないからと二人は結婚式の写真だけを撮ったんだと、彼女は写真を見せてくれた。

写真の中でドレスを着て微笑む彼女は私が今まで見た中で一番美しかった。

「なんだ、言ってくれれば行ったのに!」と私は笑って、素敵だと褒めた。

彼は保険屋さんと手続きをしていた。どうしたのと聞くと「今日籍を入れてきたんだ、娘ちゃんとも養子縁組してきたし」と嬉しそうに言った。

 

彼女は「やっぱり成人式は見れそうにないね。さすがユミちゃん当たったね」と笑った。

私は返す言葉が見つからなかった。そんな事なんか当たっても何の意味も無い。つくづく役に立たないと自分に腹が立った。

その日は急遽来たため、ろくな手土産も無かったので、今度は大きな花を買ってくることを約束した。

花が好きな彼女にお見舞いの花は何が良いか聞くと、花粉アレルギーがあるけど、くれるならヒマワリが良いと言った。

長い時間お邪魔すると彼女が疲れてしまうから、早めに切り上げたが、今度は私の娘も連れて来るからと約束した。

家に帰り私は始めて娘に彼女が癌でもう長くないことを告げた。

娘はずっと黙っていた私に、旦那に、彼女に、彼女の娘に怒った。それはそうだ、娘はのけ者にされた事に腹を立てた。

私は約束だったから言えなかったと謝った。謝るしかなかった。

そして今度一緒に会いに行こうと約束した。

 

彼女に最後に会った日が六月一日だった。

そして、六月八日朝早く彼女を息を引き取った。

 

朝から頭痛がし早起きしたが会社を休む連絡した直ぐ後にメールが来た。

私は直ぐに折り返し、私に出来ることをする事にした。

各所に連絡をした私は着替えて買い物に行った。

約束したヒマワリを買うためだ。

3件ほど花屋を回ってようやくヒマワリを見つけた。

私は出来るだけ大きい花束にしてくれと頼み、それを持って彼女の家に向かった。

晴れた日差しの中、ヒマワリの花束を抱え、泣きながら歩く私に周りの人は不思議に思っただろう。

 

彼女は安心したような顔をして寝ていた。

そして何もかも準備していた。

 

通夜と葬式の間、彼女が愛してやまなかった福山の曲が流れていた。彼女が選曲したそうだ。「家族になろうよ」がかかっていた。

彼女が彼と本当の家族になったのはたった一週間だった。

 

それまでも福山雅治の甘い歌声が私は好きではなかったが、葬式で聞いて益々嫌いになった。

 

福山雅治の結婚報道でテレビでは何度も「家族になろうよ」が流れた。私はそのたびに彼女を失った喪失感に襲われ、涙が出そうになった。

北斗晶の病状も彼女と一緒だった。ニュースで気丈に話しをする北斗を見ながら「頑張って欲しい」と涙ぐんだ。

 

癌で亡くなった川島なお美放射線治療をしなかったと聞いた。髪が抜けるからだ。

私は放射線治療で髪と眉、まつげまでも抜けてしまった彼女を思い出した。

どっちが正しいかは判らないが、二人とも覚悟して最後まで生きた。

 

「死にたいから殺してくれ」と頼んだ女子高生。

「殺してみたかった」と実行した女子高生や大学生。

そんな奴らに子どもを残して死ななければならなかった彼女の無念と、覚悟を教えてあげたい。

大切な人を失ってしまい残された者の哀しさを知って欲しい。

 

三年たってもこうして彼女を思い出し、そして泣きそうになる。

そうすると彼女の声が聞こえる様な気がする。

「泣かないでよ、ばーか」

可愛い顔で、おっとりしたしゃべり方で、辛辣に言い放つ彼女に会いたくてたまらない。