碧い鱗

青が好きです。魚の体を覆っている鱗の様に今の私を形成している想いでや出来事をチラチラと散りばめて書こうかと・・・

三連休の収穫(おまけと言うかお詫びと言うか・・・)

私は大変な間違いを犯した。
先日書いた「三連休の収穫」の1と2の中で、「蛙の子は蛙」と表現したが、そのことわざは決して褒め言葉では無かった。
一度書いたものを修正するより、改めて訂正文として書くことにする。

私が言いたかったのは、親の才能を子が受け継ぐことが素晴らしいと言うことに他ならない。
しいて言うなら「青は藍より出でて藍より青し」だろうか?
別にことわざに拘るつもりは無いが、上記のことわざは時に「鳶が鷹を産む」と同じ様に使われているが、本当はそうではない。
又「鳶が~」の方は親が劣っている様に取られる。私が言いたいのはそうではないのだ。

青色の染料は、藍という原料から取れるが、ほおっておいても染料は取れない、難しい工程で抽出するらしい。
それによって、藍から取れた染料の青さは原料の藍よりも濃く、鮮やかになるのだ。
そういった事から、人にあてはめ、もともとの素質を、教育や努力でより高めた人のことを指すらしい。
いくら親から才能を受け継いだとしても本人の努力なしでは日の目を見ないのだ。
勿論、その努力の度合いは人によって違うかもしれない。
でも安穏としていては何も生まれないのは確かだ。
又、才能のある親を持つ子の苦悩もあるだろう。

きっとあの才能の影には人知れず苦悩と努力があるんだ。そう凡人である私は思いたい。

ことわざで思い出したが、祖母はよくことわざだか標語だかわからない事を言っいた。
きっと昔の人は皆そうだったんだろう。いや日本人が標語や語呂合わせが好きだ。きっと和歌や俳句の文化のせいだと思う。
第二次世界大戦の頃は特に標語が多かったと聞いている。(「欲しがりません勝までは」みたいな)

それはさておき、祖母が良く使っていたのは「早寝、早起き、早走り」だ。
「早走り」は出掛けにモタモタするなと言うことらしい。
その標語は時と場合によって変化する。
「早飯、早糞(失礼)、早走り」と言う風だ。
さっさと食べて、さっさと出して、出掛けるならさっさと出掛けろと言う事だ。
毎朝、半分寝ながら朝食を食べる娘と、出掛ける前になると必ず「あ、俺トイレ」と言って篭る旦那に言いたい。
ここにもし祖母が居たらな盛大に煽って急かしただろう。
「ほんなごってあんた達ゃーごっといんごと、のそのそして、早よーせんね、早飯、早糞、早走りばい!」

私は小さい頃から毎日のように祖母に言われ続け、おかげで、学校で便意をもようしても平気になった。
なぜなら、小の時の所要時間で大が出来るからだ。それはもう特技と言っていいと思っている。

小学生や中学生の頃は大でトイレに行くのがとても恥ずかしい事で、もし誰かに見つかったら大変な事になった。
女子はまだいい。常に個室だから。
男子は大変だ。個室に入ると上を確認しながらでないとおちおちしていられないと誰かが言っていた。
でも私は何食わぬ顔をして用を足す事ができた。
もちろん、体調が悪い時は別だ。不安でなかなか立ち上がれない。
そういう時は保健室に行き、誰も居ない授業中にゆっくり入るのだが、普通の時はこの特技が大いに役立った。

今でも勿論身についている。
大きな駅や、サービスエリアやコンサート会場で混雑したトイレでも何食わぬ顔して用を足す。
並んでいると、大体どの扉が長く閉まっているか判るのだ。
長く閉まっていたトイレに次に入るには一瞬勇気が必要だが、私の後の人はその勇気の準備も無く入ることになるので
少々気が引けるが、混雑したトイレはそれこそ「早糞」は美徳だと思う。

あぁ、すっかり脱線してしまったが、日本語は良く意味を知ってから使わないといけないと思った事と、
関係者に不快な気持ちにさせちゃったのでは?と思う気持ちで、お詫びを兼ねてみた。

お詫びになってないんじゃない?(心の中の自分の声)
そうかな、そうだね、シリメツだね(もう一人の心の中の自分)
いや、味噌糞じゃない?(心の中の自分の声)
・・・・・・・