碧い鱗

青が好きです。魚の体を覆っている鱗の様に今の私を形成している想いでや出来事をチラチラと散りばめて書こうかと・・・

名古屋での出来事

名古屋で祖母が亡くなった時、連絡は夜だったので、当時2歳半の娘を連れて私は次の日の朝一番の新幹線に乗った。
名古屋駅から真っ直ぐ祖母が安置されているメモリアルホールに着き、夕べから泊り込んでいた叔母と交代する事にした。
叔母は疲れきっていたため、通夜は夕方からだし、午後には叔父達も到着するだろうと、少し休んでいいからと送り出し、
「ひーばーちゃん、ねんね?」と何度も聞く娘に「そう、ねんねだよ」と何度も答えながら、時折線香を替え、父や叔父達を待った。

叔母を送り出してから娘と二人になった後、「しまった」と思った事があった。
それは通夜・葬儀に関するあれこれの判断を私がしなければならなくなった事だ。
叔父達は午後には着くと言っていたが、正確な時間は判らない。葬儀社の人は、段取りがあるので、午前中から出来る事は決めて欲しいと言う。

先ず、第一の選択は「湯灌」だった。
「湯灌」にもランクがあった。しかもなかなか高い。
一つは「体を清拭+着替え+化粧」、次が「お風呂+シャンプー+着替え+化粧」だった。

私は迷わずお風呂を選んだ。祖母は長いこと病院に入っていたので、まともにお風呂に入っていなかったかもしれないし、最後くらいゆっくり浸かって欲しかったからだ。
金額の事はこの際気にしないことにした。直ぐに来ない叔父達が悪いのだ。

早速部屋にお風呂が運び込まれた。
娘は「邪魔しちゃ駄目」と言われてたので、ちょっと離れたところからそーっと覗いては「ひーばーちゃん、おむつ!」とか、「ひーばーちゃん、ぽんぽん(裸の意味)」とか報告していた。
タオルをかけられ、湯船に横たわる祖母は痩せて、二回りも小さくなっていて私は悲しくなった。
湯灌の時に「洒水(しゃすい)」と言う儀式があるのもこの時に初めて知った。
遺族が足元側から胸元側へと柄杓でお湯を掛けることだ。詳しい意味は忘れたけれど、なんでも湯灌は常に足元から行うらしい。
「ひーばーちゃんお風呂?」と言う娘と一緒に柄杓を持って洒水を行った。
湯灌が終わって死に化粧を施された祖母は心なしかほっとした顔になっていた。

湯灌が終わってスタッフが帰ると又娘と二人きりになった。
何しろ暇だ。娘は飽きて、眠くなったので、「ねんねしたい」と訴えて来た。
どこかに布団が無いか探したが判らなかったので、
「じゃあひーばーちゃんのとこでねんねしておいで」と言うと、娘は素直に祖母の布団にもぐりこんだ。
私は可笑しかったが(どうするかな~)と見ていたら暫くして、「ひーばーちゃん冷たい」と言って出てきた。
「そっか、冷たいかぁ」と笑いを堪えながら座布団とコートで布団を作ってあげた。
昨年その話を娘にしたら「なんてことすんだよ!いたいけな私に」と言ってちょっと抗議されたが、
しかし、結局「まあめったに無い経験か」と笑っていた。
もし私の娘と会うことがあったら「死体と寝た女」と呼んであげて欲しい。

第二の選択が大変だった。祭壇の選択だ。
これはランクも複数あるが、値段がとにかく高い。
豪華な祭壇となると100万とかしていて、これを一人で決めるのは荷が重かったが、先に決めてくれと言われたので
仕方なく下から二番目の祭壇を選んだ。
しかし後で(午後も遅く来た)叔父に「ちんけな祭壇だ」と言われ私は腹が立った。
その叔父は葬儀費用は一切出さなかったくせに、文句ばかり言っていた。
あげく、私に「孫一同で花輪を出せ」と言い、「お前は育てて貰って末っ子扱いなんだから葬式代を出せ」とも言った。
葬儀代は祖母の貯金から出すと一番下の叔父が言ったので事なきを得たが、花輪代は従兄弟から徴収できず、結果私一人の支払いに終わった。
この件については私は一生忘れない事にしている。

一度危篤になった時に集まって相談してあったので、叔父達がゆっくり来たこと以外は通夜も葬儀もスムーズに運んだ。
葬儀が終わり、手配された車に分乗して親戚一同火葬場へと向かった。

■ここからはあくまでも私の主観(いままでもそうだったけど)で、決して愛知の方々を非難している訳ではないことを最初にお断りしておく

火葬場について最初に驚いたのは、案内係りのお姉さま方だ。
制服を着て、クリップボードを抱え、10人以上の人が並んでいた。
玄関に横付けされた霊柩車に駆け寄り、喪主に名前を確認し、そのお姉さんの合図で棺桶が運び出されるまでの時間、賞味3分。
いや、3分もかかっていなかったかも知れない。後続車の私達は慌てて喪主の叔父の後を追いかけた。
棺桶を先頭に炉のある部屋まで行って更に驚いた。
壁に小さな扉がずらっと並んでいるのだ。端の方まで見えなかったが延々と続いているような感覚になった。そして扉と扉の間隔はとても狭い。

あっけにとられていると、「場所が狭いため、最後のお別れは喪主の方のみとさせていただきます」と説明があった。
叔父が「え?俺?」と戸惑いながら出て行き、棺桶の小さい扉から祖母に手をあわせその扉を閉めた。
叔父が下がって「それでは皆様お別れです。合掌でお送りください」と僧侶に言われ、皆が見守る中、祖母の棺桶は扉に押し込まれ、「ガチャン」と言う音と共に見えなくなった。
そこでも又驚いた。作業服を着た係員が、その場でスイッチを入れたのだ。
無造作にボタンを押し、ストレッチャーを押して出て行った作業員を、これまたあっけにとられた顔で見ていた私達を急かすように、お姉さんが待合室まで案内し、喪主の叔父に番号札を渡した。
「それでは案内があるまでお待ちください」とお姉さんが側を離れた途端、嫌味な叔父が
「なんだか随分勝手が違うな、まるで流れ作業だ」と文句を言った。
流石にそれには皆同意し、喪主の叔父も「何番まであるんだここのカマは」と番号札を振った。
確か、祖母の番号は20番台だったと思う。

私は娘をあやしながら火葬場の待合室から外が見えるところまで出てみた。
玄関ではひっきりなしに霊柩車が到着し、案内のお姉さん達は皆手際よく遺族を案内していた。
「ゴルフ場より機敏だな」と私は感心しながらその様子を眺めた。
そして同じように番号札を渡された親族が続々待合室に来る。
時折、「○○番でお待ちの○○様、ご準備が整いましたのでホールまでお越しください」とアナウンスがあり、
そのたび何処かの一団が、「おっ家だ!」と言いながらそそくさと席を立つ様子が見れた。

我が家の番になって、呼ばれたので皆で炉の前に立った。叔父が渡した番号札には鍵がついていて、間違いなく祖母の遺骨を取り出してもらった。
そもそも各扉に鍵がついていたことに驚いたが、これだけ沢山の炉があるのだから仕方ないとも思った。

「拾骨は10名までとさせていただきます」と言われ、祖母の子と孫の血縁のみで周りを囲み、拾骨した。
(狭いからここでも人数制限なんだ、てか炉の前なんだ)と思ったが、皆従うしかない。
色々勝手が違うので戸惑いながらも拾い壷に収めた。
「これで終了でございます。こちらが証明書でございます。残りのお骨はこちらで預からせていただきます」と矢継ぎ早にお姉さんに言われ、
喪主の叔父は「は、はい、ありがとうございました。よろしくお願いします」と頭をさげた。
それを待っていたかのように、係りのお姉さんは作業服のオジさん達に頷いて合図を送った。
作業服のオジさんは壁に繋がったホース(バキュームカーのホースの様な)を持ち、又ボタンを押して、
台の上に残っていた祖母の遺骨を「ボー、ボー」と吸い出した。
あらかた吸って、最後に箒でステンレスの台を掃き、粉を塵取で取って、床の掃除を始めた。
私達はその作業の一部始終を驚愕の表情で見詰めていた。
案内のお姉さんはその間も、何事も無かったかのように、骨壷を包み、喪主を出口まで案内しようとしていた。
お姉さんが合図を送ってから賞味1分。それが祖母の最後だった。

葬式をしたメモリアルホールに戻り、案内された座敷でそのまま初七日を執り行い、長かった二日間が終わった。
帰りの新幹線で叔母と別れた後、叔父が言い出した。
「ユミ、お前に言っとく事がある」この叔父はとにかく嫌味が多いので私は多分ムッとした顔で「何」と聞き返した。
「もし、俺や俺の息子が何かの理由で名古屋辺りで死ぬことがあったら、絶対に遺体を東京まで運んでくれ」
叔父は真剣な顔でそう言った。
「そんなの家族で相談しときなよ」と言いたかったが、もう一人の叔父も「俺も名古屋で焼かれたくないな」とつぶやいたので
「判った、二人も従兄弟達も必ず東京まで運ぶよ、約束する。その代わり私がそうなった場合も同じだからね」と私は答えた。
叔父は「そうだ、お互いにそうしよう、俺等親戚の約束だ、忘れんなよ」と安心した顔を見せた。
まったくもって変な約束だが、私はまだ忘れていない。

後で知ったが名古屋には当時火葬場は一箇所しか無かった。最近二箇所目が出来たらしいが、やはり炉が30基あり、大型の火葬場だ。
あれだけの大都市で当時は46基でまかなっていたと言う事なので流れ作業も致し方ない。
それにしても、名古屋は結婚式はこれまた格別に派手な事で有名なので、この格差はなんなんだろうと思ってしまうのだった。