碧い鱗

青が好きです。魚の体を覆っている鱗の様に今の私を形成している想いでや出来事をチラチラと散りばめて書こうかと・・・

田舎の事件

田舎ではちょっとした事件でも大騒ぎになる。
パトカーや救急車や消防車の音が聞こえることが滅多に無いので、たまに聞こえると何処だか知りたくなって、皆、窓から見たり、表に出たりして確認する。
田舎は遮るものが少ないので、けっこう遠くのサイレンの音も聞こえる。
それで、そのサイレンが近づいてきたらもう大変だ。
祖母と二人ソワソワして音の方向を聞き分けようとする。

ある時、夜中に町のサイレンが響き渡った。
このサイレンは滅多に鳴らないので、私は最初何の音だかわからなかった。
祖母は直ぐに飛び起き、「何のサイレンね!」と窓を開けた。
サイレンと共に半鐘が聞こえて来た。
「かあちゃん鐘のなりよる」と私はおびえて言った。
この音は知っていた。遠くで鳴っているのを聞いた事がある。
「火事たい!何処ね」と見渡すと、百メートルほど離れた家から火が見えた。
真っ暗な夜の事なので、窓から出ている火は、ことのほか赤々として見えた。

「酒屋の裏ばい」と言いながら祖母は寝巻きを脱ぎ、普段着に着替えていた。
「見に行くと?うちも行く」そういいながら私は上着を来た。

祖母と二人表に出ると、隣の人も出ていた。
「Cさんは?」と祖母が聞くと、「もう行っとろう、団員やっけん」と隣の叔母さんは言った。
そうだ、町の若い、と言っても、60代くらいまでを指すのだが、男との人は病気や事情が無い限り、全員消防団員に入っている。
勿論みっこちゃんのお父さんも入っていて、玄関の土間には消防団の分厚い半纏とヘルメットがいつもで使えるように掛けてあった。

火事の起きた家は坂の途中の家で、私の家の道からは少し上に見える。
消防団員の人が川から水を引いて放水しているが、火はいっこうに収まる様子では無かった。
里のほうから消防車の音がした。消防団より大きい車がこちらに向かって走ってくるのが遠くに見えた。
私は興奮していた。いや私だけではない、町の人が火に照らされ興奮したような顔をしていたと思う。
見回すと、お寺の子も、みっこちゃんも居た。
ちょっと離れた集落からも人が見ているのが判った。
皆遠巻きながら火事の様子を心配と興奮の入り混じった顔で見ていた。

間もなく消防車とパトカーが到着し、銀色の服を着た消防隊員が降りてきて、消防団員と共に消火活動を行おうとした時、
「ボンッ!」と言う大きな音と共に、火柱が上がった。見物していた町の人は一斉に「おお!」と声を上げた。
火柱は10メートル以上、いやもっとあったかも知れない。
盛大な火の粉と共に大きく空に伸びた火柱は、一瞬だったはずなのに、しばらく私の目に焼きついた。
誰かが「プロパンガスの爆発たい」と言った。
田舎はプロパンガスが普通だった。我が家でもそうだ。店をやっていた頃からプロパンガスは使っていたと思う。
私はプロパンガスが爆発するとかなり大きな音がする事を始めて知った。

その爆発から程なくして火は鎮火し、町の人たちも銘々帰って行った。

次の日、焼け跡が見える場所までみっこちゃんと行った。
そこには元の家がどんなだったか思い出せ無い位、黒い瓦礫しかなかった。
田舎は家と家が離れているため、隣家への延焼は無く、そこだけポッカリと黒くなっていた。
幸い死傷者は無かったようだが、火事は本当に恐ろしいと、それから何年もその火事の事が語られ、あの火柱の事を思いだしたものだ。

またある夏の日、サイレンが再び鳴った。
長雨が続き、さらに台風が押し寄せてきたある日、土砂崩れの恐れありとサイレンが鳴ったのだった。
私の家は山からの道が交差する辺りにあった。
そのため、道路は川のように流れ、床下浸水していた。
前日から浸水に備え、土嚢を積んだりしていたが、土砂崩れは防ぎようが無い。
土砂崩れが警戒され、その流れが到達しそうな家屋の者は全員公民館に避難するよう消防団員の半纏に身を包んだ近所の叔父さん達が触れ回っていた。

我が家も警戒地域となった為、祖母と二人公民館に避難した。
暴風雨の中、避難するのもやっとだったが、なんとか公民館にたどり着き、他の家族と無事を確認しあった。

台風は唯でさえ興奮するものだが、公民館に避難と言う日常とは違う様子に子ども達は興奮していた。
炊き出しが行われ、大勢でご飯を食べた。
最初は興奮していた子ども達も、畑や田んぼを気にする大人の会話に次第に神妙になって行った。

公民館にはテレビがあった。でも本当ならアニメを見る時間でも、テレビは常に台風の状況を知るためにニュースだけが点けられていた。
子ども達は次第に飽き、眠るもの、仕方なくニュースを見るもの、勉強するものとバラバラだった。
私は祖母と一緒にニュースを見ていた。
ニュースでは台風の進路図が写され、自分達の町に台風が近づいてくるのが判った。

外は暴風雨が鳴らす木々の音と、公民館のきしむ音と、サイレントが鳴り響いている音で、不安を掻きたてた。
そのうち、停電になった。
一瞬皆「わっ」となったが、そこは昔の人間で田舎の事。大人たちは慌てず持って来た懐中電灯や、蝋燭で明かりを点けた。
蝋燭の揺れる灯りに照らされて皆不安そうな顔をしていたが、いつしか子ども達は眠ってしまい、私も眠ってしまった。

台風は夜のうちに過ぎ、起こされた頃には日が差していた。
公民館の雨戸を開け、皆それぞれ自分のうちに帰っていったが、それからが大変だった。

土砂崩れは私の家の直ぐ近くまで流れていて、水の引いた土間は泥だらけになっていた。
山の方の家では納屋が潰され牛が二頭、山羊が一頭生き埋めになったと聞いた。
その牛や山羊は良く餌をやりに行っていた牛で、牛の大きい澄んだ目が好きだった。
山羊はどこを見ているのか判らない目だったが、牛より自由に小屋を歩き回り、柵に前足を掛けて草をねだったりしてくれた。
牛は餌をあげるとジッと顔を見ながら手から草を食べてくれ、山羊は鳴き声で喜んでくれていた。(勝手にそう思っていただけかもしれないが)
だから牛と山羊が死んだと聞いて、私は「もうハイジごっこが出来なくなった」と哀しくなった。

台風で避難した日は学校は休校だったが、台風一過の朝から学校はあった。
と言っても、給食センターが使えないので午前中だけだったが、家が大変じゃない子ども達は全員ではないが学校に向かった。

学校に着くともっと大変な事になっていた。
グラウンドは湖の様に水が溜まり、当時汲み取り式だったトイレが溢れ、早くに来た先生達により、消毒が撒かれ、そこらじゅう臭かった。
子ども達は担任と一緒に一階の教室を掃除して回った。勿論トイレも掃除した。
最後は手足を消毒までした。

汲み取り式のトイレが溢れると衛生上はとても危険だ。今ではそんな状態の時に子どもが掃除をするなど、到底考えられないことだが、当時はそれが普通だった。
給食が無いので午後には帰宅するが、帰りの挨拶の時、校長先生からのお礼のジュースが届けられ、子ども達は褒美を貰って得をしたとご機嫌で帰って行った。
考えてみればジュース一本で学校中の掃除をしたのだから安いものだ。

次の日からは通常授業だったが、話題は先日の台風でどれだけ大変だったかだ。
「おいんとこの裏ん山のば崩れてさ、もう少しで家の潰されるんごたった」とか、「田んぼのにきの川の氾濫してさ、稲ん浸かったっさい」とか、農家の被害は大きかった様だ。
その中でも、土砂崩れで公民館に避難したのは大きな事で、私は自慢げに話したものだ。
「サイレンのくさ、ウーウーなってえすかった(怖かった)」とか、「停電になったけん蝋燭ん中眠れんやった(本当はいつ寝た判らず気がついたら朝だったが)」とか大分誇張して話した。
家の近くの牛と山羊が死んだ話になると、農家の子ども達は自分の家の家畜の事を思い「可哀相か、苦しかったやろうね」と涙ぐんだ。

台風は木を倒し、稲を倒し、瓦を飛ばし、甚大な被害を残して去って行ったが、今は東京に住んでいる私にとって、時折来る強烈な台風は今では想い出の一つだ。
東京では救急車のサイレンは日常で、よほど近くに止まらない限り気にもしない。
台風は思うほど酷くなく、電車だけが混乱するが、いつも「なんだ、大したことない」と思ってしまう。
消防車だけは例外で、家と家がくっついて建っている東京ではちょっと遠くの火事でも油断は出来ないと思う。

そうしてすっかり都会暮らしに慣れた私だが、台風が来るかもと、雨風が強くなってくると何故かワクワクしてしまい、台風一過の朝は突き抜けたような青空を見上げ、鼻の奥で消毒の匂いを感じるのだった。