碧い鱗

青が好きです。魚の体を覆っている鱗の様に今の私を形成している想いでや出来事をチラチラと散りばめて書こうかと・・・

改宗とお墓の引越し

以前書いたが私の家の仏壇は三つの宗派が同居するという、今にして思えばかなりヘンテコな状態だった。
祖母が出会った謎の僧から受け取ったのは弘法大師の像で「真言宗」、前のじいちゃんの宗派が「曹洞宗」、そして私の知るじいちゃんが亡くなった
タイミングで、宗派替えしたため「浄土真宗」となった。

曹洞宗」の時は、お寺が近所にあったし、保育園も経営していたので、私はその保育園に通い、お寺のイベントにも参加していた。
保育園ではブッダの劇で傷ついた鳩の役と、涅槃の時に集まる動物の役をやった。(本当はブッダにミルクを届ける娘がやりたかった)
除夜の鐘も撞きに行き甘酒を飲むのが楽しみだった。
花祭りには甘茶を貰いに行った。お稚児さんをやりたかったが、檀家の女児の中で何故か私だけ選ばれなかった。
夏休みには毎朝座禅を組みに行った。座禅の後はお粥をいただき、禅宗の作法を習った。
(ちょうど今ドラマでお坊さんの話をやっているが、本当に音を立ててはいけないのだ。)

そんな風に生活の中で自然と曹洞宗と関わっていたが、改宗に伴い、各イベントには行かなくなった。
お寺の人は「好きな時に来ていいんだよ」と言ってくれたが、
祖母は「お寺の行事は檀家さんの物で、行ったら行ったで何がしかお布施ば包まんばいけんけん」と言って参加させてくれなかった。

そんなある日、近所のお寺にあった前のじいちゃんの墓を移すことになった。
大叔父とその息子達が来てくれて、墓を開け、骨を拾いに行くと言う。
祖母は「ユミも連れていかんね」と言って、私に一緒に行く様に言った。
私は墓を開けて、骨を拾うなんて嫌だと言ったが、「なんば言いよっと、じいちゃんの為たいね、そいに良う知っとる山やろうが、叔父さん達ば案内せんね」と言われた。
しかし、私は前のじいちゃんの墓が何処にあるか知らなかった。墓参りに行った記憶が無かったからだ。
祖母は、「小まか墓やっけん良う探しんしゃいね」と言って大まかな場所を教えてくれた。

場所を聞いて私はびっくりした。お寺兼保育園の墓地は良く知っていたはずなのに、じいちゃんの墓がある辺りはかなり上の方なので行った事が無かった。

保育園の庭から墓地に続く道があり、良く遊びに行っていた。
手前の方には大きな墓があり、お盆の時期はお供え物が沢山あげてあった。
子どもの頃、お供え物はお墓にきちんと手を合わせれば頂いても良いと思っていたので、虫に食べられる前に良く頂戴したものだ。
そして大きな墓は御影石が冷たくて、夏は腰掛けて涼んだりもした。
もちろん、よじ登ったりすると怒られるのだが。

そんな墓地の敷地の上の方に前のじいちゃんの墓はあった。
登っていくにつれ、道は段々細く、険しくなり、草もぼうぼうに生えていた。
やっとの思いで着いた最上段の墓地は、一部が土砂崩れで壊れた墓があったり、参る人が居ないのか、多くの墓が朽ちていた。

また、下の大きな墓とは大違いで、小さい墓石が多かった。
「この辺やっけどなぁ」と叔父が示した辺りは、墓石の足元の地面が半分崩れていた。
「よう探さんば、かっかえとー(落ちている)かも知れん」そういいながら皆で探したが、なかなか無かった。
私は足元が緩くなっているため、用心して下を覗いた。墓地の下は針葉樹が植わった斜面で、あまり良く見えなかったが、何か無いかと身を乗り出した。

とたん、私の足元が滑り、私は斜面を滑って落ちてしまった。
「なんしよっとか、危なかたい」と叔父は斜面の途中でこらえている私に声を掛けたが、斜面の途中で私との中間ほどにある埋もれた墓石を見つけ、その石を確認するように言った。
私は滑る斜面に苦労しながらもその石にたどり着き、泥を手でどかしながら刻まれた文字を読んだ。

はたして、その墓石は前のじいちゃんの物だった。

叔父は私に手を貸して引き上げた後、墓石を引き上げ、その墓石があったと思われる辺りを少し掘った。
そうすると割れた骨壷が見つかった。
骨壷には名前が書いてなかったが、他の墓と墓石の数を数えたりして、叔父は間違いないと確信し、その骨壷と割れた箇所からこぼれたと思われる土まみれの骨を拾った。

家に戻り、お骨を祖母に渡しながら、「やっぱいユミば連れて行って良かったばい」と行った。
祖母は「そうね、役にたったね」と問い、叔父から墓が見つかった経緯を聞いた。
「やっぱい、血の繋がっとうけんね。こがん時教えらすとかも知れんたい」と言った。

年寄りは迷信深く、何でも霊のせいや、妖怪や物の怪のせいにしたりする。
祖母は特にそういった事を強く信じていた。
おかげで、普段なら服を汚すととても叱られたのだが、その日はドロドロになった私に黙って着替えを出してくれた。

そうして前のじいちゃんの骨は新しいお寺の納骨堂に後のじいちゃんと仲良く一緒に葬られることになった。

納骨堂は分厚い扉を開けると正面に大きな観音様の立像があり、小さい3段ほどの戸棚が通路と壁を作っていた。
祖父達の棚は入って右側奥の下段だったと記憶している。
お彼岸やお盆や命日にはお参りに行っていたはずなのに、その場所がいっこうに覚えられなくて、私は毎回探したものだ。
納骨堂の古い木の匂いと線香が染み付いた匂いは入ったとたん、いつも私を不安にさせた。
入るといつも複数の誰かに見られている様な気がして落ち着かなかった。

祖母が亡くなった時、四十九日に叔父達と一緒に納骨をしに来た。
久しぶりに入った納骨堂は相変わらず古い木の匂いと、線香の匂いがした。
でも特に視線は感じなかった。大人になって感受性が減ったからなのだろうか。
小さい扉の中に骨壷を三つも入れるとギュウギュウで、ちょっと可哀相な気がしたがそこは我慢して貰うしか仕方ない。

その後、叔父が「お参りが大変だから」と言う理由で埼玉の自宅の近くの霊園にお墓を建てた。
最初の祖父にしてみたら二度目の引越しだ。
今回は全員飛行機で移動だ。
もし魂があって、祖父達の魂がまだ近くに居たとしたら何と言っただろう。
最初の祖父は「今度こそ落ち着くんだろうね」と思ったかもしれない。

墓を引越しした事でもうあの納骨堂には行くことが無くなった。

それはそれでちょっと寂しい気がしたが、他の色んな記憶と同じ様に、田舎に置き去りにするしかない。

 

新しい霊園の墓は叔父達も入る事を見越してそれなりの大きさだった。
「今度はゆったりだね」と私は手をあわせた。
叔父は祖母が亡くなった時に仏壇も新しくしてくれていた。多分のあの像も位牌も過去帳も移したと思う。
結局三つの宗教が同居する奇妙な仏壇になっているのかもしれない。

父に、「あの仏像は叔父さん家にあるんだよね」と確認したが、「多分」としか帰って来なかった。
「お父さん貰えば良かったのに」と言ったら、「あれは俺の手に負えないから良いんだ」と言った。
そして、「あの像の事はタツオ(叔父)には黙っとけよ」と言われた。
「なんで」と聞くと、「何にも知らないほうがいい事もあるんだよ」と言って悪い顔をした。

実は私は叔父の家に行った事が無い。墓参りには行くが、仏壇に手をあわせたことが無いのだ。
行くべきかどうかと思った事もあるが、「ま、墓参りしてれば良いさ」と一度も行く機会が無かった。
あの仏像がちゃんと叔父の所にあることだけでも確認したいのだが、叔父に切り出せずにいる。
変に切り出して理由を聞かれても困るからだ。

今回ブログを書くことでしっかり思い出してしまった。
これは会いに行くべきなんだろう。
そう思うと何だか怖くなって、「すみませんが、もうしばらくお待ちください」と誰にって訳ではないが心で念じてみるのだ。