碧い鱗

青が好きです。魚の体を覆っている鱗の様に今の私を形成している想いでや出来事をチラチラと散りばめて書こうかと・・・

昔書いた小説「マツリカの時」について

数年前あるアイドルグループのイメージで小説を書いた事がありました。

もちろんこのブログに載せたのですが、登場人物の名前を最近人気のグループのメンバーの名前をもじって書き直してみました。

なぜ名前を変えたのかと言うと、以前のグループのメンバーより書き直したメンバーの方が年齢のイメージに近いから。と言うのが一番の理由ですが、

出来ればこの拙い小説を多くの人に読んでもらいたいなーという欲のためです。

プロットを少し説明しますね。

登場人物のメインとなる人物

江戸に住み寺子屋をやっている目黒 連太郎

お殿様の側近、岩本 照之介、舘宮 良一郎

江戸に住み一膳飯屋をやっている深沢 辰 などです。

実際の人物をイメージして読んでいただけたら幸いです。よろしくお願いします。

 

書き直しのため校正がうまく行ってない場合もありますが、ご愛敬って事で・・・

マツリカの時ー13

一月二十五日、予定通り店を休みにしたまつりの一行は目黒、深沢と待ち合わせて湯島天神まで出掛けて行った。

この日雨は降っていなかったが前日からの冷え込みで一日曇天が予想された。

昨日から何を着ていくか悩んでいた茉莉花だったが、結局いつもの軽装にする事に決め、カルサンに羽毛の半纏にしていた。

 

由佳も普段は荷物を持たないが、今日は遠出をするので、なんとなく無人の店においておくのも気が引けたため、章五郎から受け取った佐久間の手紙や電源を落とした携帯などを一まとめにした袋を斜めに背負って出た。

「お母さんそれも持って行くの」と茉莉花に言われたが、無人なのが怖いと説明すると茉莉花も小さな袋を持った様だ。

あいにく舘宮は御用多忙との事で不参加だったが、総勢八名の一行は足取りも軽く一刻あまりで着いた。

高輪から湯島までは東海道をほぼ真っ直ぐだ。

 

神社にはすでに人形を求める人が大勢集まっていた。まだ社務所は開いていないらしい。

梅はまだ三分咲きと言ったところだが、本数が多いため、なんともいえぬ良い香りが神社を包んでいた。

 

「間に合ったね、それにしても凄い人だね。人形買えるかな」と茉莉花は不安顔だ。

「一人ひとつしか買えないそうなので、皆で並びますかね、それともお参りを先にしますかぃ」と章五郎に聞かれ、人形が買えないと困るとの意見で、天神様には悪いが先に人形を買う列に並んだ。

普段は特にお給金を渡していない由佳だったが、お年玉も兼ねて、夕べ一朱づつ、まつりの皆に渡してあった。

やっとの事で人形を買い、押し出されるように拝殿に詣でた。

「ふう、どんどん人が増えてくるね。手水舎の横に梅林があったけど、ゆっくり見ることも、休む事も出来ないね」

「お嬢さん、それなら、この先の女坂の辺りにも梅の木は沢山植わっているそうですぜ、そっちのほうが空いているはずですよ」と章五郎が皆を案内してくれた。

茉莉花、おいらと取替えしようよ」と文太に言われ、

「いいよ、替えましょ、替えましょ」と交換した。

おふきはと見ると人形を手にもじもじしている。

「おふきちゃん、取り替えないと厄が落ちないよ、ほら、目黒さん、ぼーっとしてないでおふきちゃんと交換してあげなよ」と茉莉花に言われ二人はそっと人形を交換した。

「じゃあ目黒さん、次は俺と交換して」と深沢が目黒の人形を取ろうとしたので、由佳はとっさに

「深沢さん、私と交換しましょう」と自分の人形を深沢に押し付け、深沢の人形を取り上げた。

由佳は茉莉花と目配せを交わし、目黒とおふきを見た。二人はお互いを意識しながらも周りを見回しながら歩いていた。

「二人が幸せになりますように」と由佳は心の中で祈った。

 

「お、なんだか空がだいぶ怪しくなって来ましたね、こりゃひと雨来るかも知れねぇ」と章五郎に言われ皆は少し急いで女坂を降りかけた。少し霧も出てきた様だ。

「見てみて、あそこの梅はずいぶん真っ赤だよ」と文太に言われ見ると、梅林の中ほどに他とは色の違う紅梅が一本立っていた。

「本当だ、珍しい木なのかな」と一旦は降りかけた坂を少し戻り、皆で梅に近づいた。

薄く靄がかかった中に赤い花を咲かせた梅の木はことのほか凛として見えた。

 

茉莉花と文太が木に近づいたそのとき、数羽のムクドリがバタバタと空に飛び上がった。

「なんだよ、脅かすなよ」と文太が言いかけたとき、ぐらっと地面が揺れた気がした。

由佳はデジャブを感じ、咄嗟に「茉莉花」と叫んで茉莉花の元へ駆け寄った。

 

「なんだ、地震か」と辺りを見渡した文太が

「え、茉莉花、どこに行ったんだい、女将さんもいねぇ」と叫んだ。

 

その声を聞いた章五郎と目黒が急いで駆け寄ってきた。

「章さん、茉莉花と女将さんが、今さっきまでそこにいたのに、消えちまった」と慌てて梅の木の周りを走り回った。

目黒と章五郎は頷き会うと、「文太、落ち着きねぇ」と文太の腕を掴んだ。

「何言ってんだよ、これが落ち着いていられるってのかよ、おいらの目の前で女将さんと茉莉花さんが消えちまったんだよ、神隠しにあったに違ぇねぇ」と章五郎の手を振りほどいた。

「文太、二人は神隠しにあったんじゃ無いのだ」と目黒に言われ文太は「えっ」と目黒の顔を見上げた。

「二人はな、時滑りしたんだ」

「なんだよ、その時滑りって」と言い掛けて、文太ははっと気がついた。

以前雛屋にかどわかしにあった時、雛屋が「時渡り」と言っていたのを思い出したのだ。

「それって、時渡りとかいう言葉と一緒かい」と目黒に聞いた。

首肯した目黒は時滑りの事を簡単に説明した。

話を聞いた文太は懐から鷽替えの木彫りの人形を出し、

「それじゃ、もう茉莉花には会えないんだ」とつぶやいた。

章五郎は文太の肩に手をかけ、

「こればかりはどうする事もできねぇんだ」と声を掛けた。

人形を握り締め俯いていた文太は、

「長崎帰りってのは嘘だったんだね。皆でおいらに内緒にしてたんだ」

「すまねぇ」

おふきは「ごめんね文太ちゃん、でも言えなかったんだよ。堪忍してね」とすがりながら泣いた。

「おいらに字を教えてくれるって言ったのに、女将さんはそろばんも教えてくれるって言ったのに」

と震えながら言い、梅の木に向かって「まりか、まりかぁー」と泣きながら何度も叫んだ。

おつたもたまらず文太に駆け寄り、抱きしめながら泣いた。

「無事に元の場所に戻れたらいいね」と深沢が梅の木を見上げつぶやいた。

それに応える様にか、先ほど飛び立ったムクドリが、数羽が木に止まり、「ギャー、ギャー」と鳴いた。

 

 

 

 

「由佳さーん、大丈夫ですか」と純ちゃんの声がした。

由佳は茉莉花の顔を見ると、両手で体を触り、「大丈夫、なんとも無い」と確認した。

茉莉花は「大丈夫だよ、それより戻ってきたのかな」と周りを見渡した。

目の前には楓が秋の日差しを受けて鮮やかな赤い色を誇っていた。

「とにかく降りよう」と二人は純ちゃんのいる方へ歩いて行った。

 

「由佳さん、茉莉花もその格好どうしたの」と純ちゃんに驚かれたが、「話は戻ってから」とだけ答えて足早にキャンプ場に戻って行った。

 

「お、お帰り、どうだった、紅葉はあった」といいかけた亮一は二人の様子を見て、

「どうしたのその格好」と目を見張った。

由佳は、「とりあえず缶チューハイ頂戴」と貰い、一気に飲み干した。

「あー、本当に戻って来たんだ」というと、皆を前に茉莉花と由佳が体験した事を話した。

最初は皆黙って聞いていたが、「そんな事あるわけないじゃん」と笑われた。

しかし二人が着ている物はさっきまでの服装とは明らかに違っていて、ダウンのコートに至っては半纏に作り変えられている為、半信半疑だが信じるしか無い。

「それにしてもタイムスリップって、出来すぎじゃね」と亮一は行ったが、

「そうだ、充電器、充電器」と茉莉花は携帯を充電して

「実は、下屋敷で一枚だけ取ったんだ」と携帯を見せてくれた。

そこには怪訝そうな顔をした若様と、髪を島田に結い、着物を着た茉莉花が居た。

「本当だ」と亮一はその写真を見てやっと信じる気になった様だ。

「しかし、同じ場所に戻って来れて良かったよね、もし違う場所や時間だったらこっちは大騒ぎだった」と亮一が心配した。

「うん、それは心配したよ。でも、こうして落ち着いちゃうと何だか夢を見ていた様な気がする」

「でもお母さん、私たちは確かに江戸で四ヶ月近く過ごしたんだよ、だからその四か月分は髪も伸びているし、年も取ったって事じゃない。それって損なのかな。それに、もしも、もっと長く向こう居て戻ったとしたら、うんと年を取ってしまっているって事になるよね。

それじゃまるで本当の浦島太郎だよ。私たちはそうならなくて良かったね」

「うん、そうね。短い期間で良かったのかも」とすぐに戻れて幸運だったと由佳は思った。

 

その夜二人は久しぶりにシャンプーで頭を洗い、みんなとバーベキューをし、遅くまで体験談を話しながら過ごした。

由佳は寝る前に袋の中身を確認した。

向こうから持って来たのは佐久間の手紙と財布だった。財布には二朱と小銭が入っていた。

「佐久間さんの住所に届けに行かなきゃね」と茉莉花が覗き込みながら言った。

「そうね、今度川越の資料館にも行ってみたいな」

「そうだね、あの後、川越藩はどうなったのかな」と茉莉花は窓から空を見てつぶやいた。

 

次の日、帰る途中に亮一にお願いして妙見神社を探した。

妙見神社は名前を星宮神社に替えていたが、確かに同じ場所に神社はあった。

「こんなに小さかったっけ」といいながら拝殿に向かうと、昔の面影を残した拝殿があった。

由佳は「無事戻ることが出来ました」とお礼を言いながら参拝し、名栗を後にした。

 

 

「そうか、楠田親子は再滑りしたもようか」と舘宮からの報告を聞いていた矩典は立ち上がって障子を開け、庭に出た。

「無事であれば良いがの」とつぶやいたが、振り返って、

「此度は存外短かったの、これで符丁が合えば再滑りする事がはっきりした。岩本は記録し、舘宮はこの件を急ぎ文左衛門に知らせよ」と命じた。

舘宮が畏まって下り、岩本も下がろうとした時に、

「岩本、白モッコウの手配はどうなっておる」と聞いた。

「はっ、春になれば植えることが可能と聞き及んでおります。苗木は出入りの植木屋にすでに注文してございます」

「そうか、してどこに植えるかだが、岩本、そのほうどう思う」

「はっ、僭越ながら申し上げますが、私めはこの本丸と喜多院にも植えられるのが良かろうと存じます」

墓所にとな」

「はい、時滑りたちの話を聞きますと、幕末の後、城や屋敷はことごとく召し上げられ、手が入ると聞き及んでおります。しかし神社仏閣は多くがそのまま残されたと聞いております故、墓所にも植えられるのが良かろうと存じます」

「ふむ、しかし余はいずれ養子に出る身。いずこに葬られるかわからぬ。しかし、それはその時考える事に致すか。良い、そのように手配せよ」

と指示し、「もう下がってよい」と命じた。

一人になった矩典は再び庭を眺め、「茉莉花、壮健であれよ」と呟いた。

 

キャンプが終わり家に戻った茉莉花は早速パソコンを開いて、川越藩の事を調べた。

若様がその後どうなったのかを知りたかったのだ。

「ねぇ、ねぇお母さん、来て来て」と呼ばれ由佳は並んでパソコンを覗いた。

「若様って、あの後、藩主になったみたいよ」と教えてくれた。

「本当だ、自分は他藩に婿に行くって言ってたよね」と思いながら読むと、藩主の兄が急逝したため文化十三年に兄の養子となって跡目を継いだとある。

名を斉典に変えた矩典は、藩校を立てたり、飢饉や水害の対策を行ったり、さまざまな取り組みをして「好学の名君」と紹介してあった。特に茉莉花の目を引いたのは、水害の時、身寄りのない子ども達を集め、育てる場所を作ったとあった事だ。

「ちゃんと生かしてくれたんだ」とつぶやいた。

さらに検索すると、斉典の肖像画がヒットした。

「えーこんな顔じゃないけど」と茉莉花は抗議したが、「故」と書いてあったので、無くなった頃の姿だと思われる。

「それじゃ仕方ないか、まぁ確かに面影はあるけどね。しかしずいぶん太ったね」と言いたい放題だが、

「若様は藩主になって勉強したことを何とか実現しようとしたんだね」と感心してもいた。

由佳は「文左衛門さんの事も分かるかな」と検索を促した。

「苗字何だっけ」

「大河原だよ」

「あ、これかな、すこつへいだって、変な名前」

大河原文左衛門は家業の薬屋の傍ら漢詩、批評、風刺、和歌、俳句などの著作を残し、風刺小説家、周滑平として一流の学者などを比喩した「学者必読妙妙奇談」という本を残していた。

「今度読んでみようかな、現代文訳があればだけどね」と由佳は文左衛門との約束を思い出して言った。

若様や文左衛門に出会わなければ由佳たちはどうなっていたのか分からない。

そう思うと、いまさらながらに身震いがした。

 

後日、由佳と茉莉花は佐久間の住所を尋ねた。佐久間の家は都内で以外と近くだった。

ちゃんと佐久間が戻ってきているのかは解らなかったが、家族の人に手紙を渡すだけでもと思ったのだ。

家を探し当て、呼び鈴を押すと、出てきたのはすこし歳をとったが紛れもなく佐久間本人だった。

一瞬二人を窺うように見ていた佐久間は、「あっ」と驚きの声を発した。

「佐久間さんですよね」と問いかける由佳に、

「楠田さんも戻って来れたんですね、いやー二人とも無事で良かった」と涙を浮かべながら言った。

「佐久間さんこそご無事で何よりです」と由佳は佐久間の手をとり、お互いの無事を確かめた。

 

「どうぞあがってください」と案内してくれた佐久間は少し足を引きずっているように見えた。

「ああ、これ、あの時再滑りして同じ場所で同じ時間に戻ったんですよ。そしたらそのまま大怪我をして、次に気がついたら病院のベッドの上でした。その時の後遺症が少し残ってしまったんですが、クライミングには支障ないんで大丈夫ですよ」と例の屈託の無い笑顔を向けた。

「大変でしたね」

「それじゃ、佐久間さんは二回も大怪我したって事」と茉莉花も驚いたが、当の本人は気にしていないようだ。

その後、お互いのその後を話し、思い出話をして過ごした。そして今度一緒に川越に行くことを約束した。

帰り際に、「本当にお二人に会えて良かったですよ。最近は、あれは怪我をしたときに見ていた夢だったんじゃないか、と思いだして、少し寂しい気がしていたんです。だから同じ経験を共有出来る人が居てくれて良かった」と言われた。

 

川越の喜多院は建立は古く、平安初期とあった。江戸初期に、徳川家康の信頼を得ていた天海僧正が住職をしていた寺で、幕府からの厚い庇護を受け、江戸城から豪華な壁画や墨絵で装飾された「客殿」と呼ばれる家光誕生の間や、三代将軍家光の乳母として知られる春日局が使用していた「書院」と呼ばれる春日局化粧の間などが移築されいる場所でもある。

駿府で没した徳川家康公の遺骸を日光山へ運ぶ途中で法要が行われたことから建設された日本三大東照宮の一つである仙波東照宮も隣接しているとあって、参拝客は後を絶たないという。

佐久間と待ち合わせをして由佳達が訪れた日は桜の時期も終わり、連休の前とあって、参拝客はそう多くは無かった。

大師堂と呼ばれる本堂の裏手に松平大和守家廟所があり、由佳たちは斉典の墓石を探した。

墓石を見つけ、それぞれ手を合わせて瞑目した。

「若様、報告が遅くなりましたが、無事戻って来る事が出来ましたよ」と佐久間がつぶやいた。

参拝が終わり、ついでに境内を散策しようと庭園に向かった。

「ねぇ、お母さん、川越藩のお屋敷はもう無いんだよね」と茉莉花に聞かれ、

「うん、玄関あたりしか残っていないみたいだね」と由佳はネットで入手した情報を伝えた。

「そっかぁ」と茉莉花は残念そうだった。

庭園の入り口辺りに差し掛かった時、微かに柔らかな花の匂いがした。

匂いの元を探すと、こんもりと形付けられた蔓性の木に白い花が咲いていた。

「あ、モッコウバラだ」と由佳が花に近寄った。

モッコウバラ?これは白いからシロモッコウというの?」と茉莉花は由佳に聞いた。

「よく知ってるね、モッコウバラは白と黄色があるんだよ、これは白モッコウだね」と答えた。

この白モッコウはいつ誰が植えたのかは定かではないが、茉莉花はきっと若様が植えたんだと思った。

藩主になり、川越を離れることの無かった若様は喜多院が無くなる事は無いと踏んでここに植えたんだと信じたかった。

摘んでいた小さい花をパッと離し、茉莉花は「ふふっ」と笑い由佳を振り返って言った。

「わたしさ、やっぱり進路は日本史にする。江戸時代の事もっと知りたいしさ」と言った。

 

由佳は白モッコウから空へと目を移し、舘宮や岩本、そして深沢や目黒の顔を思い浮かべた。まつりの皆はあのあと無事に幕末を乗り切ったのだろうか、それを知る術は無いが、もしかしたらこの空の下に、おふきや、文太の子孫が居るかもしれない。そう願いたいと思った。

そして、「若様、皆、どうか茉莉花の事を見守ってください」と心の中で念じた。

 

マツリカの時ー12

とうとう江戸で正月を迎えてしまった。

暮れには長屋から引っ越してきた文太を迎え、少々手狭になったまつりだが、何とか無事正月を迎えることが出来た。

晦日まで店を開け、いつもより早仕舞いをしようと思ったが、掛取りに走り回るお店の奉公人や、暮れに少しだけ懐が暖かくなり、土産を持ち帰ろうとした職人らが夕方から増え、思いのほか忙しい思いをし、それでも合間に正月の準備を進め、八時頃には皆揃ってこれまでの苦労を労い夕食兼ささやかな宴を開いた。

章五郎は元旦は屋敷の方に戻ると言っていたため、除夜の鐘を待って皆で近くの神社に初詣に行くことにした。

 

「おふきちゃん、何をお祈りしたの?熱心に祈っていたみたいだけどさ」と茉莉花が冷やかしたように聞くと、

「内緒です。言ったらご利益がなくなっちゃいますから」と頬を赤らめて茉莉花の問いをかわしていた。

「ふーん。大体想像つくけどね。まぁ、上手く行くことを私も祈っているよ」とにやにやしながら言う茉莉花に、

「えぇ、何の事ですか、違いますよ、おっかさんが幸せになりますようにって、お祈りしただけです」と慌てた。

「あれ、言ったらご利益なくなるんでしょ」と茉莉花の冷やかしは止まらない。

「もう、茉莉花さんたら。それより茉莉花さんこそ何をお祈りしたんですか」

「そりゃぁさ決まってるよ。来年こそは」と言い掛けて、文太が傍にいるのに気がつき、

「やっぱり私も内緒」とはぐらかした。

 

おふきは茉莉花の願いは元の時代に戻ることだと判っているが、これまた文太の手前、

「案外若様の事だったりして」と茶化した。年頃の二人の会話は姦しい。

「はぁ、何でそこで若様が出てくんの」

茉莉花さんは若様のお気に入りだからですよ」

「あ、そんな事言ったらおふきちゃんだって目黒さんのお気に入りじゃない」

「そんな事ないです」

 

二人の会話を聞いて

「え、茉莉花さんって若様に輿入れするのかい、おふきちゃんは目黒さんと所帯もつのかい」と驚いた文太は二人に

「そんな事あるわけないよ。まったく」と叱られた。

 

「おつたさん、七回忌はいつ執り行う予定ですか」と由佳は年明けの予定を聞いてみた。

「へえ、命日が六月ですのでその前にはと思っています」

「そうですか、それじゃぁその時は皆で行きましょうか。名栗は青梅を抜けても行けるでしょ、五月頃なら気候もいいし物見遊山がてらって言うのはどうかな」

「皆さんに来てもらえるなんてありがたいです。でもお店の方はいいんですか」

「まぁ何日って訳でもないだろうし、たまにはいいかなと思ってさ。また近くなったら相談しようね」と由佳は言いながら、それまでに再滑りすることが無ければと心の中で思ったが、口には出さなかった。

 

店は他の店と同じように三日から開けた。

町は新春らしいさわやかな天気が続き、初詣や、初売り出しの帰りの客で賑わった。

まつりも新しく焼きうどんを売り出し、上々の出だしだった。

章五郎は、佐久間の件で五日から川越に行くことが決まっているため、その前にと文太に色々仕込んでいた。

「いいか、青菜はいつもぼて振りの新太から買っているが足りない時は八百八までひとっ走り買いにいくんだぞ」

イカは魚河岸から届けて貰っているが、うちは目方で買っているから、届いたら必ず計るんだぜ」

など仕入れについても教えている。

文太は章五郎について一生懸命覚えようとしていた。年末に父親を亡くし、まつりで暮らす様になってからさらに大人びたようだ。

正月休みの間も茉莉花を捕まえては字を習ったり、由佳からはそろばんを習ったり熱心だった。

元々頭の良い子だと聞いていたが、いつも間にか黄表紙位はほとんど一人で読めるようになっていった。

章五郎も一緒に三畳間で寝起きしているせいか、自分の子どもの様に叱ったり褒めたりしていた。傍から見ると親子の様だと由佳は思った。

 

その日は今年一番の底冷えのする朝だった。

昨日降った雪は止んでいたが、深い針葉樹の間にも雪が降り積もり、笹が頭を垂れていた。

前日に川越入りしていた章五郎は、兼ねてより手配していた人足と木材を従えて日和田山の女岩の麓にすでに到着していた。

「旦那、昨日までの雪で足場が滑りやすくなっておりやすが、本当に今日ここに仕掛けを作るんですかい」

和田山で樵をしている吉左が手に息をかけ、手もみをしながら聞いて来た。

「おうよ、こちとらも上の命令で動いているんだ、今日中に仕掛けを作っちまおう。皆たのんだぜ」

「へい」と吉左以下応じ、「気をつけてやるんだぜ、なにしろ滑るからよ」と吉左も声を掛け作業が始まった。

 

まずは、女岩の両端に梯子を立て、周りの木を使い固定していく。

その後、岩の表面に向かって立つ杉を縫うように縄を通していく。

それが済んだ後岩の根元から木々に向かって受けるように網を掛けていく。

網は投網を二重にし丈夫にしてあるものを使う。

 

ちょうど白魚漁のすくい網の大型版の様な形だ。一辺を岩の根元に打ち込んだ杭に縛りつけ、一辺を木々に通し縄を使って固定していく。

女岩の高さは高いところで、十一間、幅は広いところで四十四間もある

(高さ約十から二十メートル、幅七十から八十メートル)

網は何枚かを重ね合わせながら張り巡らされ、女岩の中腹からの落下を受け止められるようにすこし余裕をもって設置された。

 

滑る足場に気を使いながらも吉左以下五名の樵の手伝いで何とか昼八つまでに作業があらかた終わった。

後は試しに岩から飛び降りてみて、強度を確かめるだけだが、章五郎には試しをする自身が無かった。

章五郎の家は代々越前松平家に仕えるお庭番だ。技量により、中間の役を承ったりするが、実は本来身分は武士だ。

章五郎の家も元を正せば甲賀忍者の末裔で、厳しい修行の上、お庭番に抜擢されるのだが、

如何せん徳川も百余年を過ぎ、武士の腰の物も飾りの様になっている時代で、昔の様な気概がある者は少なく、章五郎もしきたりに則り、そこそこにの修行はしたが、素手で岩によじ登り、そこから落ちるなどの芸当は出来そうに無いと思っていた。

どうしたものかと思っていたら、舘宮と佐久間がやってきた。

「おぉ出来ましたね。思っていたより大掛かりですな」と舘宮が感心したように言った。

「これはご苦労様です。皆の手伝いもあって思ったより早くに出来ました。後は試しをするだけでございます」と章五郎は舘宮に報告した。

「そうであろうと思って佐久間さんをお連れしたのだ。さて、佐久間さん如何なものであろうか」

網の強度や張り方は調べていた佐久間は舘宮に尋ねられ、

「大丈夫そうです。思ったより丈夫に出来ていますので」と答え、背中の荷物を降ろし、なにやら道具を取り出して腰に袋をつけていた。

 

手伝いの男達も何が始まるのか興味津々で佐久間の動きを見ていた。

佐久間は岩の下で体をほぐす様に動いた後、素手で岩に飛びついた。

そうかと思うとするすると両手で岩を登って行く。途中、岩の隙間に鉄の楔をはめ込み、それを足がかりにして又体を持ち上げてあっという間に岩の中腹までたどり着いた。

佐久間は振り返り「この辺りから行きます」と合図をし、ぱっと手を離し網に向かって落ちてきた。

 

網は杉の木を大きくしならせ。一旦は地面擦れ擦れまで延びたが、ぶつかることも無く、又反動で放り出すことも無く佐久間を受け止めた。

手伝いの男達に手を借りながら佐久間は網から起き上がった。

「おめえさん一体何者なんだい、忍びかい」「おったまげたな」と男達は口々に言い、無事を確かめていた。

佐久間は笑って答えながら「舘宮さん上々ですよ」と手を振った。

 

もう一度縄の状態を確かめて貰ってから章五郎は男達に仕事の終了を告げた。

舘宮は懐から財布を出し、それぞれに手間賃を渡した。例を言いながら受け取った男達は早々に山を降りて行った。

 

岩を見上げていた佐久間がふと振り返り、

「章五郎さんお願いがあるんですが」と懐から油紙に包まれた物を取り出した。

「これを楠田さんに渡して欲しいのです」

「へぇお安い御用です。手紙ですか」

「はい、私の住所が書いてあります。もし楠田さんが戻ることがあったら是非尋ねて欲しいと伝えてください。その時もし私が居なかったら家の物に渡して貰う手紙も一緒に入れてあります」

「確かにお預かりいたしました」そう言って章五郎は受け取った包みを懐に仕舞った。

 

「さて、後はその時が来るのを待つばかりですな。今日は冷えているので帰って暖かいものでも腹に入れましょう」

そう舘宮に促され、飽きずに岩を見上げていた佐久間も帰り支度をし、三人は山を降りて行った。

 

川越の手ごろな店に入り熱燗で体を温めた三人は今後の段取りを軽く話し、お開きにした。

佐久間は始終人懐っこい笑顔で話しをし、ねぐらへと帰って行った。

これで会えるのが最後かも知れないと思い、佐久間の後姿を章五郎はいつまでも見送った。

 

次の日、川越の屋敷の長屋を出た章五郎は名栗に来ていた。

おつたの亭主と息子の墓に詣でる為だ。

二人の墓は墓地のはずれにひっそりとあった。墓石には名前が彫ってあったが、うっかりすると見過ごしそうな位小さな墓だった。

章五郎は丁寧に掃除をし、線香を手向けて頭を垂れた。

心の中でおつたと所帯を持つことの許しを願い、おつたとおふきを幸せにすると誓った。

ふと人の気配がして章五郎は振り返った。見るとここの住職と思える人物が見つめていた。

 

章五郎は立ち上がり会釈をした。住職は会釈を返しながら、

「見慣れぬ人がいらしたので様子を見ておりました。そこはおつたの亭主の墓ですが、知り合いであろうか」と聞いてきた。

「これは失礼をしました。私は川越藩の中間で章五郎と申します。このたびおつたさんと所帯を持つことになり、御用のついでに元の亭主に許しを得に詣でました」と告げた。

「おお、そうでしたか、それはめでたい事です。それでおつたとおふきは元気でしょうな」

「へぇ、楠田様親子も元気でお過ごしです。こちらへ寄った折には、ご住職様へくれぐれもよろしくと言いつかってきております」

「それは何より、是非江戸での様子を聞かせて貰いたいのですが、如何かな」と庫裏に案内してくれた。

小僧が運んで来てくれたお茶を飲みながら、江戸でのまつりの繁盛振りと皆の様子を当たり障りのない範囲で話して聞かせた。

 

名栗は時滑りについては藩主の命のもと、村が一丸となって保護している場所で、大方の事情は知っているだろうが、章五郎からは詳しいことは話せない。それで当たり障りの無い範囲になってしまうのは致し方ない。

 

一刻ほど話をし、章五郎が「それでは私はこれで」と辞去しようとした時、不意に思い出したように、

「この後はお屋敷に戻られるのであろうか」と住職に聞かれた。

「いえ、このまま江戸に戻ろうかと思っております」と伝えると、

「暫しお待ちを」と言って部屋を出て行った。

 

暫くして、「実は蔵を片付けておったら古い文献が出ての、これを若様にお見せしたいと思っておって、遠回りになるが、お屋敷に届けて貰えるであろうか」と古ぼけた書物を渡された。

 

「何代か前の住職が書いた物らしく、ところどころ読みづらいところもあるが、時滑りについて書いてあるようじゃ。時滑りの方々が元の場所に戻るための参考にでもなればと思うての」

そう嘆息した住職に章五郎は頷くだけにとどめて、「確かに若様にお届けします」と受け取った。

 

佐久間の一件も章五郎の口からは話せない。心配する住職の顔を見て少しばかり心が痛んだが、そんなそぶりも見せず書物を懐に入れ、寺を後にした。

 

 日和田山の女岩に仕掛けを作ってから一週間ほどがたったある日。

その日は前日から冷たい雨が降り、時に霙になったりして、睦月の天候にしては不安定な日だった。

前日からの雨で、今日は休みを言い渡されていた佐久間は朝から空を見上げていた。

和田山の方では厚い雲の中に時折稲妻が見えていた。雪が降る前は稲妻がなったりするが、今日のそれは嵐の前のような様子だった。

 

「よし、行ってみるか」とひとりごちた佐久間は、長屋の掃除を済ませ、上がりがまちに舘宮宛の手紙を置き、小さな荷物だけを持って家をでた。

目的地は勿論仙人岩だ。

時折強くなる雨の中、すげ傘をかぶり黙々と山を目指した。

一刻は過ぎただろうか、佐久間は横手村諏訪大明神に着いた。

先日下見をしたとき神社があるのを目に留めていた佐久間は、この神社の由来も知らずにいたが、今回の試みの成功を祈ってお参りしようと考えていたのだ。

 

お参りを済ませた佐久間は荷物を降ろし、暫し休むことにした。

雨風は川越を出たときより強くなり、雷の音もゴロゴロと山のほうから聞こえて来るようになった。

神社の軒を借りて、持ってきた握り飯で腹ごしらえをしていた佐久間の前に駆け込んで来た者が居た。

 

「もしかしたら今日あたり来ているのではと思ってな」と塗れた傘を取り、にこりともせず言ったのは岩本だった。

「これは岩本様、わざわざありがとうございます」佐久間は立って頭を下げた。

うむ、と頷き帰した岩本は拝殿に向かいお参りをした。

岩本には何度かあった事があったが、いつも寡黙に控えているだけで、特に言葉を交わした事は無かった。

それでもわざわざ来てくれた事に佐久間は嬉しくなった。

「あの、お屋敷から真っ直ぐ来られたのですか」

「いや、そなたの長屋に寄って、舘宮宛の手紙を見つけたので、それを持ってこちらに参った」

「昼飯は食べられましたか、握り飯ならありますがいかがですか」

「うむ、もらおう」

それっきり話すことも無く二人は暫く並んで腰掛け、握り飯を食べた。

 

二人が女岩に着いたのは八つ頃だった。山の中では雨も木々が遮ってくれるが、足場は悪く女岩にたどり着くのに難儀した。

雷は一層音を轟かせ、近くなっている事を教えていた。

佐久間は仕掛けを点検し、岩に登る準備を始めた。

岩本は薄暗くなった空を見上げ、黒く重い雲が迫って来ているのを見ていた。

雲は雷をつれてきた様だ。突然稲光がし、辺りを照らした。

「そろそろ真上にきそうだ」と佐久間がつぶやき、岩本に一礼した。

頷き返した岩本に背を向け、佐久間は岩に飛びついた。雨で滑る岩肌をものともせず佐久間はするすると岩を登っていく。

岩本は感嘆の表情でそれを見上げていた。「まるで猿(ましら)だな」とつぶやいた。

 

岩のてっぺんに近く、ちょうど岩が迫り出している辺りに楔を打ち込み、足を架け体制を整えると佐久間は空を見上げた。

大粒の雨が顔を打つ。

「さぁ来い」と空に向かって吼えた。

それに応える様に突如、稲妻が光った。

それと同時に佐久間は今まで体を預けていた岩から空に飛び出した。

岩本は佐久間が何か叫んだのを聞いたが、突然の稲妻に一瞬目が眩んだ。そしてすぐさまどーんと聞こえた音に思わず身を庇いしゃがみこんだ。

しばらくして顔を上げ、ぐわんぐわんと耳鳴りがしたが岩本は岩に駆け寄った。

「佐久間殿、佐久間殿」と岩や仕掛けや岩の足元を見たが佐久間の姿は無かった。

雷は岩の向こう側に落ちたのか見上げれば微かに煙が上がっているいるのが見えたが、佐久間の姿はどこにも無かった。

佐久間が居た辺りには足を架けていたはずの楔が残されていたが、暗くなった今はそれを確認する事が出来ない。

もう一度岩の回りや仕掛けの辺りを丹念に確認した岩本は一礼してその場を後にし、「無事もとの場所へ戻れたのだろうか」心配しても詮無いことと思いながら川越に向かって走り出した。

 

翌日は雨が上がり、岩本の案内の元数名の中間と樵を連れて佐久間の探索が行われた。

樵たちは佐久間の事は知らされず、岩の周りの整備とだけ伝えて、草を刈りながら捜索を行った。

岩のてっぺんにも登らせ女岩の上も捜索が行われたが何も見つからなかった。

 

今月も「時の会」の集まりの日になった。一ヶ月が早いなと思いながらも由佳は仕込みの準備に忙しかった。

一月の「時の会」は深沢の店で開催されるため、例のごとく、その日のまつりは休みにし、

前日から仕込みを始め由佳は差し入れの料理を拵えた。

今回の料理のメインは、前日から生姜醤油に漬けたシャモの肉に、

山椒と七味をかけ、深沢の店で鉄串に刺し炭火で炙って香草焼きにするつもりだ。

それと、もち米の霰をまぶして油で揚げた白身魚のフライ風と定番のシュウマイや肉まんだ。

時間のあるときにこの時代の調味料で作れそうなレシピを綴って来た。由佳はそのレシピをおつたに伝えてきた。今日もほとんどの料理がおつたの作だ。

 

「女将さん、自信ねぇけんど、これでいいんだろか」とおつたは不安そうにしていたが

そこは長年台所を支えてきただけあって、手際も良く、一度味を覚えたら直ぐに再現できる。

最近は自ら提案し、一味加えたり工夫するようになっていた。これで何時でも私たちが居なくなっても大丈夫だ。そう思いながら由佳はおふきとおつた母娘を見た。

 

章五郎から所帯を持とうと言われてからのおつたは心なしか綺麗になって色っぽくなったと思う。

おふきも町の娘らしくなり、この頃はおつた目当ての若い男の客が増えすっかり看板娘だ。

文太も出会った頃に比べれば背も伸び、力仕事もお使いもすっかり任せられるようになった。

手習いも店の合間を縫いながらではあるが、章五郎と茉莉花に習い、コツコツとしかし確実に習得している。何もかもが順調に思えた。

章五郎は偶にお屋敷の仕事で留守にすることがあるが、すっかり煮売り屋の親父の体だ。

藩は、いずれこの店を細作の拠点にするつもりのようだが、どんな風になるのか由佳には想像がつかない。心配事と言えばそのことだ。

おふきやおつたに災難が降りかからないように章五郎にお願いしているが、まだ決まっていない事が多くてあっしにもわかりません、と頼りない。

今日舘宮に会ったらその辺の事も聞いてみようと由佳は思った。

 

「おつたさん、手伝いありがとう。ここはもういいからおふきさんと出掛けていいよ」と声を掛けた。

「へぇ、ありがとうございます。では後はおねげぇします」と前掛けを外した。

「おふきちゃん、今日は何処に行くの」と茉莉花が聞いている。

「今日は神田明神まで行こうと思っているんですよ」とおふきが答えた。

「えー遠いじゃない、大丈夫」

「一刻もあれば着きますよ。向こうでお昼にして、ゆっくり歩きますから大丈夫ですよ」ね、おっ母さんと笑顔を向けた。

「おふきちゃん、無理しないで帰りは籠にして。暗くなったら心配だし」

「はい、遅くなったらそうします。でも暮れ六つには戻るつもりですから、女将さん心配しないでください」

「気をつけてね」と茉莉花の声に見送られ、母娘は出掛けて行った。

 

「文太は今日は章さんと釣りだっけ」と茉莉花が聞いた。

「そうだよ、いいのが釣れたら深沢さんの所に届けるって言って張り切って出て行ったけど、どうかな」

最近文太は時間があると釣りに凝っていて、時々晩御飯のおかずになるような魚を釣ってくる。

今日は章五郎の知り合いの船に乗せて貰って少し沖で釣りをするらく、朝早くにおつたに握り飯を拵えて貰って、二人で張り切って出て行った。

「ふーん、なんか、章さんと文太って益々親子みたいになって来たね」とつぶやいた。

「そうだね、章さんはおつたさんと所帯を持ったら文太を正式に養子にするつもりみたいよ」

「え、そうなのそれじゃ安心だね。へーそうなんだぁ」と茉莉花は喜んだ。

「まだ文太には言っていないから内緒ね」

「わかった。あーでもその話は私たちが居なくなってからかも知れないんだよね」

「そうだね」

「つまんないなぁ、文太の喜ぶ顔が見たかったのにな。あ、でもそしたら私たちがこのまま帰れなかったらどうなるのその話も無くなっちゃうの」と今度は心配している。

「うーんそれはちょっとわからないなぁ、今日舘宮さんに会ったら色々今後の事も聞いてみるよ」

「そうね、佐久間さんの事も聞かないとだしね」と茉莉花に言われ、由佳はそうだと思い立った。

今日は舘宮に聞きたいことが沢山ある。

「佐久間さんどうしたかなぁ」と茉莉花は頬杖をつきながらつぶやいた。

荷物を詰め終わった由佳はお茶を入れながら、二人だけの店は何だか寂しいと思った。

 

「ごめん」と表の戸が開き、目黒が入って来た。

「あ、目黒さんいらっしゃい。今日は早いですね」と茉莉花が出迎えた。

「そうであろうか」と目黒は何気なく店を見回した。

目ざとく茉莉花が見付け、「今日はもうおふきちゃんは出掛けて居ないよ」と先回りして答えた。顔がニヤついている。

「そうか、いや何、店が広く感じるなと思っただけだ」

「ふーん」とニヤついた顔のままの茉莉花があいまいな返事をする。

「みんな出掛けていて私たち二人なんですよ。私もさっき、そう思ったばっかりですよ」と由佳はお茶を差し出しながら答えた。

 

茉莉花はお茶を飲む目黒の顔を見ながら何か聞きたそうにしている。

「拙者の顔に何かついているのであろうか」と目黒は怪訝そうに聞いた。

茉莉花は少し迷ったのち、意を決したような真剣な顔で、目黒に向き合い言い放った。

「ねぇ、目黒さんはおふきちゃんと所帯を持つ気、あるの」

お茶を飲んでいた目黒は突然の茉莉花の問いかけに、思わずお茶を噴出しそうになったが、そこは武士だ、直ぐに気を鎮めて

「何を唐突に、何の話であろうか」と聞き返した。が、かなり動揺しているのか、いつもの目黒の落ち着いた話し方ではなく、あわてた物言いだった。

「だからさ、目黒さんはおふきちゃんと所帯を持つ気がありますか、と聞いています」

茉莉花はいたって真剣な顔で聞きなおした。

目黒は居住まいを正して茉莉花に向き直った。

「何の冗談かは知らんが、我等、時滑りがこの時代で所帯を持ったり、子を成す事は藩との約定により禁止されていることを茉莉花どのも知っておろう」と何時もの目黒に戻って諭すように答えた。

「それはさ、いずれこの時代から元の時代に戻ってしまう時いろいろ厄介だからと作られた約定で、戻れない人の場合、特例が認められるかも知れないって言ったら」と茉莉花は謎めいた言い方をした。

「え、それどういう事」と由佳は思わず口を挟んだ。

「うん、先月の時の会の時、若様と話をしたじゃん、その時の事なんだけど」と茉莉花はその時の話をした。

もし帰れない人の場合はこの時代で生きていくしかないので、特例もありえるとの話だ。

「じゃぁ確実に帰れる見込みの無い人は所帯を持ってもいいんだ」と由佳が茉莉花に念を押した。

「そう、たとえば村上さんや目黒さんはそれに該当すると思う。先月の話では同じ現象が起きれば戻れる可能性があるけど、裏を返せば同じ現象が起きない人は二度と戻れない訳で、

そういった意味では、残念だけど目黒さんは二度と元の時代に戻れないって事になるでしょ」

「確かに村上さんは爆弾が落ちてきたって言っていたから今の時代では再現出来ないよね。目黒さんは鉄砲に撃たれたんだっけ」そういいながら由佳は目黒の顔を見た。

目黒は目を閉じて話を聞いていたが、由佳の問いかけにゆっくりと目を開け、

「拙者の場合は、今でも再現出来るのでは無いかと思う」と答えた。

それを聞いた茉莉花は、

「そうかな、今確かに鉄砲は手に入るかも知れないけど、性能も腕も数十年後よりは落ちると思うし、うまいこと顔を掠めて撃つなんて出来ないと思う。それこそ生きるか死ぬかだし、藩が許可しないよ。この先幕末まで戦争は無い訳だから同じ現象を再現するのは不可能に近いと思う」といつに無く雄弁に語った。

それを聞いてしばらく考えた目黒は「確かにそうかも知れん」とつぶやいた。

「でしょ、そしたらさ、目黒さんはおふきちゃんと所帯が持てるって事だよ。で、どう」といつもの様に茉莉花が畳み掛けた。

「どうかと言われても、それとこれとは別であって、ましてや相手がおる事であって」と目黒は狼狽している。

「あーもうじれったいなぁ。目黒さんはおふきちゃんが好きなんでしょ」と茉莉花にストレートに聞かれ困った目黒は、

「そういった事は武士は口にせんものだ」とぶっきらぼうに言って横を向いたが、心なしか顔が赤くなっているようだ。

「もう、この時代の人のこういった所が面倒くさいんだよね、特に武士」と茉莉花がちょっと喧嘩腰になったので、

「まぁまぁ、仕方ないよ、特に武家は感情を表に出さないように育つんだから、それにそんなに畳み掛けたら目黒さんが気の毒だよ。二人の事は二人に任せておくしかないよ」と由佳が見かねて助け舟を出したが、

「だって、そしたら何時までたっても目黒さんは何も言わないと思うよ。こういう時は男から言わなきゃ。いつもでもほっといたら他の人に攫われちゃうよ。最近のおふきちゃんは人気が高いんだから。先日も大店の若旦那みたいなのが来てさ、愛想を振りまいて帰ったけど、あれは絶対におふきちゃんに気があるね」と目黒の顔をちらちら見ながら挑発するように話したが、

「大店の若旦那なら申し分ないではないか、そのほうがおふきさんも幸せになろう」と目黒は我関せずの顔で言いのけた。

「もう、目黒さんは女心が全くわかって無いんだから、おふきちゃんは絶対目黒さんが好きなの」と茉莉花はぷりぷりしながらお茶を飲んだ。

「そんな事分からんであろう、それに金持ちに嫁いだほうが良いに決まっておるでは無いか、

拙者の様な貧乏浪人に嫁いだとて苦労するのが目に見えておる」目黒もいつもより声が大きくなっている。

「はいはい、その位にしてそろそろ出掛けようよ、深沢さんが待ってると思うよ」と由佳は二人の掛け合いを止めて荷物を差し出した。

「全く目黒さんは頑固なんだから」と荷物をひったくるように受け取り茉莉花はさっさと出て行った。

由佳はため息をつきながら、

「目黒さんごめんなさいね。茉莉花なりに自分たちが居なくなった後の事を考えての事で、悪気は無いんですよ」と目黒に謝った。

「わかっております。拙者もついむきになってしまって、申し訳ござらん」と頭を下げた。

茉莉花の後押しをするわけじゃないけど、若様が特例を認めてくれるのであれば、これから先の事を考えるのにいい機会だと思うから、目黒さんも考えてみてくださいね。お節介だけど、未来の私たちから見たら、武士だけが生きる道では無いと思うから」

「はい。それは拙者もそう思います。でも拙者は武士を捨てる事が出来るかわかりません」と目黒は本音を吐いた。

「そうねぇ、そうかも知れないね。そう考えたら明治維新後の武士たちは大変だっただろうなぁ」

由佳は戸締りをしながらつぶやいた。

それを聞いた目黒は「由佳どのは拙者が居た時代の事を良くご存知であると聞きました。出来れば詳しく聞かせてくれぬであろうか」と頼んできた。

「あら、村上さんや他の方に聞いていたかと思ったんですが」と目黒の意外な申し出に驚いたが、

「彼らは詳しくは知らぬようで」と言われ、私もそんなに詳しくないけどと言いながら知っている限りの明治新時代の武士たちのその後を話して聞かせた。

 

当時江戸の武士たちは、幕府側についた多くの家臣は駿府に逃れ、又は水戸に幽閉された慶喜公を慕って水戸に移住した者もいたらしい。

しかし、引越しが出来る財力の無い御家人や旗本たちはそのまま江戸に残り、同心たちはそのまま新政府が新設し募集した邏卒という警察の前身の職についたり、算盤や帳簿付けに明るいものたちは新政府の職員になったり、学校の講師になったりしたことを話した。

とはいえそれも一部の者達で、多くの武士は町人同様に人足をしたり、世を儚んで自害した者も居たらしい事を話した。

 

目黒は暫し考えていたが、「戦国より続いた武士の世も跡形も無く消えてしまったのであろうか」と聞いて来た。

由佳は少し申し訳ない様な気がしたが、「はい」とうなずいた。

「そうか」と言った目黒は由佳に向き直り、心なしかさっぱりしたような顔で、

「教えていただきかたじけない。時滑りの面々の様子を見て判ってはいたつもりでしたが、心の何処かで未来の世でも武士が国を支え、守っていると信じておりました。しかし由佳どのの話を聞いて迷いはなくなりました」と言った。

由佳は茉莉花の話を鵜呑みにしたわけではないが、目黒の今後の気持ちを聞きたいと思ったが、

それは余計なお世話だと思い直し、「それは良かったです」とだけ返事をした。

 

 「時の会」はいつものように各自の近況報告から始まった。

特に皆変わったことも無く報告はすぐに終わった。

そのまま新年会に移行するかとおもいきや、舘宮が最後に報告があると居住まいを正した。

皆の顔を見回しながら舘宮はいつに無く真剣な顔で、

「佐久間殿が再滑りなさったようです」と静かに報告した。

「え、本当に」

「それはいつですか」と口々に言いかけた皆を制して、懐から手紙を取り出し、読みながら説明した。

「岩本の報告によりますと、十二日午後、日和田山、女岩にて岩本が見守る前で岩に登り、落雷と同時に再滑りしたようです。日和田山の女岩とは今年の初め、章五郎と一緒に万が一の為の仕掛けを作った場所で、岩本によると翌日も数人で岩の上から隈なく探したが佐久間殿は見つからず、その報告を受け、若様は再滑りしたものと判断されました」

暫く皆無言だった。

「無事元の場所に戻れたのかな」と深沢がポツリとつぶやいた。

舘宮は「そればかりはわかりかねますので祈るしかありません」といつかの若様と同様の言葉を誰にとなく漏らした。

「きっと大丈夫だよ、きっと元の場所に戻っているよ。そう願って皆で乾杯しようよ」茉莉花が深沢を励ました。

「そうだね。きっと佐久間さんなら大丈夫だね」深沢は笑顔で答え、支度をしに立ち上がった。

 

それからは新年会を兼ねた飲み会となった。

由佳は舘宮に今後の事を相談したいと思い徳利を持って舘宮の隣に座った。

「色々ご苦労様でした」と言いつつ徳利を差し出し酌をしながら切り出した。

「今回の佐久間さんの件で、益々私たちが再滑りする可能性が高まりました。それで、ご相談なのですけど、お店の今後は章五郎さんとおつたさんに任せるとして、文太の事です」

由佳は章五郎がいずれ養子にして細作の仕込みをするかも知れないということを舘宮が知っているかどうかわからずその先は言えずにいたが、舘宮の方から

「章五郎が養子にするという話ですね」と振られ首肯した。

舘宮は少し声を潜めると、文太の事は章五郎の思い通りに進めて良いとお許しが出ているので今後の成長を見守りつつ判断すると教えてくれた。

そんな話をしていると、

「あれ、舘宮さん、ちゃんと飲んでますか」と深沢がやって来た。

「何の話をしてたんですか」と聞かれた由佳は咄嗟に

「そろそろ梅の季節なのでどこか良い梅の名所は無いか聞いていたんですよ」とうそをついた。

章五郎の事は特別秘密という訳では無かったが、何となく黙っていたほうが良いような気がしたのだ。

舘宮も「この辺りでは湯島天神が有名ですが、ちょっと遠いので、目黒不動尊辺りでも梅見が出来るのではとお教えしていたんですよ」と合わせた。

「梅見かー、それいいね、目黒不動なら近いし縁日も盛んだし茶屋も沢山あるから楽しいよきっと。それでいつにする」とすぐに乗って来た。

「私も梅見は行った事が無いので詳しくないのですが、梅の見ごろは結構長く、これから一月くらいでしょうか」と舘宮が答えた。

「じゃあ来月の時の会じゃ遅いかな、でも縁日の日だと人も多いだろうし、村上さんがきっと詳しいだろうから聞いてくる」とすっかり乗り気で戻っていった。

「なんだか気ぜわしいお人ですね」と舘宮は肩をすくめて笑った。

深沢はすぐに戻ってきて、

「ねぇ、村上さんに聞いたら二十八日が毎月縁日だって、でもすごい人出だからその日以外が良いかも知れないってよ」と教えてくれた。

「私はせっかくなので店の皆と行きたいと思っていますので、ちょっと考えさせてください」と由佳は勇み足の深沢に罪悪感を感じならが答えた。

「了解です、決めたら教えてくださいね、俺も行きたいですから、目黒さんも誘ってね。おいてけぼりにしないでくださいよ」そういうと又目黒たちの席に戻っていった。

「本当に行くことになりそうですね」と由佳はため息をついた。

「まぁいいじゃないですか、たまにはのんびりする日があっても。きっと良い思いでになりますよ」と舘宮に言われ

「それもそうか」と由佳は笑顔を返し、戻ったら章五郎に相談してみようと思った。

 

時の会が終わり店に戻ると、皆はすでに夕飯を済ませ、店でお茶を飲んでいた。

今日は文太も店で夕飯を取った様で、四人で卓を囲んでいる姿は、まるで本当の親子のようだった。

「おや、お早いお帰りですね」と章五郎が席を空けてくれ、おつたがお茶を入れてくれた。

由佳は熱いお茶を一口すすると、「章さん、佐久間さんの件は聞いた」と聞いた。

章五郎は軽くうなずくと「その件は改めてお話します」とだけ答えた。

由佳もうなずきを返すと、

「そうそう、今日話しに出たんだけど、ちょうど梅の季節だし、梅見にでも行かないかってなってね、章さんどこか良い場所知らないかな」と話を変えた。

「梅見ですかい、それならやっぱり湯島天神がこの辺りでは一番でしょうね」

「江戸では梅見をするんですか、在所辺りでは梅なんて実を採るのに沢山植わっていてわざわざ見に行かないですよ」とおつたが驚いて言った。

「そうさね、江戸じゃぁ梅見に桜、菖蒲に紅葉や月見と季節ごとにあちこちに押しかけるのが最近の流行だからね」と章五郎が苦笑しながら、

「まぁ大抵は花を見るより飲んで浮かれている輩の方が多いんだが」と付け加えた。

「梅見なんてしゃれているけど、おいらもわざわざ行った事がないや、白金辺りじゃどの寺にも神社にも梅は咲いているし、湯島までいかなくてもそれでいいじゃねぇの」と興味なさそうだ。

「文太、湯島の梅はちょいとちがうんだぜ」とそんな文太に章五郎が講釈を始めた。

湯島天神雄略天皇二年、雄略天皇の勅命により天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祀る神社として創建されたと伝えられている。

南北朝時代の正平十年(一三五五年)、住民の請願により菅原道真を勧請して合祀した。

徳川家康江戸城に入ってから徳川家の崇敬を受け多くの学者・文人が訪れた事から学問に霊験あらたかと信仰され、菅原道真に由来し梅の木が多く植えられた。

「だからよ、文太も読み書きが上達するように、道真公にしっかりお参りするがいいぜ」とすでに父親の顔をして言った。

「へー本当にご利益があるのかい、茉莉花はどう思う」と聞かれて茉莉花は、

「私はねちゃんと福岡の大宰府天満宮にお参りしたんだよ」とちょっと自慢げに言った。

「そりゃすげぇや、大宰府が本宮ですからね、だからお嬢さんはたいそう読み書きが出来るんですね」

「へーやっぱりご利益あるんだな。おれも茉莉花みたいに難しい字も読めるようになりたいや」と二人におだてられ

「まぁね」と茉莉花は苦笑した。

「梅見の季節は茶屋や出店も沢山出て賑やかでしょうね」とおふきはちょっと目を輝かせた。

「そういや、湯島天神じゃぁうそかえって慣わしがあって、催しがあるときは鷽の笛が大層売れるって話ですぜ」と章五郎が付け足した。

「うそかえって何」と茉莉花が聞いた。

「へぇ、何でも買った鷽って鳥の人形を交換すると前の年にあった厄が嘘になるって事で、本当なら初天神の日に神社から授与して貰う人形が正式なんですがね、最近じゃ子ども向けに笛にしたのを出店で売ってまして、これが人気だそうで」

「鳥を取り替えって、だじゃれだね」と茉莉花は笑った。

そういえばここに来て気がついたが、江戸の人はだじゃれや言葉遊びが好きなようだ。

神事までしゃれなのかと由佳は改めて驚いた。

 

「でも折角だから神社の人形の方がいいよね。じゃぁやっぱり湯島天神まで行く」と説明を聞いた茉莉花は由佳に問うた。

「そうね、折角だから湯島天神にしましょうか。でもそうするとお店はお休みにしないとだね」

「たまには良いじゃん、お店休んで皆で出かけようよ」と懇願され由佳は「そうね」と笑って承諾した。

「じゃ、家が六人で目黒さんと深沢さんで八人だね。舘宮さんも行くかな、章さん聞いてみて。で、いつにする」

「確か湯島は初天神の時にしか人形を売らないんで、二十五日ですね。でも朝早くに行かないと人形が買えませんよ、湯島までは一刻はかかりますからねここを出るのは六つですかね」

「ひゃー」と茉莉花はおどけて目を回したが行かない訳ではなさそうだ。

結局、嘘から出て真になった梅見は鷽替えまで話が行き、なんだか符丁が合うなと由佳は思った。

 

 

マツリカの時ー11

暮れも押し迫って、海風も益々冷たく感じる頃、文太に新たな試練が襲い掛かった。

このところ食は細くなったままだったが、小康状態を保っていた文太の父親が、ことのほか冷え込んだ朝、厠に行こうとしたまま、大量の血を吐いて倒れた。

直ぐに医者に診てもらったが、すでに手の尽くしようも無く、救いは文太が傍にいて最後を看取れた事だった。

 

長屋の住人に連絡を受けて、店の準備をおつたに任せて、茉莉花と由佳は急いで駆けつけた。

「文太、大丈夫」

亡骸の隣でうなだれて座る文太は茉莉花の声に振り向き、

茉莉花さん、おっ父、とうとう死んじまった」と力なく泣き顔とも笑顔ともつかない表情を見せた。

茉莉花は文太の肩にそっと手をかけ、

「最後まで良く面倒みたね。お父さんは幸せだったよ」と声をかけた。

堪らず文太は声を押し殺して茉莉花に縋って泣いたが、ひとしきり泣いて、泣き止むと。

「女将さん、おっ父の事、いろいろお世話になりました」と由佳に手をついてお礼を言った。

以前の文太では考えられないことだったが、この二月あまりで成長したのか、しっかりしようとする姿が痛々しかった。

 

大家が手配したのか、早桶が届き、長屋の住人たちの手によって、葬儀の準備が進む。

こういった時どうすればいいのか判らない楠田母娘は、線香を手向けたあと。ひとまず店に戻る事にした。

 

章五郎とおつたに相談し、世話になった長屋の人たちや弔問客のために、今日は早仕舞いすることにし、通夜料理を作ってもっていくことにした。

おつたに手伝ってもらい、薩摩芋や蓮根の天ぷらに、牛蒡の掻き揚げ、高野豆腐と椎茸の煮物、ピリカラ蒟蒻、豆腐と蓮根を詰めたシュウマイ、その他お浸しなどを作ることにした。

 

「そうだ、お母さん、目黒さんと深沢さんにも知らせたほうがいいよね」と茉莉花に言われ、

目黒には章五郎に材料の仕入れ前に寄ってもらい、深沢にはおふきとおつたが知らせに行くことにした。

 

深沢に知らせ、一緒に文太の長屋に寄り、線香を手向けてきたおつたとおふきが戻って来た。

深沢は暫く文太に付き添うと言って残ったらしい。

 

文太の父親は湯灌してもらい、早桶に安置されていたそうだ。

今夜は通夜で一晩寝ずの番をし、明日朝早くにお寺に埋葬に行き、それでおしまいだそうだ。

「お葬式はしないの」と聞いたが、お店とかお武家では葬式まで執り行って埋葬するが、長屋に暮らす人々は葬式を出す金もない為、早々に埋葬して終わりにしてしまうそうだ。

「そうなんだ。じゃあ、お父さんと居られるのは今夜が最後なんだね」と茉莉花がポツリとつぶやき、又おふきの涙を誘った。

「お坊さんは何時に来られるのかな」と聞くと、長屋の住人と段取りの相談をしてくれたおつたが、

「お坊さんは来ねぇそうです。貧乏人の所にはわざわざ来ないで、埋葬の時にお経を挙げて終わりだそうで、名栗ではちゃんと和尚さんが来て枕経をあげてくれるってのに、江戸ってぇところは随分冷たいもんだぁ」と在所なまりまで出て怒った様に話した。

そうなのか、この高輪や白金あたりは寺がとても多いので、意外と生活に密着しているのかと思ったが、そうでもないらしいと由佳は思った。

「じゃあ通夜の時間は」と改めて聞くと、興奮したのを恥ずかしく思ったのか、おつたは、

「あい、すみません、おら気が立ってしまって」と恥ずかしそうにしながらそれでも名主と話をして、暮れ六つ(十七時ごろ)からとし、通夜料理をまつりが用意する旨を伝えたと報告した。

それに、長屋は狭く、料理を食べる場所が無いので、隣に一人で住むおばあさんが部屋を使っていいと申し出てくれたそうなので、好意に甘えることにしたと報告した。

「じゃあ章五郎さんが戻り次第本格的に作るとして、それでも先にやれることは店を営業しながら準備しましょう」と決め、皆で取り掛かった。

 

章五郎に連絡を受けた目黒がやってきた。店に来る前に長屋に寄って線香を手向けて来たそうだ。

「文太は気丈にも弔問客に挨拶をしておった。名主どのが采配して明日の埋葬は町内で仕切るそうだ」と報告してくれた。

「それじゃお寺へのお布施とかは町内でもってくれるんでしょうか」と由佳はつい気になった事を聞いた。

「うむ、日ごろこういった時の為に町内では蓄えをしているはずだ。少しは香典も集まるであろう。その辺りは心配せんでも良いはずだが」と言葉を切った。その様子を見て、由佳は

「何か、他に心配毎があるのですか」と聞いた

目黒は「これは近所の者が話していた事を耳に挟んだだけゆえ、確かな事は名主どのに確認しなければならぬが」と前置きしてその噂を話してくれた。

 

目黒の話によると文太の家はこの半年家賃を溜め込んでいたらしい。

葬式にかかる費用は町内や近所でなんとかなるが、流石に家賃までは面倒見きれない。

それに、今後身入りの充ても無く、親戚も居ない文太は長屋を出て行かないといけないらしい。

しかし、文太もそろそろ奉公に出る年頃で、今までは父親の面倒を見るために行けなかったが、

今後は住み込みで雇って貰える所を探すしかないそうだ。

近所の者の話では、悪たれ小僧と評判の良くなかった文太を雇い入れる所があるのだろうかと陰口を叩く者もいるらしい。

その話を聞いて、茉莉花

「ひどい、確かに前は悪たれだったかも知れないけど、最近の文太はとってもいい子だよ」

と反論した。

確かにこの二ヶ月文太は良く働いてくれた。お使いも薪割りも、時には厨房や店を手伝う事もあった。

あの日名主と共にやってきて、生まれ変わって恩に尽くすと言った言葉は嘘では無かった。

 

由佳は暫く考えたあと切り出した。

「目黒さん、家賃はどのくらい溜まっているんですか」と聞いた。

「そうですね、たぶんあの長屋ですと一月に五百文から六百文というところでしょう。半年となると三分と二朱くらいでしょうか」

と計算してくれた、それを聞いて由佳は頷き、

「まずは家賃の事だけど、文太から預かっているお金がちょうど三分あります。足りない分は今まで働いて貰った分としてお店から出すことにします」と言った。

それを聞いたおつたはほっとした顔で、

「それじゃ後は文ちゃんの今後ということですね」と言った。

「それなんだけど、文太は将来何になりたいとかあるのかな。お父さんと同じように職人になりたいのか、それもとお店に奉公したいのか、こればかりは本人に聞かないといけないので、それを聞いた後で、私たちでできるだけ文太の将来の事を考えてあげたいと思うんだけど」と提案した。

皆、由佳の言葉に得心し頷いた。その上で、目黒に向き直り、

「目黒さんにも色々とお願いするかもしれませんが、そのときはよろしくお願いします」と頭を下げた。

目黒は「無論です。拙者も微力ながらお手伝いさせていただきます」と請け負ってくれた。

 

ひとまず店を開け、営業の傍ら通夜料理を作り、夕方は皆で長屋に出かける段取りにし、目黒はまたその時刻に来ると言って帰って行った。

 

七つ半(十六時過ぎ)には店を出て、目黒と共に皆で文太の長屋を目指した。

文太は一人早桶の前で座っていた。

「文太、大丈夫。あれ、深沢さんは」と声をかけると驚いたように振り向いて、

「あ、女将さん、皆さん、何から何までありがとうございます」と畳に頭をこすりつけた。

おふきと茉莉花は文太のそばに上がり、

「文ちゃん頭を上げて」

「そうだよ文太水臭いよ」と肩を支えて起こした。

「いんや、皆さん、さっき、名主さんが来て、まつりで通夜料理を出してくれるって聞いて、おっ父の為にありがてぇことです」

とこぶしで涙をぬぐった。

「そんなこと気にしないで、大した料理じゃないけど、近所の人にお礼したいしね」と由佳ももらい泣きしそうなのをこらえて文太に諭した。みるとおつたは後ろを向いて泣いている。

「うん、おいら近所の人に世話になりっぱなしなのに、何も返せねぇからありがてぇ。女将さんには本当に感謝してもしきれねぇ」と鼻をすすりながらお礼を言った。

「文太はうちの店の大事な小僧さんだからね、お店として当然の事をするだけだよ。それより隣のお婆さんが料理を出すために部屋を貸してくれることになったから御礼を言っといてね」

「え、おかね婆さんが、おかね婆さんにはおいらが留守の間おっ父の面倒も見て貰ったんだ」と早桶を振り返った。

「そうだったんだ。それならちゃんとお礼言わなきゃね。それでさ、深沢さんはもう帰ったのかな」と湿っぽくなりたくない茉莉花は話を変えようとした。文太も涙を拭いて

「うん、さっき名主さんの話を聞いて、通夜には戻ってくるって行って帰ったよ」

と少しはいつもの調子で答えた。

「じゃ通夜まで隣で準備しているから、何か用があったら声かけてね」と部屋を出た。

 

深沢は店に酒を取りに戻ったようで樽を抱えて戻ってきた。

「深沢さんこっちですよ」と表を掃除していたおふきに言われおかね婆さんの部屋に運び込んだ。

「由佳さん、まつりが料理を出すって聞いたんで、少しですがお酒を用意しました。一緒に振舞ってください」

と樽を上りがまちに置いた。

おかね婆さんは先ほどから文太は果報者だ、心配して世話を焼いてくれる人がこんなに居ると何度も同じ話をし、そのたびに泣いては茉莉花を困らせていた。

 

時刻になって、名主がお坊さんを連れて来た。

貧乏人の所には枕経をあげに来ないと聞いていたので、どうしたのかと思ったら、名主さんが通夜料理を振舞うからと連れて来てくれた様だ。

思いがけずお坊さんにお経を読んでもらい、近所の人も大勢来てくれたので、貧乏長屋にしてはちゃんとしたお通夜になった。

 

焼香が終わった人から隣の部屋に案内し、お清めの酒と料理を振舞った。

お坊さんも般若湯を飲み、「これが最近流行のまつりの味ですか」とシュウマイと蒟蒻をいたく気に入った様で、しぶしぶ来た割にはご機嫌で帰って行った。

「名主さん、ありがとうございました。お布施とかは大丈夫だったのでしょうか」とお坊さんを見送った後聞いたら

名主は「いえ、最近流行りのまつりの料理が出るのを餌にしたのと、ちょいと脅しをかけましたので」と言った。

「脅しですかお寺に何かやましいことがあるのでしょうか」と聞くと、

「いえね、大きな声じゃ言えませんが、先日文太がかどわかしにあった件ですがね、その後の話を銀次親分から聞いておりましてね、何でも調べによると、連れ込まれた屋敷は寺の持ち物だったらしくてね。勿論、寺は貸しただけで、かどわかしには関係ないのですがね、文太がその時の子だと言ったら、それならば母親も縁があった事だし、ただで枕経をあげに行くと言ってくれました。どうやら探られたくない事情があるようです」と打ち明けてくれた。

「そうだったんですか。それにしても以外な所で繋がっていたとは驚きですね」

「まったくです。これだから悪いことは出来ないって事です」と通夜には不謹慎だが二人で笑ってしまった。

「ところで、楠田様。ちょっとご相談があるのですが」と前置きして名主がおかね婆さんの部屋の前から少し離れた。

「いえね、こんな事楠田様に申し上げるのもなんですが、文太の今後についてです」

由佳は首肯し、「店でも文太の今後について本人の希望を聞いてみてから相談しようと話しておりました」

「そうですか、気に留めていただいていましたか」と名主は少しほっとした顔をした。しかし問題は他にもありそうだ。きっと家賃の事だろうと思って由佳は、

「それと、溜まっている家賃についても清算できるめどがついています」と付け加えた。

名主はぱぁっと顔を明るくさせ、

「そうですか、それを聞いて安心しました。いえね、この長屋の大家は他にも家作を沢山もつ検校なのですが、昼間使いの者が来て温情で今まで家賃を待っていたが、父親が死んだのならきっちり清算して出て行ってくれと言われましてね。

それも仕方ない話なのですが、年の瀬と言う事もあって、いくらなんでも直ぐには可愛そうだと掛け合いましたら、それでも待っても松の内までと言われましたんです」

「わかりました。この後文太と話をしますが、出来るだけ早くに身が立つようにしてあげたいと思っています。名主さんには色々お世話になりました」と頭を下げた。

「こちらこそ、悪たれだった文太の面倒を見て貰いありがとうございました。おかげで文太はめっきりまともになりましたよ。顔色も顔つきも良くなり、近頃は近所の者にもきちんと挨拶したりして、皆驚いています。それもこれも、楠田さんのおかげだと思って感謝しております」

「そんな、文太の頑張りの賜物です。もともと頭の良い子でしたからね。色々頼んでいて私どもも助かっていますよ」

「そう言っていただけるとお願いした私も気が軽くなるってもんです」

名主は胸のつかえが取れたのか、なにとぞよろしくと頭を下げて帰って行った。

 

本当はまつりで生活出来るようにしてあげれたら良いのだけれど、と由佳は思った。

しかし、こればかりは独断で決められない。

先日の「時の会」以降、戻れるかも知れないと希望が沸き、自分たちが戻ったあともおつたやおふきが店を続けて行けるようにして置かなければならないし、そんな折、さらに人を養うのはおつた達の負担になり、難しいと思ったからだ。

「なんとかなるといいんだけど」曇って星の見えない空を見上げて由佳はため息をついた。

 

 

近所の人も帰り、おかね婆さんの部屋を片付けて、まつりの面々と深沢と目黒は文太の部屋に集まった。

文太も落ち着き、改めて

「本日はおっ父の為に皆様に色々お世話になりました」と挨拶をした。

「そんな事はいいんだよ、それより文太偉かったな、俺、文太が大人でびっくりしたよ」と深沢が褒めた。

目黒も首肯し、

「文太は変わったな」と優しい眼差しを向けた。

由佳はおつたとお茶を皆に配り、ひとごこちついた辺りで切り出した。

「さっき名主さんと話たんだけどさ、まずはこの部屋について、大家から家賃を清算して出て行くように言われたそうよ」

「えーだってお父さん亡くなったばっかりだよ、それに暮なのに」と茉莉花が怒った様に言った。

「うん、だから名主さんが交渉してくれて、正月の松の内までは居てもいいみたい」

「そっか、そりゃ良かった。でも、その後はどうするの文太はどこに住むの親戚とか居るの」と茉莉花は誰と無く聞いた。

文太は

「俺、親戚とかいねぇんだ。居たとしても何処にいるかわからねぇ」と答えた。

由佳は、それはひとまず置いて、と前置きをして、

「まずは今までの溜まった家賃だけど、文太のお母さんが残したお金と、錦屋さんがくれたお金があるので、それで清算すればいいと思うんだけど。文太それでいい」

「女将さん、そりゃ勿論それで足りるんならそうして貰いてぇけど、それもで足りねぇかもしれねぇ」と恥ずかしそうにうつむいた。

「そうだね、それで、足りない分は今までまつりで働いて貰ったお給金としてお店から出す事にするから」と由佳は説明した。

「え、それじゃ、申しわけねぇ、今日だって料理を用意してもらったりしたってぇのに。それにおいら給金貰えるほど働いてねぇよ」

とあわてた。

「そんな事ないよ、文太は良く働いてくれたよ。それにこれはお店の皆で決めた事だからね。

皆、文太がちゃんと働いたって思っているんだよ」と付け足した。おつたもおふきもうなずいて茉莉花に同意した。

「みんな、すまねぇ」と文太は畳に頭を擦りつけた。

 

「それでね、長屋はそれでいいとして、その後の事についてだけど」と由佳が言いにくそうにしながら、

「文太もそろそろ奉公に出る年頃だし、この際だから住み込みで奉公出来る所を探した方がいいと思うんだ。でも、文太はどうしたい。将来何になりたいとかあるのかなあったら協力するから教えて欲しいの」由佳の言葉に皆驚いた。当然文太は今までどおりまつりで働くと思っていたからだ。

「え、うちでそのまま働いたんじゃ駄目なの一緒に住めばいいじゃない、てっきりそのつもりかと思ってた」と茉莉花が由佳に詰め寄る。

由佳は「それもひとつの案だよ、でもね、いつまでもって訳にいかないでしょう」

「いつまでも居ればいいじゃん。駄目なの」と茉莉花は引かない。

「文太の将来がかかっているんだよ。文太の希望も聞かないといけないし」と由佳は文太を見据えた。

「楠田どのが言うとおりですよ茉莉花さん、それでどうしたいと思っておる文太」目黒が文太に声をかけた。

文太はうなだれて考えているようだった。

「おいら、どうしたらいいかわかんねぇ。でも、いつまでもまつりに厄介になるわけにはいかねぇし」

「そうじゃなくて、文太は将来何になりたいかを考えて欲しいの。お父さんの様に職人とか、板前とかでもいいんだよ。といっても直ぐに決めろって言うもの難しいと思うけど。ぼんやりとこんな事やってみたいでもいいんだよ」文太は言いにくそうにしていたが、由佳の言葉を聞いて、

「そしたらおいら、いつか深沢さんみたいに居酒屋をやりてぇ」と答えた。

深沢は驚いて、「おっと、じゃあ家で働くか。うちなら部屋もあるし、いつ来てもいいよ」と言ってくれた。それを聞いて由佳は、

「目黒さん、どうでしょう、文太は今年十一ですが、お酒を出すようなお店で働いても問題ないのでしょうか」と聞いた。

 

「うむ、手伝いくらいなら問題は無いが、やはり子どもの内は日の高い間に活動するのが良いと私は考えます。それに文太は手習いも途中です。ある程度の読み書きが出来ないと先々困ることになるでしょう」

「そうですよね、私もそう思います。将来は居酒屋でも良いけど今はまだその時期ではないでしょう。それに深沢さんには少々問題もあるし」

「確かにそうですね」と由佳と目黒に言われ

「えぇ俺って問題あるかな、こう見えても俺って結構いいやつだよ」とぼやいた。

「そうではない、深沢どのも佐久間さんの一件次第では今後の身の振り方も変わるかも知れぬであろう、そのことを楠田どのは心配されておられるのですよ」

「あ、そうか、俺だって、いつまでも店をやっていけるかどうかわからないのか」と目黒と深沢の会話を聞いて、文太は

「え、深沢さん、店閉めちまうのかい」と聞いてきた。

「いや、文太、そうではなくて、今すぐって事じゃなくて」と深沢はしどろもどろになりながら何とか取り繕うとした。

そのとき、「あのぉ、ちょっといいですかい」と章五郎が手を上げた。

「章五郎さん、何かいい案でもありますか」と由佳に促されて章五郎が話しを始めた。

「へぇ、ちょっと考えたんですが、やっぱり子どもはお天道様の下で育てるのが一番です。それでどうでしょう、文太はまつりで引き取って、今までどおり朝から昼過ぎまでは店の手伝いをし、夕方は深沢さんの店の仕込みを手伝い、年が行けばおいおい深沢さんの店を手伝って行くっていうのはどうでしょうか」

「ですが、深沢さんの店の先行きもまだどうなるかわかりませんが」

「へぇ、それもそうですが、それはその時考えればいい事で、それまでに店の事を覚えれば他の店に行くって手もあります」

「確かにそうですね。でもそれだと文太が手習いする時間が無くなってしまいませんか」

「何も侍になるわけではありませんので、読み書きくれぇならあっしだって教えられます。今だってお嬢さんに教えて貰って、だいぶ読めるようになってまさぁ」

「章五郎さん、私も最初にそのことを考えたんです。でも、皆さんご存知の様に、まつりは川越藩のおかげで店を開けています。もし、この先、私達が居なくなった場合、お店がどうなるのかわからないんですよ。それで、万が一の場合でも、私としてはおつたさんとおふきさんにこのまま店をやって行く事が出来るように先日舘宮様に相談したんです」

「え、女将さん達もどこかに行ってしまうのかい」と文太は目を丸くした。

由佳は「今直ぐって訳じゃないけど、私達は今は仮住まいで、いずれは元居たところに戻る予定なんだよ」と説明した。

「それじゃぁ長崎に帰るって事かい」と文太に言われ、茉莉花はあいまいに

「まぁそんな所かな」とはぐらかした。

「それで舘宮様はなんておっしゃったんですか」と茉莉花の困惑を察したおふきが話しを戻した。

「舘宮さんは、お店の家賃以外の開店資金は藩のお祝いって事で返さなくては良いと言われました。それで、お店の店賃は半年分は前払いしているので、それはお店が軌道に乗ってからおいおい返してくれれば良いとも言ってくれました」冷めたお茶で喉を潤した由佳は話を続けた。

「それでももし、前払いの店賃を払いきる前に私達が居なくなってしまった場合はどうするのかと聞いたのですが、それはその時と、話をはぐらかされてしまって、それ以上は話が出来なかったんです。私は先々の事を考えて、お店の権利を買うとか、名義を川越藩からおつたさんに変えるとか具体的な話がしたかったんですが」と由佳は話を切った。

おつたは「女将さん、私達親子の為にそこまで考えて貰っていたなんて、なんてお礼を言ったらいいのかわかりません。本当にありがとうございます」と畳に手をついておふきと共に頭を下げた。

その後、つと、由佳の顔を見て、

「でも、私達の事は心配しないで下さい。私達はお店が無くなったら無くなったで名栗に戻り、今までどおりの暮らしを続ければ良いんですから。元々おふきも私もそのつもりで出て来ています。ですから後の事まで女将さんが心配されることはありません」そうだよね、とおふきと顔を見合わせ、二人でうなずきあった。

由佳は確かにおつたの意見を聞かずに勝手に何とかしようとしていた。その事をおつた気づかされ、独りよがりだった事に謝り、それで改めて先の事を話合おうと話した。

 

「それで、文太の事ですけど」とちょっと蚊帳の外になってしまっていた深沢が声を掛けた。

「そうそう、だからまつりも深沢さんの店も先行きがはっきりしないまま文太を雇っていいのかが問題なんですよ。私達が居なくなった後、章五郎さんもお屋敷に戻り、おつたさん達が名栗に帰ったとしたら、せっかく仕事に慣れても結局また奉公先を探す事になってしまう。それなら最初からちゃんとしたお店に奉公するのが良いと思ったんです」と由佳が話を戻した。

「その件ですがね」と章五郎がいいにくそうに

「女将さんにはぼちぼち相談しようと思っていたんですが」と後ろ頭に手を置き、もじもじしだした。

「どうした章さん、何か気持ち悪いよ」と茉莉花に言われ、意を決した様に顔を上げた。

「実は舘宮様には相談して了承して貰っているんですが、あっしは佐久間さんの件が終わって皆さんの先のめどがついたらお屋敷を辞めようと思っておりまして」と話を切った。

「え、そうなの、それでどうすんの」と茉莉花に先を促されたが、またもじもじしだした。

「だから、章さん気持ち悪いって」と又言われ、ええいとばかり顔を上げ、

「それで、それでですね、ゆくゆくはまつりを買い取って、あっしはおつたさんと所帯を持ちたいと思ってるんでさ」と打ち明けた。

暫く沈黙の後、皆「えぇ」と驚きの声を上げた。おつたを見るとおつたも驚いているようだ。

「おっかさんいつの間にそんな事になっていたの」とおふきに言われおつたは

「そんな、おらも今始めて聞いいただ」と驚きのあまり在所訛りになって答えた。

章五郎はおつたに向き直って、

「おつたさん、あっしはこの年まで一人もんで過ごして来ましたが、おつたさんに会って初めて所帯を持ちたいと思ったんです。あっしと所帯を持ってもらえねぇでしょうか」と頭を下げた。

「ひゃー、公開プロポーズだぁ」と茉莉花は驚きと興奮でニヤニヤしだした。そんな茉莉花

「しっ」と制した由佳は

「おつたさん、おつたさんはどうなの」と驚きのあまり硬直しているおつたに聞いてみた。

「おっ母さん」とおふきも詰め寄る。

おふきの声に夢から覚めたようにはっとしたおつたは、赤くなりながら、

「おふき、死んだお父っさんが怒らねぇかね」とつぶやいた。

「何言ってんのおっかさん、死んだ人はなんにもしてくれねぇ、おっかさんが幸せになる方がお父っちゃんも喜ぶに決まってるって」

「そうかねぇ、それにしてもこんな婆さんでいいんだろうか」と章五郎を見た。

「おつたさんは婆さんなんかじゃないよ。お母さんより全然若いんだし、まだまだこれからだよ」と茉莉花に言われ、「そうですよ」と言いながら、茉莉花に若く無いと言われた気がした由佳はちょっとわだかまりを感じたが、

「おつたさんの気持ちが大事です。今まで苦労したんだから幸せになってもいい頃だよ」と背中を押した。

おつたの亭主は名栗で樵の仕事をしていた。おふきには四つ上の兄も居て、父親について樵の手伝いをし、その頃はまあまあの暮らしをしていたらしい。それが、ある日大雨で土砂崩れがあったとき、山を見回りに行った二人は同じく見回りをしていた数人の男衆と共に土砂崩れに巻き込まれ、帰らぬ人となったそうだ。それ以来おつたはおふきと二人炭焼きの手伝いをしたり、わずかな畑を耕したりして細々と暮らしてきた。

おつたはうつむいて、暫く考えていたが、章五郎の真剣な眼差しを見据えて、

「章五郎さんこんな年増に一緒になろうといってくれてありがとうございます。よろしくお願いいたします」と頭を下げた。

「お、おつたさん承知してくれるのかい。こんな嬉しい事はねぇや」とおつたの手を取った。

「でも、ひとつだけお願いがあります」

「なんでも言ってくれ、あっしに出来ることならなんなりと叶えてみせらぁ」と言いながら章五郎は何を言われるか心配そうな顔をした。

 

「実は、来年亭主と息子の七回忌なんです。それで、所帯を持つのは弔いが終わってからにしたいんです」

「なんだそんな事かい。もちろんだぜ。おつたさんの気の済むようにしたらいい。そうだ、そん時はあっしも一緒に名栗まで詣でて、一緒になる許しを得ようじゃないか。そうしよう」

とほっとした章五郎は有頂天になってしまったのか一人で計画を立てだした。

「おっ母さん良かったね。章五郎さんおっ母さんをよろしくお願いします」とおふきに頭を下げられ、章五郎は

「水臭いこというねぇ、おふきちゃんはさ、ゆくゆくはおいらの娘になるんだ」とこれまた嬉しそうだ。

そんな章五郎達に水を差すのは申し訳ないが、今問題にしているのは文太の事だ。

「それじゃ、章五郎さんが万が一の時でもお店を続けてくれるってことでいいんですね」と由佳が仕切りなおした。

「おっと、てめぇの事ばかりになっちまって申し訳ない」と章五郎は皆に向き直り、

「お聞きのとおり、あっしはおつたさんと今後もまつりを続けて行きます。

ですから今文太を引き取っても、先々身が立つようにしてやれると思います」と宣言した。

「章五郎さんありがとうございます」と由佳は頭を下げ、

文太に「どうする文太。私としては店の将来が安泰ならこのまままつりで働いてくれると嬉しいんだけど」と聞いてみた。

文太は目に涙を溜めて、

「女将さん、章五郎さん、皆さん、こんなおいらの為に色々考えてくれてありがとうございます」

と畳に突っ伏してお礼を言った。

ゆっくり頭を上げて皆を見回した文太は、

「本当にこんなおいらが厄介になってもいいのかい後で嫌にならねぇかい」と聞いた。

「何言ってんのよ文太。自分をそんな風に言っちゃ駄目だよ。文太は大事なまつりの一員なんだからね」と茉莉花は文太の背中を叩いた。

茉莉花の言葉に頷きを返す。

「みんなありがとう。本当に恩に着ます。精一杯働かせて貰います」と頭を下げた。

「さぁ、そうと決まれば早めに長屋を引き上げて移って来てね。大家さんにはまつりの方に集金に来るようにしてもらうから。片付けが終わるまでお店は暫く休んでいいよ。手伝いが必要なら言ってね」

と明日以降の話をつけて、今日は皆引き上げる事にした。

目黒だけは明日の埋葬にも付き合うとの事で文太の長屋に泊まることとなった。

 

皆で店に戻りながら茉莉花はおふきに

「良かったね、おふきちゃん、これで何時でもお嫁にいけるね」

と声を掛けた。それを聞いたおつたが、

「え、おふきにそんな人が居るのかい」と聞いたが

「そんな人は居ないよ」と顔の前で手を振り否定した。

茉莉花はなにやらふふんとした顔をして

「いつか出来るかもしれないじゃん」と意味深におふきに言ったが、おふきはちょっとだけ沈んだ顔をして

「そんな日が来ると良いのですけど」とつぶやいた。

「それより、おっかさんこそ」と話が弾んでいる様子の三人を見ながら由佳は章五郎に

「藩のお許しが出たってことは、もしかしたらですが、章五郎さんは今後は細作としてご奉公するんですか」と小声でそっと聞いてみた。

章五郎はちょっとだけ目を見張って、

「女将さんは何でもお見通しですね」と笑い。

「お察しの通り、あっしはそんな仕事も請け負います。もし文太に芽が出そうなら様子を見て話をし、細作としての修行に出しても良いかなとも思っております。まぁこれはあっしの勝手な考えですがね。店の先行きについては、雛屋の一件以来、藩で話し合われて来た事でしてね、楠田様の先々がどうなろうと、拠点を設けようと言う事になりました。ただし今すぐの話じゃございませんで、楠田様にお話が行く前にあっしが早走りしちまった訳です。その点については事情が事情でって事で勘弁していただきたいのですが」と頭を下げた。

「そんな事はかまいません。でもそれで合点が行きました。どうりで先日舘宮様にお店の買取についてお話したとき、歯切れが悪かった訳です」

「へえ、舘宮様にはあっしが所帯を持ちたいってぇ話と、店の今後の事と、佐久間様の件の段取りやらで、暫し待って貰うようにお願いしていたもんですから」と鬢を掻いた。

「おつたさん達には藩の仕事の事は話さないの」

「へぇ、あっしも舞い上がっちまって、手順やらすっ飛ばした感じでして、明日にでも舘宮様に相談して見ます。それ次第によっては話さねぇかも知れません。女将さんには申し訳無いですが、暫く黙っていてもらえませんでしょうかね」

「わかりました。でも私には経過を教えてください。話せる範囲で良いですから」

「へい、わかりやした」と章五郎は快く返事をした。

その如才ない様子を見ながら由佳は、先日茉莉花下屋敷で口走った「お庭番」の言葉に、岩本が反応したのを見て、章五郎は中間を装ったお庭番だと確信した。

しかし、今それを問いただしても本当のことは言って貰えないだろう。もしかして、おつたとの事も任務の一部かも知れないと思ったが、心の中ですぐに打ち消して、章五郎のおつたへの気持ちは本物だと自分に言い聞かせた。

 

 

マツリカの時ー10

師走に入り、坂を上って吹く潮風がますます冷たく感じる様になった。

先日の誘拐騒ぎは吉澤の働きかけもあって、少々の取調べはあったものの、雛屋はかどわかしの罪で菊太郎と共に江戸払いとなり店を畳むことになったそうだ。

政次は余罪もあって遠島になり、室井の件での目黒へのお咎めは特に無かった。

吉澤の話では、雛屋は時渡りの事をしきりに番屋で話したそうだが誰も取り合ってくれず、

吉澤も「何の事やら」と白を切ったため、特に追求もされなかったとほっとしていた。

 

舘宮と一緒に章五郎が出かけてから一回り(一週間)は経った。

そろそろ何らかの連絡があっても良さそうなのだが、時折様子を見に来てくれる下屋敷の吉澤のところにも何の連絡も無いらしい。

 

いい加減やきもきした日々を過ごし、かと言って連絡の取りようも無く、いつものように

仕込みを済まし、店を開けたとき、「女将さん、今戻りました」と朝日の中、章五郎が帰って来た。もちろんおつたも一緒だ。二人の急なお出ましに「おふきちゃん、おふきちゃん」と慌てて呼びかけた。

裏で薪の準備をしていたおふきと茉莉花が何事かと顔を出したが、章五郎とおつたを認めると

「おっかぁ」と「章さん」と駆け寄ってきた。

 

章五郎によると、夕べは板橋宿に泊まったが、朝早くに宿を出て、一気に高輪まで来たそうだ。

「近くまで来たら気が急いてしまって、章五郎さんに無理を言って早立ちしてもらったんです」と疲れも見せずおつたが微笑む。

「いやぁ、おつたさんの健脚にはびっくりしましたぜ」と章五郎も無事戻って来れた事にほっとしたのか、笑顔がこぼれたがその笑顔になんとなく照れが混じったような気がして、由佳はちょっとおやっと思った。

 

「それよりさ、大変だったんだよ」と茉莉花が章五郎に先日起こった事件を話した。

おふきも加わり、身振り手振りで事件のあらましを章五郎とおつたに説明する。

「なんてこった、あっしらが出掛けたその日にそんな事があったなんて、皆さん無事で本当によござんした」と章五郎が言うと、

「本当に皆さんに助けていただいて、おふきは果報者です」とおつたが涙ぐむ。

「大事な娘さんを危険な目に逢わせてしまって本当に申し訳ありませんでした」と由佳は頭を下げた。

 

「あの」と表から文太が顔を覗かせた。

「あら文太どうしたの入って来なよ」茉莉花に言われおずおずと入って来た。

「章さんお帰りなさい」と神妙に挨拶する。

「おう、文太、留守の間世話かけたな。色々大変だったって。ありがとうな」と章五郎に言われ照れくさそうにぺこんと頭を下げた。

「あんたが文太ちゃんかい、話しは聞いているよ、おふきの母親のおつただぁ。今日からよろしくおねげぇしますね」

とおつたに言われ、ぶっきらぼうに「あぁ」とだけ答えた。

「どうしたの文太、照れてるの」と茉莉花にからかわれたが、

「違ぇやい。それより今日は配達はあるのかい」

「今のところ配達は無いけど、先ずは朝ごはんを食べて、仕事はそれからだよ」と座らせる。

文太はおつたの方を見ようともせず、黙々と朝ごはんを食べた。

章五郎は下屋敷に帰参の報告に行くと出て行き、おふきにはおつたを二階に案内し、とりあえず休む様に言った。

積もる話もあるだろう、暫く店はいいよと由佳は声を掛けた。

 

飯を食べ、お茶をすすっていた文太に「文太、お父さんの具合はどう」と由佳が聞いた。

最近益々調子が悪くなり、寝たきりの様だと名主から聞いていたからだ。

「あぁ、飯もあまり食えねぇし、最近はずっと頭もぼんやりしているんだ」

「お医者には診せたの」と茉莉花も心配顔で聞くが、

「いんや、前に診てもらった時にもう治らねぇって言われたんで、それっきりさ」

「そんな」

「酒の飲みすぎで肝の臓がやられちまったら治らねぇんだと、仕方ねぇ自業自得だ」

と硬い顔で言い放つ文太にそれ以上は何も言えず二人は顔を見合わせた。

 

午前中のお客はいつもと変わらず、お昼近くなって少し混んだが、大慌てするほどでも無かった。

午後になっておつたが

「すっかり休ませて貰って、申し訳ねぇ。手伝いをさせてくだせぇ」と二階から降りて来た。

「着いたばかりだからまだ休んでていいよ、今日はそんなに忙しくないから」と言ったが、ゆっくりして居られないと言う。

それならばと、前々から考えていた新しい商品の開発を手伝ってもらうことにした。

新商品と言っても肉まんもどきなのだが、以前におふきにおつたは饅頭が作れると聞いたので、まずは饅頭の皮を拵えて貰う。

肉まんの中身はとりあえずはシュウマイと同じにして、イカと野菜で作った餡を包み蒸せば出来上がりだ。

おつたは「へぇ、それなら造作ねぇ」と饅頭の皮を捏ね、器用に餡を包んでイカ饅頭を作ってくれた。

ちょっと遅くなったが皆で試食を兼ねてお昼ご飯にイカ饅頭を食べる事にした。

 

新しい商品におつたとおふきは「美味しい」と喜んだが、茉莉花

「やっぱり肉の方が美味しいね、肉汁が出る感じが欲しい」

とちょっと物足りなさげだ。

「文太どうこれ売れるかな」と聞くと

「こりゃお八つにちょうどいいや。お焼きより手が汚れねぇし、売れるよ女将さん」

と太鼓判を押してくれたので、早速明日から売って見ることにした。

値段はお焼きと同じだが、茉莉花が汁気があったがいいと言うのでイカを減らした分白菜を多めにし、醤油で味付けした餡を別につくり、それを入れることにした。

二回目の試作品が出来た頃に章五郎が帰って来たので、試食してもらった。

「これまた旨いですな、この汁がなんとも言えねぇ」と章五郎にも好評だったのでこのレシピで作ることにする。

 

おつたが来て三日が過ぎた。

イカ饅頭も好評で、すぐに評判になり、新しいもの好きの江戸の若い娘達が列を成した。

おつたはこんなにも人が来るのかと最初は驚いていたが、毎日せっせと饅頭作りに精を出した。

 

「今月の集まりは下屋敷だよね、その日はこの前文左衛門さんに貰った着物を着て行くんでしょ」

茉莉花に言われ、由佳は思い出した。

そうだった。お屋敷に行くにはちゃんとしないといけないだろう。

帯締めやしごきは先日村上が店まで来てくれて、着物に合わせた物をそろえたので問題ない。

頭は近所の髪結いに来てもらわないといけないが、下手なところには頼めないので章五郎に手配してもらうつもりだ。

「そうだね、若様も来るし、その日はおめかししなきゃね」と言うと、

「めんどくさいなぁ」とぼやくが茉莉花はちょっと嬉しそうだ。

 

昼の忙しい時間を過ぎた頃、錦屋の若旦那が尋ねて来た。

「先日はありがとうございました、お蔭様で無事開店することが出来ました。ご挨拶が遅くなり申し訳ございません。これはほんの気持ちでございます。どうかお納めください」と取り出したのは簪と櫛だった。

「なんでも近日川越藩下屋敷においでになるとか、差し出がましいとは思いましたが、亀屋様とも相談いたしまして、こちらを使っていただければ思い選ばせていただきました」

見ると簪も櫛も凝った作りで、値が張りそうな品物だった。

由佳には黒塗りに古典柄の櫛と鼈甲の簪、茉莉花には赤塗りで白い花が描いてある櫛と銀細工の簪だ。

「そんな大した事はしていませんので、こんな高価な物はいただけません」恐縮する由佳に

「実は隣の雛屋の一件を聞きまして、手前どものせいで楠田様には大変ご迷惑をおかけしました。そのお詫びも兼ねての品でございます」

「その件でしたら大変だったのはおふきちゃんと文太ですから」と言うと、

「承知しております。それで、おふきさんにはこちらを、そして小僧さんには簪と言うわけにはいきませんので、些少で大変恐縮ではございますが、こちらをお渡しください」

と箱と袱紗を押して寄こした。

おふきと文太への品は受け取ったが、私達にはと更に躊躇すると、

「実はこの櫛ですが、茉莉花さんのお名前はマツリカという花のことだと亀屋様から聞きまして、たいそう珍しい花だと言うことで調べました。すると元禄に狩野家の画家が写生したものがある事が判りまして、その絵の模写を手に入れて絵師に描かせたものにございます。ですからこれは是非茉莉花さんに挿していただきとう思います」

錦屋は櫛を手にとって茉莉花に渡した。

「ほんとうだ、ジャスミンの花だよお母さん。写生があったんだね」と嬉しそうだ。

「そこまで気を使っていただいてありがとうございます。それでは遠慮なく頂戴することにいたします」と由佳に言われほっとした錦屋は、根付の評判の話し今後の展開などを楽しそうに話して帰って行った。

 

材料の買出しと町の様子を見に行っていたおつた母娘と文太が帰って来た。

さっそく錦屋がたずねてきて、皆にお礼の品を置いていったことを話した。

文太は早速懐紙の包みを開け、そこに入っていた二分金を見て、

「おいら急に金周りが良くなったみてぇでなんだか怖いや」と喜び、これも預ってくれと由佳に渡した。

 

おふきは箱をあけ息を呑んだ。そこには茉莉花と同じ様な赤塗りの櫛と銀細工の簪が入っていた。

櫛には石蕗の絵が施されていて、つややかな緑の葉と可憐な黄色い花が描かれていた。これも又、錦屋の気配りだろう。

おふきは押し抱く様に櫛を持ち、

「おらこんなきれいな石蕗を見たのは初めてだぁ。おっ母さん石蕗って綺麗だったんだねぇ」とおつたに見せた。

「ほんに、けんど、本当にこんな立派なものをいただいてもよろしいんでしょうか」と銀細工の簪と櫛を交互に見ながらおつたが不安そうに誰とも無く聞いた。

「大丈夫だって、雛屋が店を畳んだから、雛屋のお客も錦屋に流れて、売上がいいらしいよ。遠慮なく貰っとこうよ」と茉莉花に言われ、

「なんだか、雛屋さんが気の毒です」とおふきが嘆息した。

「仕方ねぇよ、雛屋は欲をかいて墓穴を掘っちまったんだ、自業自得だぜ、江戸払いで済んで御の字だぃ。つくづく欲はかくもんじゃねぇや」と文太が大人びた口調で言ったものだから皆笑い出した。

 

下屋敷での「時の会」の当日、店は休みだが由佳と茉莉花は朝から忙しい。

まずは章五郎が連れて来た髪結いに髪を結ってもらい、終わったらおつたに着物を着付けて貰う。

茉莉花は窮屈だからギリギリまで着たくないと言ったが、それではおつたが出掛けられないと由佳に叱られ、仕方なく着付けて貰った。

おつたもおふきもついでに髪を結って貰い、全員の支度が出来たのはもう昼近かった。

 

表で「御免」と声がした。目黒が来た様だ。

章五郎は髪結いと入れ替えに下屋敷に出かけて行き、店には女だけだったので、表は芯張り棒をかけてあった。

おふきが戸を開け目黒が入って来たがいつもと違うおふきを見て驚いた顔をした。今日のおふきは先日もらった着物をと簪を身につけうっすら化粧もしている。

「いらっしゃい目黒さん」と茉莉花に言われはっと我に返った目黒は取り繕うように

「これは皆さん一段と艶やかで、目の保養にござる」と照れたように微笑んだ。

「なにお世辞言っているの、おふきちゃんしか見てなかったくせに」と茉莉花に言われ、

「そんな事はござらん」と目黒は慌てて手を振り、おふきは赤くなって俯いてしまった。

「ははーん」と意味ありげなうなずきを返した茉莉花の目が狡猾そうに光った。

 

「こんにちは」と深沢が入って来た。入ってくるなり

「ひゃー皆さん綺麗だ。特に茉莉花ちゃん、すっごくいいよ。うんいい」としきりに褒めた。

「はいはい、お世辞はそこまで、お昼食べてない人は朝作ったおにぎりだけど良かったら食べて」

と遅いお昼ごはんを軽く取り、深沢、目黒と楠田母娘は下屋敷へ、おつたとおふきは買い物に出掛けた。

 

下屋敷では章五郎が出迎えてくれた。

長い廊下を渡って通された部屋には、既に佐久間が来ていた。

部屋には文左衛門の寮にあるそれより更に豪華なテーブルと椅子が用意されていた。

上座にと目黒に勧められたが、由佳と茉莉花は新参者だからと末席に座らせてもらった。

 

「皆さんお久しぶりです」

「佐久間さんお変わりはありませんか江戸には何時出てこられたのですか」

「夕べですよ、それより楠田さんのところは大変だったようですね」

「もうご存知でしたか、今日は叱られちゃうかしら」と由佳は不安になった。

「遅くなってすみません」と村上が入って来た。

これで全員揃った様だ。

しばらくして、舘宮、岩本を従えた若様が現れた。例のごとく上座に両家来を従えて若様が座ったが、

着物姿の楠田母娘を見て、「ほう」と笑顔を向けた。

「それではこれより時の会を始めさせていただきます。先ずは小山殿の件より」と舘宮の挨拶で始まった。今日の舘宮は少々緊張ぎみだ。

「皆様ご存知の通り、小山殿は必死の捜索にもかかわらず、骸も発見出来ず、当藩としては再滑りしたものとすることにしました。先月のことです」その言葉に皆うなずく。小山の件は先月の時の会で既にそう報告されていたからだ。

「その後、目黒様の仮説を元に話し合いを行い、此度再滑りに関して検証することとあいなりました」

「なんと」と目黒が舘宮に注目した。話が見えない他の者はきょとんとしている。

「若様」と舘宮が説明を若様に任せた。

「うむ」

「此度の仮説は文左衛門とも話したが、検証に値すると判断したのじゃ。各々の時滑りした時と再滑りする時とは天候や状況が似ておる。そうであるな目黒」

「憶測ではございますが、そのようなことと思い至った次第でござます」

「うむ、再度各々方の時滑り時の状況を見直してみたが、目黒、村上、深沢の三名は再現が難しいと思われる」そう言われて三人はそれぞれの表情をした。

目黒は悟りきってうなずき、村上は嬉しそうだ。深沢は不満混じりの複雑な顔をしている。

「そこで、佐久間に再現が出来ぬか相談したのだ。佐久間の場合、天候さえ合致すれば可能ではあるまいかと思ってな。して佐久間は承知してくれたのじゃ」

「えぇ」驚きと共に皆が佐久間に注目する。

「でも、若様、佐久間さんは滑ってきたとき大怪我をしたんですよね、万が一、再滑り出来たとしても元の場所で大怪我してしまうかもしれませんよ」と深沢が焦って進言した。

「無論その危険性はある。それを承知で佐久間は引き受けてくれたのだ」

「はい」と佐久間は悟ったような顔で若様にうなずき返した。

「もちろん危険は承知です。でもやってみる価値があると判断しました」

「死ぬかも知れないんだよ」と深沢が佐久間に心配そうな顔を向けた。

佐久間は深沢に諭す様に言った。

「今の生活は以外と気に入っていて、このままでもいいかなって思うときもあるんですが、やっぱり僕は元の時代に戻りたいんです。もし怪我をしても向こうなら医術も進んでいるので助かる確率は高いし、万が一死んだとしても親の事を思うと遺体だけでも帰ってあげたがいいと思ったんです」

皆佐久間の最後の言葉にしんみりした。

遺体だけでも帰る。確かにそれは最悪の場合のせめてもの親孝行かもしれない。

「でも、元の時代に戻れるかは判らないんだよね」と茉莉花がつぶやくと、皆はっとして若様を見た。

「確かに、それはばかりは賭けだ」と若様は神妙に答え、佐久間もうなずく。

「万が一再滑りせず何事も起こらなかった時の為にこちら側には佐久間様をお救いする仕掛けを用意いたします。そのため、先日私と章五郎が下見をし、段取りをしておきました」と舘宮が皆の心配を先取りして報告した。

先日章五郎が舘宮と川越に行ったのはその為だったのかと由佳はひとり納得した。

「年が明けたら仕掛けの制作に取り掛かります。その時は又、章五郎をお借りしますので、楠田さんには申し訳ありませんがそのつもりでいてください」と舘宮が付け加えた。

「承知しました」と由佳が答えたが、

「何で章さんがわざわざ行くのかな」と茉莉花が小声で由佳に聞いた。

「章さんて実はお庭番とか」と何気なく行った茉莉花の言葉に、今まで無言で控えていた岩本がじろりと茉莉花を見た。

岩本に睨まれて茉莉花が首をすくめそれ以上は何も言わなかった。

どうやら触れてはいけない事らしい。

「仕掛けが出来ましたら、その後天気を見計らい実行に移します。天気次第ですので、皆様には事前にお知らせすることが出来ません。その旨をお伝えしておきます」とさらに舘宮が皆を見回しながら伝えた。

と言うことは今日が佐久間に会える最後かも知れない訳だ。

深沢は寂しそうに「じゃぁ今日は思いっきり佐久間さんと飲もうかな」と言い、目黒も、

「大いに語りましょうぞ」と言った。

 

「次に、楠田さんの一件についての話です」名前を呼ばれ由佳と茉莉花はギクッとした。先日の誘拐騒ぎの件でお叱りを受けるのかもしれない。覚悟はしてきたが緊張する。

「先日の雛屋による煮売り屋まつりの手伝いおふき、文太の誘拐について、吉澤から一件落着の報告を受けております」

誘拐と聞いて事情を知らない村上が驚いて「どういう事なんです」と聞いたので舘宮が事件の内容をかいつまんで話した。

それを聞いた村上は、

「大変な目にあいましたね、誰も怪我しなくて良かった。しかし、なぜ雛屋は時滑りの事を知っていたのでしょうか」と問うた。

「それについては藩の方で調べを進めています」とだけ答え若様のほうを伺った。

「うむ、思ったとおり時滑りは他の藩でも起こっているようじゃ。雛屋もどこかで聞いたのだろう、今回はたまたま相手が悪かったのか良かったのか大事無くてよかったが、今後も起こるやも知れぬ。皆、約定を守って気をつけて暮らすよう」

と若様に言われ、由佳は「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」と頭を下げた。

 

その後は各自の近況報告をした。村上は特に変わった事はなく、深沢も先日の事件以外何も無いと報告した。

目黒は先日の対決の事を侘びたが、浪人室井の件はお咎めなしとなった。

菊太郎と政次は遠島、雛屋は江戸所払いとなった為、この件は川越藩も終わりにする事となった。

 

由佳は再度、深沢と目黒に先日の件のお礼をいい、吉澤に世話になった事を報告した。店はおふきの母親が来た事、文太の面倒を見ている事を報告したが、文太について、雛屋の一件で時滑りの事を聞いたようでおふきに聞いて来たらしいが、おふきは「さぁ」と誤魔化したらしいことを話し、文太に伝えたが良いか判断をお願いしたいと話した。

目黒も文太に聞かれたが答えてはいない事を付け加えた。

若様は暫く思案していたが、いずれは話す事になるかもしれないが、いま少し様子を見るようにと言われた。

 

報告会は終わり、今日は下屋敷で食事が出るというので、支度が出来るまでしばし休憩となった。

支度を待つ間、「楠田殿、庭を案内しよう」と言われたので茉莉花と由佳は若様と庭に出た。

 

丁寧に刈り込まれた松や岩、池などで構成してある庭は所謂日本庭園だ。

飛び石を歩きながら「店のほうはどうじゃ」と聞かれた由佳は最近売り出したイカシュウマイと、おつたが来てから始めたイカ饅頭の話しをした。

若様は「それはうまそうじゃな、下屋敷に居る間に賞味したいものじゃ」と屈託無い笑顔を見せた。

「しかし、茉莉花殿は今日は一段と女っぷりが上がっておるの。そうしておると時滑りであることを忘れそうじゃ」と褒めてくれた。

「ありがとうございます。」と茉莉花は神妙にお礼を言った。

「でも着慣れないので、早く帰って脱ぎたいです。」と色気の無いことを言った。

若様は「そう言うな、今日は皆とゆっくり話しをしたいと思っておるのだから」と笑った。

 

「そういえば、ちょっと聞いていいですか」と茉莉花が若様に聞くと共に、由佳のほうをちらりと見たので、

由佳は気を利かせて、「ちょっと失礼します」と離れて行った。

「なんだ、母御に聞かれたく無い話か」

「いえ、そうじゃ無いけど」

「なんじゃ話してみよ」

「時滑りの約定に「一つ、この時代の人間と婚姻をしたり、子を成してはならない」ってあるけど、どうしてですか」

「それは今回の小山殿の様に突然再滑りした場合、残された者が悲しむからじゃ。それに、本来はこの世に居らぬ者との間に子どもが生まれたら歴史が変わってしまうかもしれぬ。ま憶測でしかないのだがな。生まれてみて育ってみないことにはわからん話だが」

「確かにややこしい事になってしまうかも知れないですね」と茉莉花はがっかりしたようにつぶやいた。

「なんだ、たれぞ好きおうた者でも出来たのか」と若様に聞かれ慌てて、

「違います、私じゃないです」と慌てて否定した。

「ならばなぜそのような事を気にするのじゃ」

「実は、これはまだ私の勝手な思い込みかもしれないけど、おふきちゃんと目黒さんはお互いに好きなんじゃないかと思ったから、もし二人が上手く行けばいいなって思って」

「ほう、目黒とおふきがの。しかし」若様は言葉をきってまだ固い蕾のがついたばかりの梅の木を見上げた。

しばらく沈黙の後若様はこう言った。

今回の説で言うと、目黒が元の時代に戻るのは再現が難しく、小山みたいに再滑りすることは無いだろう。

しかし、一度滑って来た人間が他の時代に行ってしまわないという保障は無い。

万が一、もう二度と何処にも行かないと仮定して、もし、二人が結婚して子どもが出来たとしたら、その子どもは普通に育つのだろうか未来の目黒家になんら影響を及ぼすのではないのか全く予測がつかない。

そういった不確かな状態で所帯を持たせるのははばかられる。

と言うことだ。確かに二人の未来には不安定要素ばかりで、

「やっぱり、二人は付き合ったら駄目なんですね」茉莉花はため息をついた。

「そうは言ってはおらん、この先どうなろうと添い遂げる自信と覚悟が必要だと言っておるのだ。やはり、伴侶は好きおうた者が良いであろうからの。目黒は武士であるが、家は無いゆえ町人との結婚もまあ問題なかろう。要は二人次第となるな」と言ってくれたので、茉莉花はぱぁっと顔を輝かせた。

そんな茉莉花を優しい眼差しで見つめながら、

茉莉花殿は令和の世に将来を誓い合った者がおるのか」と聞いた。

「え、許婚とかですかまさか全然そんな年じゃないし、まだまだですよ。考えた事もない」と答えた。

「そうか、まだまだなのか。してそち達は幾つ位で嫁に行くのじゃ」

「早い人は十九歳とかで結婚する人もいるけど大体二十五歳から三十歳までの間じゃないかな」との答えに

「なんと、大年増ではないか、予は勘弁だぞ」と若様は大笑いした。

「今の時代じゃ大年増だけど、令和では普通ですよ。お母さんだって二十九で結婚して三一の時私を生んだから」

「そうか、確かに由佳殿は若くしておられる。令和の者はいつまでも若々しいのだな」

「そうですよ。それより若様は結婚とかしないのですか」

「予か、予は次男ゆえ結婚は自由にはならんのだ、いずれかはどこかの大名に婿に出る事が決まっておる」

「やはり相手は選べないのですか」

「そうじゃな、嫡男であれば数多の大名からの薦めがあろうから評判や好みで選ぶ事は出来るがの、次男はそうも行かぬのじゃ」

「じゃぁ顔も知らない人で、住んだ事の無い処にお婿に行くかも知れないんですね」

「それが普通じゃ。願わくば心根の優しい姫で有れば良いと思うておる」

「若様も大変なんですね」

「うむ、そなた達の様に自由に恋が出来るのが羨ましいとも思うぞ」と少し寂しそうな顔をした。

思いがけず若様の本音に触れた茉莉花は何と声を掛けていいか判らず押し黙った。

 

そんな茉莉花の心中を察したのか、

「そうじゃ、そなたの名前のマツリカと言う花だが」と若様は話題を変えた。

「はい」

「何でも暖かい国の花ゆえ、今はまだ江戸では育てるのが出来ぬらしい。文左衛門がゆうておった」

「そうかもしれません、南国の花なので。令和でも品種改良されているかもしれません」

「品種改良とな。そうすれば寒さに強い花になろうが、今はまだ無理じゃな」うなずく茉莉花を見て

「そこで、色々調べてもろうたが、マツリカはモクセイという種類の仲間だという話じゃ。

モクセイで今の世で育つのは白モッコウだと知ってな。それも良い香りがする花らしい」

嬉しそうに話をする若様だが、植物の種類に疎い茉莉花はふーんとしか返事のしようが無い。

「もし、予がどこぞの国に婿に入ったら、予はその白モッコウを植えようと思うのじゃ。

時滑り達と過ごした事や今この時を懐かしく思うことがあろうでな。その時はその花を見てそなた達を思い出すとしよう」

茉莉花は若様の寂しげながらも爽やかな笑顔に少しドキッとした。それを隠すかのように、

「じゃぁ、もし私達が令和に帰ったらその木を探します。若様が婿に行った国を探して、お城の庭を探してみます」

「おお、そうしてくれるか、それは嬉しいかぎりじゃ。何だか未来に繋がるかと思うと胸が躍るようじゃな」と言い、若様は又梅の木に視線を戻して、「無事帰れると良いな」とつぶやいた。

 

 

マツリカの時ー9

霜月の晦日前日、その日は朝から雨が降っていた。久しぶりの雨だが、冬も押し迫ってきているため気温もぐっと下がり、

このままだと雪になるかも知れないと言う空模様だ。

「こんな日に遠出は大変だけど、藩の御用じゃ仕方ないですね。気をつけて行ってください」

店先で旅姿の章五郎に弁当を渡しながらねぎらいの言葉をかける。

「なんの、これしきの雨じゃ苦になりません、急ぎ足で歩けば暑いくらいでさぁ」

この時代の人たちは何しろ健脚だ。今日中に川越までたどり着くと言う。

「おはようございます」同じく旅姿の舘宮も到着した。

「おはようございます。舘宮様も気をつけてお出かけください」と頭を下げる。

「しばし章五郎をお借りします。帰りは別になる予定です。章五郎は名栗に立ち寄るのであったな」

「へい、おふきさんのおっ母さんを迎えに行きます」

「うむ、そうであった。おふき、楽しみだな」といつもの笑顔だ。

「文太、大変だろうが頼むぞ、万が一何かあったらすぐに下屋敷に知らせに行くんだぞ」と章五郎に言われ、

「がってんだぃ。任せておくれ」と文太は胸を叩いた。

「本当に誰かを寄こさなくて良かったのですか男手があった方が私は安心ですが」という舘宮に

「大丈夫ですよ、文太もれっきとした男だし、深沢さんも目黒さんも気にかけてくれていますので」

「そうですか、それでは皆さんくれぐれも気をつけてください」そういうと霧雨の中二人は川越を目指し出掛けていった。

 

 「しかし寒いね~今日って配達あるんだっけ」と着膨れした茉莉花がお茶をすすりながら聞いた。

「白金の方に二軒あるよ。海風の近くでそんなに遠く無いし、雨が小降りのうちに行ってくれば」

「うーん、寒いなぁ」と行きたくなさそうな茉莉花を思いやってか

「今日は私が行きますよ」とおふきが言ってくれた。

「え、本当、悪いね、じゃぁおふきちゃんにお願いしてもいいかな」ととたんに元気だ。

茉莉花さんは寒がりだなぁ、まぁ西国育ちじゃ仕方ないや、おふきちゃんおいらと一緒にひとっ走り行って来ようぜ」と文太も諦め顔だ。

「おふきちゃん悪いけどお願いするね。そうだ、今日は寒いし雨だから袴を穿いて行けばそのほうが早く歩けるよ」

「そうですね、じゃあ茉莉花さん貸してくださいな」

「うん、上着も貸してあげる。あったかいよ」

茉莉花の袴と上着を借りて、足元をこしらえて

「それじゃ行って来ます。すぐに戻りますから」と文太と雨の中出かけて行った。

 

「おふきちゃん寒くないかぃ」

「大丈夫よ、名栗はもっと寒いところだし、それに袴って足元があったかいね。歩きやすいし、冬の間は私も店で袴にしようかな」

「えー、それじゃ看板娘が居なくなっちまうよ、やっぱ女は着物でしゃなりってしてなきゃ」

「まぁ、ませた口利いて」

ふたりは傘を差しているのも忘れるくらい軽やかに白金を目指していった。

 

 「あれか」と深編笠越しに人の様子を伺っていた侍と思われる長身の男がもう一人の男に聞いた。

「へぇ、傘をさしていますが、いつもの二人連れだと思いやす」

「このまま白金の辺りまで行くようだな」

「そのようです。どの辺りで仕掛けますか」

「今日は都合よく雨だ。そう人通りも多くない、このまま後をつけて人気が切れたあたりで一気に済ませてしまおう。駕籠は用意してあるか」

「へい、この先の松平様のお屋敷の辺りに用意しております」

ふたりはその後なにやら相談して二手方向に分かれて行った。

 

白金横町にある「海風」の二階ではようやく深沢が目を覚ました頃だった。

障子を開け、「ちぇっ、今日は雨か、どおりで寒いと思ったよ」と伸びをしながら通りを眺めた。

傘を差し歩いていた二人に気づき「あれ、文太と茉莉花ちゃんじゃない」と声をかけた。

声をかけられ見上げた二人を見て、

「なんだ、今日はおふきちゃんか、袴なんか穿いているからてっきり茉莉花ちゃんかと思ったよ」

「深沢さんおはようございます」

「深沢さんおはよう、今日はおふきちゃんだよ、がっかりしたかい」と文太も笑って冷やかす。

気さくな深沢と文太はすぐに仲良くなり、軽口を叩くような間柄になっていた。

「何言ってんだよぉ文太は、でも雨の中ご苦労さん、何処まで行くの」

「この先のお宮さんの手前辺りまでです」

「じゃあ、帰りに寄りなよ、お茶でも入れて待っているから。暖まってから帰るといいよ」

「ありがとうございます。それじゃ遠慮なく寄らせてもらいます」

「あぁ、深沢さん茶菓子も用意して待ってておくれ」

「これ、文太ったら」

二人を見送って、障子を閉めようとしたとき、ふと何かが気になった。

改めてそっと表を見ると、二人から百メートルほど離れた家の影に、深編笠をを被った浪人風の男が隠れるのが見えた。

不審に思った深沢はそのまま様子を見たが、男が出てくる気配は無い。

「気のせいか」なんとなく気になったが火をおこすため窓を離れ階下に下りていった。

 

「危なかった、この辺りに見知った者が居たとは厄介だな。さてどうするか」ひとりごちた男は表通りには戻らず、裏の畑まで来た。

「旦那」ふいに声をかけられ、鯉口を切りながら振り向いたが、「お前か」

「へぇ、どういたしやすか、この辺りではまずぅございます」

「お前も見ておったか」とうなずく。

「手前の高野寺の辺りがよろしいかと思いますがいかがでしょう」侍はしばらく思案したが、

「そうだな、それしかあるまい。駕籠を回しておけ」と指示をし、今来た道を引き返していった。

 

「あー寒い、寒い」勢い良く戸を開けて文太が飛び込んで来た。

「おじゃまします」傘を畳みながらおふきも後に続く。

「お疲れさん、何にも無いけど火のそばに来てあったまりなよ」と深沢が椅子を薦めてくれた。

「こんな物しか無いけど」と大福と暖かいお茶を出してくれたので、文太は

「やった大福だ」と早速手を出した。

「お手数をおかけします」とおふきも遠慮がちにお茶をすすった。

しばらく店の話や、今日出かけた舘宮達の話をしたのち、

「そろそろ帰らないと心配されるから」とおふきと文太は帰って行った。

「又遊びに寄りなよ」と二人を見送った深沢だった。

 

先ほどの男がちらっと胸を掠めたが、いつもと変わらない町並みと雨の中の仕入れの事に気を取られて直ぐに忘れてしまった。

 

「すっかり時間食ってしまったね、おふきちゃん、早く帰らないと雪に変わりそうだよ」

「そうね、でも帰りは下りだから転ばないようにね」そういいながら二人は急ぎ足で来た道を引き返して行った。

この先を曲がれば、後半分という高野寺の辺りに差し掛かった。

 

 高野寺は、江戸在番所として浅草日輪寺に寄留して開創されたお寺だ。元禄十五年(一七〇二年)の災火により焼失したが、翌一六年に復興され、御府内八十八箇所の一番札所と言うこともあって普段は参拝客で賑わっている。

しかし今日は朝からの雨と冷え込みで参拝客はみえなかった。

 

「今度おっ母さんとここにもお参りに来よう」そう思いながら通り過ぎようとしたとき、ふいに影から侍が出てきた。

見知らぬ侍に腰をかがめて脇を過ぎようとしたとき、

「待て、そのほうら、煮売り屋まつりの者だな」と声をかけられた。

とっさの問いかけに不審に思いながらも、

「そうです。何か御用でしょうか」とおふきは笑顔を向けた。

「ちと、聞きたい事がある、一緒に来てもらおうか」と顎で後ろを示した。

見ると怪しげな町人と駕籠が見えた。何だか嫌な予感がした二人は、

「あいにく今急いで店に戻る途中です。お話でしたらお店で伺いますので、ご足労ですがお店までお越しください」それではとお辞儀して立ち去ろうとしたが、

「同行出来ないと申すなら仕方ない、おい政」と侍が声をかけたとたん、

政と呼ばれた怪しげな町人がおふきの手を掴み、強引に駕籠に乗せようとした。

「何するんだぃ、おふきちゃんに手を出すな」と文太が政の手に噛み付いた。

「いてぇ、何するんだいこの餓鬼はよ」と反対の手で文太を張り倒した。それでも文太は直ぐに起き上がり、果敢に政に食らい付こうとした。

「おい、早くしろ人が来る」そう侍にせかされて政は文太の鳩尾に拳骨をくれた。ぐったり倒れこんだ文太を見て、おふきは

「文太、誰か、助けて」と助けを呼ぼうとしたが同じく鳩尾にこぶしを当てられ、意識が遠のいてしまった。

 

「旦那、どうしますこの餓鬼は」と噛まれた手をさすりながら政と呼ばれた男が文太を足で小突いた。

「仕方あるまい、ここに置いても行けぬ。一緒に駕籠に乗せて運んでしまおう」

足で小突かれ意識を戻した文太だったが、二人の会話を聞き、意識が戻ったことを気づかれないように目を瞑ったままそっと首にかけていたお守りを引き千切って落とした。

 

「おい駕籠屋、早く運んでくれ」と言われ木陰に隠れていた駕籠かきの二人が駕籠の前後についたが、

「あの~これってかどわかしじゃぁ、面倒はごめんですぜい」とおずおずと気後れした様子を見せた。

「お前達はあれこれ考えなくてもいいんだよ、言われたとおりに運びやがれ」と政にどやされ、慌てて担ぎ上げた。

 

「二人とも遅いね」と暇な店先で茉莉花が外を眺めながら呟いた。

「そうだね、きっと深沢さんの所に寄って、お茶でもしてるんじゃないかなまあ、今日は暇だからゆっくり帰ってきても大丈夫だよ。お昼までには帰ってくるでしょう」

「ごめん」

「あ、目黒さん。いらっしゃい」

「どうされたんですか、今日は寺子屋はもうおしまいですか」とお茶を出しながら聞くと、

「今日はこの後雪になりそうですし、子ども達に風邪をひかせてもいけないので、昼前で早終いにし、薪割りの手伝いでもしようと思い来てみました」

「それは、わざわざありがとうございます。でも流石にこの天気で暇ですし、今日のところは薪も足りています。それより、目黒さんお昼はまだですよね今日はお菜が沢山あまりそうだからお昼を食べてってください。うどんに天ぷらを乗せると美味しいですよ」

「それはかたじけないが、遠慮なくいただきます」と言いながらさりげなく店を見回した。

「おふき殿と文太は出かけているのですか」とこれまたさりげなく聞く。

「はい、白金辺りまで配達に行って貰っています」

「それにしては帰りが遅いって話をしていたんですよ、深沢さんの所で油でも売ってるんじゃないかって」と茉莉花が言った。

「深沢さんも仕入れに行く前に立ち寄ってくれないかしら、一緒にお昼ご飯に出来るのに」との由佳の提案に、

「それならば、私が向かえがてら深沢さんも連れて来ましょう」と目黒が請け負ってくれた。

 

深沢は店の掃除を終え、そろそろ仕入れに行こうか、お昼を食べようか思案しているところだった。

「ごめん、おられるか」と表で目黒の声がした。

「あれ、目黒さん今日は早いですね」とにこやかに挨拶したが、店を覗いた目黒は一瞬にして険しい顔になり、

「文太とおふき殿は来なかったか」と聞いてきた。

「ええ、寄ってお茶をしていきましたが、もう一刻ほど前に帰りましたよ」と答えると、目黒は畳みかかけた傘を放り出して駆け出した。

何事か判らず、うろたえた深沢だったが、とりあえず目黒を追う。

「ど、どうしたんですか一体」

目黒は走りながら、

「二人はまだ店に戻っておらず、楠田殿に深沢殿と一緒に昼餉を誘われたので拙者が迎えにきたのです。途中すれ違うはずもなく、まさかとは思うが」と説明した。

 

高野寺の辺りの分かれ道まで来たとき、目黒は足元のぬかるみを凝視した。

雨にぬかるんでいたが、数人の足跡が残っていた。

「何人かが此処に居たようだが、ただの参拝客か」と思案したが万が一を考え、

「深沢さん、この辺りをくまなく調べてみてください」と指示をした。

「わかりました」と事態を把握した深沢も目黒と反対側を見てみる。

 

「あっ、目黒さん、これ」とぬかるみの中から紐がついた汚れた小袋を見つけた。

「これ確か文太がつけていたお守りです。おっ母さんに貰ったと言っていました」

「やはり、そうか、間違いない、どうやら二人はかどわかされた様だ」と目黒は断言した。

「そんな、一体だれが」深沢は怒りながら周りを見回したが、はっと気がついた。

「まさか、あの時の侍か」と思い立った。

「何か見たのか」

「二人の後をつけているように見えた侍を見たのです。気のせいかと思ったんだけど、俺って馬鹿だな」と頭を抱える。

「侍か、最初からまつりの者だと知っていて後をつけたのだろう。目的は一体何か。時滑りに関する事だとしたら厄介だな」

周りを見渡しても人はまばらで、どっちに連れて行かれたかも判らない。

いつしか雨はみぞれに変わっていた。

 

とりあえず二人はまつりに戻ることにした。

目黒からの報告と考えを聞いた由佳と茉莉花は顔面蒼白になり、

由佳が「もしかしたらおふきちゃんは茉莉花と間違われて攫われたのかも知れない」と言うと茉莉花は泣き出してしまった。

自分がおふきちゃんに代わって貰ったせいで、おふきちゃんを危険な目に合わせてしまった、おつたさんに申し訳ない、と。

 

「とりあえず深沢さんは下屋敷に連絡してください。舘宮様は居られぬが変わりの誰かが来てくれるでしょう」と由佳は願った。

「判った」と深沢は飛び出して行った。

 

「しかし、一体誰がこんな事をしたのでしょう。時滑りの事を知りたいからでしょうか」

「まだそうとは決まっていません。他に目的があるのかも知れませんし」

「文太のお父さんにも知らせないと、病気で寝ているのに心配かけてしまうね」と茉莉花に言われ、

「それならばそれがしが伝えてまいります。その前に名主にも声をかけておきますので」

「私達はどうすればいいでしょうか」

「とりあえず深沢さんを待って、お屋敷の方の指示に従いましょう。それまでは心配でしょうが此処でお待ちください」

「わかりました。何も出来ないのはもどかしいですが、仕方ありません」

 

深沢は直ぐに下屋敷の人間を連れて帰って来た。吉澤と名乗る武士と啓太と言う中間の二人が来てくれた。

挨拶もそこそこに現状の説明をする。

「ともあれ相手の目的が判りかねますので、藩としても下手に動けません。思い当たる大名家にはそれとなく聞いてみることも出来ますが、様子を探るには時間がかかりすぎます。まずは、地元の者に頼んで、近隣の捜索をお願いしましょう」と決めた。

中間の啓太に指示を出し、番屋まで言付けて貰う。

 

目黒が名主を伴って帰ってきた。

「楠田さん、なんだか、大変な事になってしまいましたね」

「名主さん、申し訳ありません、文太まで巻き込まれてしまって、なんと言ってお詫びすればいいやら。それで文太のお父さんはどうしていますか」

「先ほど見てきたのですが、うつらうつらしていましてね、意識もはっきりしたりしなかったりの様子で、当然此処まで歩いては来れませんので、私が代わりに来た次第で」

「そうですか」そっちはそっちで心配だが、今は文太とおふきの事が優先だ。

啓太が戻って来て、土地の岡っ引きと火消しの者達が捜索に出てくれたことを告げた。何かあればまつりに報告してくれるそうだ。

「それでは私達も捜索に加わりましょう。手分けして探して、日が暮れる前に一旦店に集まり報告することにします」と吉澤が指示を出した。

「楠田さんはそれまで此処でお待ちください」

「いえ、私達も探すのを手伝わせてください」と茉莉花が吉澤に詰め寄ったが、

「女子はこういうときはおとなしく待つものです。それに大勢の人間が手伝ってくれていますので、出来れば炊き出しをして待っていてください」

「お嬢さん、お武家様の言うとおりです。私も年寄りで足手まといになるので、此処で炊き出しの手伝いをしますから、ね」

と名主に言われ茉莉花はしぶしぶうなずいた。

霙は何時しか牡丹雪混じりになり、空も暗くなって来た中、吉澤達は駆け出して行った。

 

 

文太は駕籠に入れられてもしばらくはじっとしていた。ここで下手に騒いでもかえって危険だと思い、駕籠に揺られながら何処に向かおうとしているのか探る事にした。どうやら今は坂道を登っているようだ。

痛む鳩尾をさすり、骨は折れていないようだと安心したが、まだ気がついていないおふきが気にかかる。

何とかして、駕籠の行き先を知らせる手立てはないだろうかと考えたが、おふきの持つ巾着に集金した小銭しか思いつかない。

小銭だと落としても誰かが拾ってしまって手がかりにはならないし、落としたときに音がすれば気づかれてしまう。

思案していると、おふきの袂辺りから鳥の羽が出ている事に気がついた。そっと引っ張ってみる。

白い中に黒とも茶とも言える柄が入った羽が縫い目の間から出てきた。縫い目を探るともっと出てきそうだ。

「こりゃ、茉莉花さんの上着から出ているのか、茉莉花さんの上着は鳥の羽を使っているのか」と流石は長崎帰りだと感心しながらも、駕籠のすだれの裾をそっと開き、羽を一枚落とした。

直ぐに見えなくなったが、羽は霙混じりの雨に打たれ、舞うことも無く道端に落ちたようだ。

文太は気づかれないように注意し時々羽を落としながら祈った。

「頼むから誰かこれに気がついてくれよな」

 

半刻ほど駕籠に揺られただろうか、途中橋を渡るような足音がした。川を渡ったのだろう。

ここはどの辺りだろうと文太が思った頃駕籠が止まった。

木の戸を叩く音がし、しばらくして戸が開き、その後門の閂が外される音と、軋みと共に門が開く音がした。

「こりゃなかなか大きなお屋敷だぜ」と文太は思ったが今はじっとしているしかない。

「よし、ここで下ろせ」と言われ駕籠が下ろされた。

 

「室井様ご苦労様にございます」菊太郎が出てきた。

「旦那様ももう直ぐ来られますので、娘を奥までお連れください」

「随分立派な屋敷だな」と室井は屋敷を見上げて行った。

「はい、こちらはさるお寺の持ち物ですが、旦那様に仲介される方の身分を想定して、それに見合った場所と思い借り受けました」と菊太郎は自慢げに説明した。

「なるほど、抜かりが無いな」と室井は頷き、籠のすだれを上げた。

 

「あ、室井様、小僧も一緒ではないですか、それに二人ともぐったりしていて、いったいどうしたんですか」菊太郎は思いがけず室井と政次を見た。

「抵抗したものでちょっとばっかし眠ってもらいやした。何、直ぐに気がつきまさぁ」と政次が説明する。

「そうですか」と気を取り直した菊太郎は籠屋に二人を奥まで運んでくれるように頼んだ。

「えぇ、あっしらの仕事は此処までですぜ、それ以上なら別料金を頂まさぁ」籠屋は足元を見るように菊太郎に交渉した。

「勘違いしないでいただきたい、ちょっとした手違いがあったようですが、これは拐あかしではありませんから。もちろん御代はきちんとお支払いいたしますよ」そういうと政次と二人で、文太を籠からだし、先に歩き出した。

籠屋は顔を見合わせたが、ここは言うとおりにしたほうが良さそうだと、二人がかりでおふきを奥まで運んだ。

料金を支払う時になって菊太郎が不意に、

「二人を乗せて運べるなんて大層な力持ちでいらっしゃいますが、お二人の何処の籠屋さんですか」と微笑みながら聞いた。

褒められた籠屋は、

「俺達は高輪辺りを流している金弥と剛吉で、二人で金剛籠だぜ」と芝居がかって答えた。

「おお、それは強そうなお名前で、どうりでお二人とも立派なお体です」そうおだてられ、

「おう、俺達は力自慢だからよ、今後も贔屓にしてくんな」と調子に乗った。

「是非そうさせていただきます。それはそうと、お二人とも今日の事はよそ様に他言しないでくださいまし、商いに関わる事ですので、他に漏れると大損ですからね」と口調は丁寧で優しいが有無も言わさぬ様な冷たい目で念を押した。

調子にのって愛想を振りまいていた金弥と剛吉だったが、菊太郎の様子と室井の顔を交互に見てただならぬ気配を感じたのか、

「じゃああっしらはこの辺で」と空の籠を担いでそそくさと出て行った。

 

 屋敷から暫く離れた辺りで、金弥が剛吉に問いかけた。

「おい、剛吉よ、見たかい、あのお店者の目を」

「ああ、あいつは抜け目のない奴だぜ、侍の方も只者じゃねぇ」

「あいつらあの娘と小僧をどうするつもりなんだろうか」

「大方吉原か品川に売り飛ばそうって魂胆じゃねぇか」

「なんだって、拐わかしじゃねぇって言っていたじゃねぇか、どうすんだい、もし岡っ引きにでも知れたら俺たちだってただじゃ済まされねぇ。こいつは早い所番屋に知らせたほうが良くねぇか」

「ばかやろう、そんな事したらそれこそ手が後ろに回っちまう。それに本当に拐わかしかどうかわからねぇ、とりあえずこの事は二人の秘密にしておこうぜ」

「本当に大丈夫だろうね」金弥は不安そうに後ろを振り返ったが、雪交じりの夕闇は見通しが悪く、さっきの屋敷も見つけられなかった。

 

 その頃、別の籠が屋敷に着き、門前で籠を降りたのは雛屋の主人だった。

おとないを入れると菊太郎が顔を出した。

「これは旦那様、寒いなかご苦労様にございます」と傘を差し出した。

「先方はんはもうお見えでっか」

「はいそれが、仲介された方は急な御用でお帰りになりまして」と菊太郎は嘘をついた。

「なんやて、ほなら今日は無駄足やないか、こない寒い日にわざわざ来たっちゅうに」と雛屋は菊太郎に詰め寄った。

「でも、旦那様、娘さんは奥の部屋でお待ちでございます」と慌てて付け加えた。

「なんや、それを先に言いぃな、ほならお会いしましょ」と玄関を上がった。

「旦那様、それで仲介料の方ですが、お屋敷まで届ける様にとお供の方を残していかれましたので、お渡ししたいのですが」と雛屋の草履をそろえながら手をついて告げた。

「ああ、そやな。ところで、仲介された方はどなたですの、怪しいお人じゃ無いやろな」と振り返って聞いた。

「旦那様それは先方様より口止めされておりまして、昔の奉公先でお世話になった方とだけしかお答えできません。でも間違いの無い方でございます」と菊太郎は笑顔を見せた。

「ふん」と雛屋はちょっと怪訝そうな顔をしたが、

「政次さん、こちらへ」と菊太郎が外に声を掛けると、いかにも小者風の男が「ごめんなすって」と入ってきたを見て、「ははぁん」と思った。

 

 きっと仲介者は奉行所の同心に違いない、町回りの同心は岡っ引きと言われる手下以外に、政次とやらの様な得体の知れない小者を抱えていて町の情報を集めたりしていると聞いている。しかしながら給金は奉行所から出る三十俵二人扶持で、探索などに掛かる費用は自腹だそうだ。

そこで、持ち回りの商家から袖の下を貰ったりして虎口をしのいでいるらしい。

菊太郎は以前に深川の方のお店に勤めていたと聞いているので、そのときに知り合ったのだろう。同心であればこのような屋敷を借りることも造作ないだろうし、話があると呼び出しても疑われることも無く来て貰えるだろう。又、急な用事と言うのも、身分を明かしたくないというのも頷ける。

江戸で人を雇い入れるときに全員の素性は調べてあった。菊太郎は以前の店で内儀と密通したとの事で暇を出されている。なるほど見た目は良く、店でも若い客に人気だ。押し出しも強く優しげな目の奥には野望も秘めている、そんな人間は嫌いでは無かった。雛屋はいずれは大番頭になり替わる人物だと踏んでいる。此度の事が上手くいけば出世も考えてやっていいだろう。

はそこまで考えついて、仲介を頼んだ菊太郎の如才なさに感心した。

「政次さんとやら、そなたさんの旦那様にあんじょう伝えておくれなされ」と自らの手で袱紗を渡した。

菊太郎からお供の者になりきるように言われていた政次は

「へぇ、確かにお預かりいたしやした」と恭しく袱紗を受け取り、

「それでは失礼いたしやす」と頭を下げて出て行った。

 

「ほな案内しておくれ」と自分の考えに気を良くした雛屋が菊太郎を急かした。

 

 

「すっかり雪になったよ、おふきちゃん達大丈夫かな」茉莉花は心配そうに何度も表に出てはため息と共に中へ戻ると言うことを繰り返していた。

「親分さん達が探してくれているから大丈夫、きっと見つかるよ」そんな根拠は何処にも無いが、今はそう自分にも言い聞かせるしかない。

「そうですよ、お嬢さんきっと大丈夫ですから」と名主も慰めてくれた。

 

「お邪魔しますよ」

「これは親分さん、ご苦労様でございます。こちらが楠田さんです。楠田さん、この界隈で十手を預かってらっしゃる銀次親分ですよ」と名主が紹介してくれた。

「この度はありがとうございます。楠田です」と挨拶すると、

「ありゃ、あんた達は確か、先だって船着場で子どもを助けなさったお方じゃないですか」と驚いた。

「そうです、そうです、それで今回いなくなったのがその時の子どもとこの店の手伝いの娘でして」と文太を助けた後のいきさつを名主が説明してくれた。

 

「そうだったんですかい、今若いものにも手伝わせて八方探しておりますので、おっつけこちらに報告に来るとおもいやす」

「お手数をおかけします」と頭を下げ、お茶を勧めた。

 

「ごめんなすって」と若い下っぴきと思われる男が二人入ってきた。銀次の顔と私の顔を交互に見て、申し訳なさそうに

「あっしは品川のほうまで行ってきたんですが、この天気なもんで、表に出ている者も少なく、で何かを見たって奴は居ませんでして」

「あっしの方は中目黒村まで行ったんですが同じ様な按配で」と報告に来た。

「そうけぇ、ご苦労だったな。すまねぇが一休みしたら又行ってくんな」と銀次はすぐにでも二人を行かせるつもりのようだったが、由佳は搜索には体力がいると思い、

「どうぞ、こんな物しかありませんが食べてください」と天ぷらうどんを勧めた。

「へい、それじゃ遠慮なくいただきます」と二人は椅子に座り熱々のうどんをすすった。

そのうち吉澤と目黒も帰って来た。お互いの結果を報告しあったがいずれも芳しくない。

 

今後の捜索方針を考えなければと思案しているとき、相変わらず中と外をうろうろしていた茉莉花が、

「ねぇ、お母さんこれ見て」と何かを手につまんで入って来た。

「何ただの羽じゃない。それがどうしたの」

「だってこの羽、表にあったんだよ、変じゃない」と見せた。

「どっかから飛んで来たんじゃない別に変じゃないよ」と言ったが茉莉花

「こんな天気の日に飛んで来ないよ。鳥も飛んでないよ。これきっとダウンの羽だよ」と言う。

「えぇ、まさか」

「もしかしたら誰かの足についてきたのかも」と皆が座っているところにしゃがみこんで、

「履物の裏を見せてください」と草履や草鞋を奪うようにして見て回った。

「あった」と銀次の下っぴきの一人の草鞋から羽をつまんで、

「ほらこれ、きっとそうだよ」

「どういうことですかぃ」と困惑顔のみんなにとりあえず興奮している茉莉花の代わりに由佳が説明する。

茉莉花と私の上着は長崎で求めた南蛮製の鳥の羽を綿の変わりに入れた上着であること。

今日はおふきが茉莉花上着を借りて着ていったのだが、たまに縫い目やほころびから羽が出ることがあること。

「だから、それに気づいた二人が目印の変わりに落としたかもしれない。だから羽を捜せば二人の居所がわかるかも知れないって事だよ」と茉莉花は言う。

「なるほど。それはありえるかも知れませんね」と説明を聞いた吉澤も同意する。

「おい、おめぇ中目黒村って言っていたな」

「へぇ祐天寺手前まで行ってきやした」

「藁にもすがりたい思いだ。羽を捜しながらもう一度行ってみましょう、雪に埋もれてしまったら困難ですから」と目黒の声で皆駆け出して行った。

 

茉莉花は急いで二階に上がり、由佳の上着を手に取ると、

「私も行ってくる」と駆け出した。

「足手まといになるからやめなさい」

「そうですよ、お嬢さんまで危険な目にあうかも知れません」と由佳と名主二人掛かりでと止めようとしたが、

「待ってるだけなんて無理」と二人を振り切って、あっという間に飛び出して行った。

 

 

皆で道幅いっぱいに広がり、高野寺から中目黒方面に目を凝らしながらくまなく見て歩いた。

しばらく行くと、「親分、ありましたぜ」と下っぴきが声をあげた。

駆け寄って見てみると確かにさっきの羽と同じ様だ。

「よし、松おめぇはこの辺りで聞き込みをして来い」と下っぴきに指示をした。

程なく戻ってきた下っぴきは

「娘と子どもは見ていないが、侍と男を従えた駕籠が目黒川の方に向かったそうです」と聞き込んできた来た。

「きっとそれにちげぇねぇ。目黒川に向かってよく探すんだ」と皆で横一列になって探した。すると橋の手前までに数枚の羽を見つけることが出来た。

「こっちに向かったのは間違い無い。しかし何処まで連れて行かれたかだが」

そう目黒が思案したとき、下っぴきが、駕籠かきを伴ってやってきた。

二人は懐が暖かくなったのと、後味が悪かったのを払拭するために、塒に帰る前に一杯やって温まろうということで、白金の酒屋で飲んでいた所に、表に籠があるのを不振に思って飛び込んできた下っぴきに問いただされて、せっかくの酔いも醒めたように大きい体を小さくして所在なさげに立っていた。

「親分、どうやらこいつ等が娘と子どもを乗せたらしく、連れてきやした。ほらさっさと説明しねぇか」と小突かれて、

「いや、拐わかしじゃねぇって言われたんですがね」と説明した。

 

「お前ぇ等それでのうのうと飲んでいやがったのか」と銀次親分にどやされ、駕籠かきは

「へぇ、すんません」と首をすくめた。

「それじゃぁ、屋敷まで案内してもらおうか、万が一の時はお前等もただじゃ済まされないぜ」

と脅され駕籠かきは慌てて先頭に立ち案内した。

 

「こちらのお屋敷です、へぃ」と駕籠屋に案内されて一行は門の前に立った。

軒下に例の羽が落ちていた。それを拾いながら

「間違いないようだな」と目黒がうなずく。

「ここは誰の屋敷でぇ」と銀次親分が小声で駕籠屋をねめつけたが、駕籠屋は案内されただけで分からないと言った。

裏手に回って様子を見てきた下っぴきが

「裏から入れる場所があります」と報告すると

「ここは二手に分かれて入りやしょう」と銀次の提案で、段取りを話し合っているとき、

「あー、やっと追いついた」と茉莉花が現れた。

「ありゃ、なんでお嬢さんまで来ちまったんだ。お嬢さんの出る幕はねぇよ」と銀次に怖い顔で詰め寄られたが、

「だって心配だったんだもん、じっとなんてしてられないよ」と負けじと睨む。

「まあまあ、来てしまったものは仕様が無い。茉莉花どの、邪魔にならぬ様に私の後方に控えて下さい」と目黒が助け舟を出し、

「全く、なんて跳ねっ返りだ」と親分は愚痴ったがそれ以上は何も言わなかった。

二手に別れ、屋敷に入り込む。茉莉花は目黒と一緒に裏木戸に回った。

 

文太とおふきは奥の座敷に連れて行かれた。いつも間にか辺りは暗くなったようだ。

部屋には行灯も無く、外の光も余り入らない為部屋の様子は分からないが、他に誰かが居る様子は無い。

文太は耳を澄まし、そばに誰も居ないことを確認して体を起こした。傍らにはおふきがぐったり横たわっている。

「おふきちゃん、おふきちゃん、おきておくれよ」と揺すったり頬を軽く叩いたりして起こそうとした。

やっとこ目を覚まし、

「ここはどこ、私達確かかどわかされてしまったの」と慌てるおふきに、文太がこれまで判った事を説明した。

「雛屋って確か文左衛門さんのお知り合いの錦屋さんの商売敵じゃなかった」

「そうなのかいとにかく、かどわかしでは無いって言っていたけど油断しちゃだめだぜ」

「わかった。それにしても文太あんた偉いね、良く気を失わなかったよ。あんたが居れば心強いよ」とおふきに言われ文太は照れて頭を掻いた。

 

廊下を誰かがやってきて障子を開けた。

「これはこれは、今日はわざわざ遠くまで、えろうすみませんでした」と愛想の良い顔で雛屋が入って来た。

「一体おいら達に何の用だぃ、こんな真似してただじゃ済まされねぇぞ」と文太が食って掛かったが、

「何を怒ってはるのやら、ちょっとお聞きしたい事があるだけですねん。それに用があるのはお嬢さんだけですから小僧さんはちょっと黙っといておくれ」と流した、その時、菊太郎が室井を部屋に招き入れ、室井は静かに部屋の隅に座った。雛屋は一瞬ぎょっとし、菊太郎に訝しげな視線を投げたが、菊太郎は落ち着き払ったままだったので、気を取り直し話しをし始めた。

 

「私は雛屋と申しまして、芝で小間物屋を商っております。上方からの下り物を取り扱ってましてね、そりゃあ評判も良く、商いは順調でしたのや。そやけど、近々隣に同じような小間物屋が開店するのですわ。いえね、それ自体は悪い事ではありません、難儀な事ですが、商売とはそういう事もありますさかい。あかんのは、その店の主が開店前の挨拶で、近隣の店や仕入れの問屋に持って行った挨拶の品なんですわ」

と懐から手ぬぐいに包んだ物を見せた。それは茉莉花と由佳が提案し作り方を教えた根付だった。あの時作ったものに千代紙を貼って、更に漆で艶を出し、とても素敵に出来上がっていた。

 

「あんさん、これ知ってはりますやろ」と聞かれおふきは首を縦に振る。

「これは開店の振る舞いで買うてもろうたお客に配る物らしいのですわ」雛屋は根付を手に取り、

「わてはこれを見たとき、こりゃああかん、こんな粋な物だされたらお客さんは皆取られてしまう。うちの店も何や手を打たなあかん。とあれこれ考えましたんや。そう思案しとった時にこの根付はあんた等が教えはったと小耳に挟みまして、あんたらの事ちょっと調べさせて貰いましたのや」と抜け目のない目でおふきを見た。

「なんでもあんたらは手妻の様に溺れた子どもを生き返らせたって聞きましたんやけど」

「あの、それは」と言い掛けたおふきを抑えて、菊太郎が、

「旦那様、先日お話しました、浜で命を助けられた子どものことですが、その小僧さんがそのときの子どもだそうです」と口を出した。

「おお、そうでしたか、なんや小僧さんも一緒かいなと思いましたがそう言ったわけでしたんか」と文太を見てにやりとした。

「な、なんでぇそれがどうしったって言うんだい」と文太の問いに、

「私はねぇ、菊太郎からの報告を聞いて、思い当たったんですねん。これを教えはったお人はもしかしたら時渡りかも知れへんと」根付を持ち上げて二人をじろりと見た。

時渡りときいておふきは息を呑んだ。以前茉莉花達のような者達を時滑りとも時渡りとも言うと聞いていたからだ。

「あんさん、時渡りでっしゃろ」と雛屋に決め付けられ、おふきは

「違います。私は時滑りではありません」と思わず言ってしまった。

それを聞いた雛屋は

「そうですか、そちらはん達は時滑りゆうてますのんか」とにやにやした。

「なんでぇ、さっきから時渡りとか時滑りとか何とか、何だかしらねぇが、まつりの店の人は長崎帰りで川越藩にかかわりがある人たちなんだぜ、こんな事したら藩がだまっちゃいねぇよ」と文太が食って掛かったが

「そうそれですねん、医者でも武士でも無いもの達に長崎帰りだからと言ってお大名家がかかわるのはちとおかしおまへんか。それに店で売っている食べ物も変わってますやろ、あんさんを助けた時も奇妙な方法やったそうやないか」

「そんなこたぁ知らねぇよ。長崎で異人に教わったと聞いたぜ」

「そうですか、そういう事ならそれでよろしいでっしゃろ。あんたらが時滑りなのは黙ってますさかい。その代わりと言ってはなんですが、わてにもなんや知恵を授けて欲しい思いますのや」

「それなら店に来て聞けばいいじゃ無いですか、わざわざこんな事して」

「そうだよ、それにさっきからきいてりゃ、あんた勘違いしているぜ、長崎帰りなのは女将さんと茉莉花さんで、このおふきちゃんは長崎帰りじゃねぇよ。あんたら人違いしたんじゃねぇのかい」と文太がまくし立てた。

それを聞いた雛屋は驚いて、

「えぇ、あんさんは店の娘と違いますの菊太郎どういうことですの」と慌てた。

言われて菊太郎は慌てて行灯に火をともした。そしておふきの顔を見るなり「あっ」と声を上げた。

「あんたは店の手伝いの娘じゃないか、室井さんどういうことですか」と今度は菊太郎が室井に詰め寄った。

「拙者は政次が示した娘を連れて来ただけだ」と室井は穿き捨てた。

「政次さん、政次さん」と菊太郎は障子を開け庭に向かって叫んだ。

「へぇ、なんでしょ」と政次がもみ手をしながら出てきた。

「あんた娘を間違っていますよ、私がお願いしたのはこの娘ではありません」

「えぇ、そんな馬鹿な、いつもそのカルサンを穿いて、その上っ張りを着て二人連れで出歩いているじゃねぇか」と指差しながら叫んだ。

「私は店で働かせてもらっているものです。今日は天気が悪かったから袴と上着を借りたんです」とおふきに言われ、

「しまったぁ、俺ぁてっきりこの娘だと。傘もさしていたんで間違えたか」と政次は頭を抱えた。

「政次さん、あんさんはなぜ今此処におるねんな、あんさんは仲介料を届けにいかれたんと違いますのん、菊太郎、どういうことです、このお人達は誰ですの」と帰ったはずの政次が現れて混乱した雛屋は菊太郎に捲し立てた。

「旦那様、申し訳ありません、仲介者の方が間違えたのだと思います」とこの期に及んでも嘘を吐き通そうとした。

「菊太郎、ほんまに仲介者の紹介ですのんか、無理やり連れて来たんじゃないでしょうな、それにさっきの問いに答えていませんよ、このお人達は誰ですの」と疑いの目で声を荒げた。

「ちっ、こうなったら洗いざらい吐いちまいなよ菊太郎さんよ」と政次が座敷に上がり片膝をつき腕を捲り上げた。

「政次さん、もとはと言えばあなたが娘を間違えたのが元です」と落ち着き払った菊太郎は政次を制し、「こうなったら旦那様に申し上げます。仲介者はこのお二人で、仲介料はお二人に払っていただきました。お二人に娘を連れて来てもらったのですが、人違いだったようです」と頭を下げた。

「そんな人違いで済む事ですの、まさか政次さんとやら、無理やり連れてきたんじゃ無いでしょうな」と雛屋は更に慌てた。

「ちょいと抵抗したんで眠って貰いましたがね、なぁに、心配には及びませんや、娘は岡場所にでも売り飛ばして、小僧は簀巻きにして品川の海にでも流せば済みまさぁ」

「あんさん、それじゃ人殺しやないか」とさすがの雛屋も慄いた。

「おまえら何言ってるんだ、このままじゃ済まされねぇぞ」と文太が政次に掴みかかろうとしたが、政次に振り払われ、床の間で頭を打ち、「いってぇ」とつぶやいたきり文太は意識が遠のいてしまった。

「大丈夫、文太」おふきは文太に擦り寄り、

「乱暴な事はしないでください」と政次を睨み返した。政次は「ふん」と鼻で笑うと、懐から匕首をだした。

「おい、お前ら静かにしてねぇか、うるせぇとこの場で始末するぜ」と匕首を翳しながら二人を脅した。

行灯の光でぬめぬめと光る匕首を見せ付けながら、

「どうします旦那さん、いっそのこと二人ともここで始末しますかい」と物騒な事を言い出した。

「そんな私の目の前で人殺しなんか辞めてぇな。寝覚めが悪いですがな」と雛屋は冗談を言っているようには見えない政次の顔を見ながら、なんとか恐怖を押し殺し冗談めかして言った。

「だってねぇこのまま返したんじゃ俺達も旦那さんも手が後ろに回っちまうぜ、それよりいっそのこと始末してしまったほうが手っ取り早いってもんだ、俺達はその脚で江戸を離れるつもりだし、あんた達の事は金輪際関わりなしって事でどうだい」

そういわれて雛屋も思案した。確かにこのまま返して番屋に駆け込まれたら困るのは雛屋だ。

雛屋は困惑して菊太郎を見た。菊太郎はあくまでも落ち着き払っている。

こんな状況でも落ち着いている菊太郎を見て、雛屋は背筋が寒くなった。どうやら菊太郎に一杯食わされた様だ。

「菊太郎、お前は最初からそのつもりやったんかいな」と震える声で問いただすと、菊太郎は慌てた様な口ぶりで、

「滅相もございません旦那様、私は旦那様の為を思いまして娘を連れてきて貰っただけです。方法については少々荒っぽいことになっても仕方ないとは言いましたが、二人を始末するなど恐ろしい事はこれっぽちも考えておりませんでした。しかし、このままですと政次さんの言う通り少々まずい事になりそうです。旦那様とお店の事を思えば、政次さんの申し出も致し方ないかと存じます」と嘯いた。

実際菊太郎は娘と旦那様が話をした後の事は考えて無かった。

あくまでも商談として話すだけで、取引の始まりにすぎないと思っていた。

それなのにまさか人違いが起こるとは、政次達を雇った事も、籠から出すときによく顔を見なかったのは菊太郎の失敗だった。

(いや、今更悔やんでも仕方ない。ここは一つ政次の提案に乗った方が良いのでは、それとも他に何かあるだろうか、このままでは番頭はおろか店を馘になるかもしれない。そうなったら政次達に払った二十両がまったくの無駄になってしまう)

菊太郎は旦那様に頭を下げながら大急ぎで考えをまとめようとしていた。

 

「それはそうと、先ほど言っていた時渡りとはなんだ」と不意に室井が口を開いた。

「それは」と雛屋は躊躇したが、ここまで来れば仕方ないと思い、掻い摘んで説明した。

「なるほど、それで合点がいった。あの親子の手妻の様な人助けはそういうことだったのか。そうと知ったからには益々このまま返したのではまずいな。人違いとは言え、重要な人物に手を出そうとしたからには、それ相当のお咎めがあるだろう。藩から捻じ込まれれば奉行所もほおって置けないだろうな。良くて財産没収の上江戸払い、悪けりゃ遠島も考えられる。いや、口封じのために秘密裏に命を取られるかもしれんな」そう室井が言うと雛屋は益々怖くなった様で、

「そんな、菊太郎、それもこれもお前のせいですがな、どうしてくれるんや」と怒鳴った。

「ですからねぇ旦那さん、このままあっし等に任せてくださいな。それしか手立ては無ぇと思いますぜ」と政次に言われ、雛屋は菊太郎を振り返った。

菊太郎はわずかに頷き、

「旦那様、旦那様はもうお引取りになったほうがよろしいかと、後はお任せください」と促した。雛屋もそれしか方法がないと思い、

「そ、そうやな、この後のことについては私は一切関係あらしません。後はあんじょう頼むさかい、くれぐれもお店に迷惑のかからんようにしてや」と言って座敷を出て行った。

それを見送り振り返った菊太郎はさっきまでとは違って、能面の様な冷たい顔をしておふきと文太を見た。

「さて、そういう訳で、このまま帰す訳には行かなくなったんでね、二人には悪いが成仏してくださいよ、恨むなら二人が働いている店の親子に言うんだな」と冷たく言い放った。

やっと意識がはっきりしてきた文太は、痛む頭をさすりながら、体を起こし、

「何勝手な事を言ってやがるんだ、女将さんと茉莉花さんは関係ねぇ、何だか良く分からねぇが二人を使って金儲けしようって思ったおめぇらが一等悪いんじゃねぇか、それを人違いだからっておいら達を殺そうと思うなんて、お天道様が許さねぇよ」

「お天道様ねぇ、生憎、もう夜でお天道様も見ちゃいねぇよ、あきらめな」そう言って政次が匕首で文太の頬をひたひたと叩いた。

「なぁ、菊太郎さんよ、娘は生かしといていいんだよな。後でゆっくり味見して、それから品川にでも売り払っちまえばいいだろ」と政次は嫌らしい目でおふきをじろじろ見た。

「政次さん、欲をかいてはいけませんな。何処で足がつくか分かりませんから女郎宿に売るのはおやめなさい。ただし、ちゃんと後始末してくれるのでしたら好きにしてもかまいませんがね」

「へへ、そう来なくっちゃ、じゃぁ、ゆっくり楽しんだ後でちゃんと始末しまさぁ。その前に餓鬼はさっさと始末しておかねぇとな、餓鬼はうるさくてかなわねぇ」

そういって、文太の胸倉を掴んだとき、「ちょっと待て」と室井が政次を止めた。そして外を窺うように耳をそばだてて、おもむろに長差しを手に立ち上がり、勢い良く障子を開け放つと表に飛び出し、すぐさま抜刀した。

廊下で様子を伺って、文太の危機を知り、今にも飛び込もうと思っていた目黒も障子が開けられるとともに飛び下がり、腰を落として柄に手をかけた。

縁側の下で小物と様子を伺っていた茉莉花はおふきが居ることを確認し、飛び出して行きそうになったが、

「今は動いちゃなんねぇ」と小物に頭を抑えられた。目黒は静かに抜刀しながら、

「二人を放しなさい、そして大人しく縛につけ」と視線は室井から離さずに政次に向かって叫んだ。

「ちっ、助っ人がきやがったか、こうなったらやけだ、室井の旦那、頼みます。こっちはあっしが」と言うとおふきの首に匕首を突きつけたまま縁側を降りてきた。

「おふきちゃん」と文太が政次に飛び掛ろうとしたが、菊太郎に捕まってしまった。

「ちきしょう、はなしやがれ」と暴れたが、

「静かにしてな」とみぞおちを打たれ、ぐったりしてしまった。

「おふきちゃん、文太」と今にも飛び出しそうな茉莉花を小者が押さえつけ、

「今出て行ったら目黒さんの邪魔になりやす、辛抱しておくんなせい」と諭された。

 

目黒と室井は向き合ったまま沈黙していた。お互い相手の出方を探っているようだ。

「そのほうの流派を聞いておこう」と室井が先に口を開いた。

心形刀流、目黒連太郎、そこもとは」

神道無念流、室井 龍次郎。そのほうなかなの使い手だな、修羅場をくぐったか」

室井の問いに目黒は無言で答えた。修羅場と言えば修羅場だが、今は説明する気も無い。

いつも間にか粉雪になって、二人の肩にうっすら積もって来た。

「そのほうが来ぬならこちらから参る」そういうと室井はゆっくり八双に構えた。

「私はできることなら戦いたくないのですが」そう目黒は落ち着いた声で室井の目を見たが、

「笑止、そのほう臆したか、武士の風上にも置けぬ。どうせ形ばかりの畳剣法であろう、我が刀の露にしてくれるわ」

室井は血に飢えた獣の様な目で目黒を見据えた。

「やむを得ません」と目黒も正眼の構えを取った。

二手に分かれた吉澤達も雛屋を捕まえて、駆けつけたが、二人の対決に息を飲み見守るしかない。

 

最初に動いたのは室井だった。八双から上段に移しながら気合と共に踏み込み、長身を生かした鋭い袈裟斬りを下ろす。

目黒はすんでの所でそれを受け止め、押したかと思うとふわりと引き、室井の刀を巻き取りながら右に抜けると抜きざまに室井の左腕を払った。

「おのれ」と室井はすぐさま下段から斬り上げてきたが、左腕を切られているため、片手にならざるを得ない。

目黒は正眼のままそれを受け止め、一瞬のうちに刀を返し、そのまま胴を払った。

室井は驚きに目を見張りながらどさり、と倒れこんだ。暫く痙攣していたが、間もなく動かなくなった。

「室井の旦那」室井が倒された事に動揺した一瞬の隙に、背後に迫っていた銀次親分の十手が政次の後頭部をしたたかに打ち、政次は力なく匕首を振り回したが、足からくねくねと倒れこんだ。

吉澤が咄嗟におふきを抱きとめ、庭の隅に避難した。

「ちきしょう、ここまでか」と菊太郎は文太を投げ出し、逃げ出そうとしたが、銀次親分の手下にあっという間に縛り上げられた。

 

茉莉花は初めて見た斬り合いに膝がガクガクと震えたが、気を取り直して文太に駆け寄った。

「文太、文太、しっかりして」と頬をぺたぺたと叩き、文太を起こした。

「あぁ茉莉花さん、おふきちゃんは」

「大丈夫だよ、悪い奴らも捕まったし、もう大丈夫だよ」

「良かった」

「文太」とおふきも駆け寄り、

「立てる、どっか怪我していない」と茉莉花は文太の体を触って怪我が無いか確かめた。

「おいらは平気だい」

 

銀次親分たちは雛屋と菊太郎、政次を縛り上げ連れ出そうとしていた。

「私は関係ありませんがな、全部この菊太郎がやった事ですねん」と雛屋はしきりに訴えていたが、、

「うるせい、言い訳は番屋で聞くから大人しくしやがれ」と強引に引っ立てられて行った。

 

「文太とやらお手柄だったぞ、おかげでこの場所に早くにたどり着けることが出来た」と吉澤に言われ、

「へへっ」と頭を掻いた。

「しかし、先生、すげぇ腕前だったよ、おいら見直しちまった」

「本当、駄目かと思った」と口々に文太と茉莉花に褒められ、目黒は困ったが

「目黒様、本当にありがとうございました」とおふきから丁寧に礼を言われ、

「運が良かっただけです」とやっと安堵の表情を浮かべた。

 

「さぁ、もう帰らないと由佳さんが心配しているし、雪も大分積もってきたからさ」と深沢に言われ皆は祐天寺の屋敷を後にした。

 

先に戻った中間の啓太の報告で、すでに店には無事に救出された連絡が入っていた。

店を暖かくして迎えた由佳は改めて目黒達に礼をいい、用意していた食事と酒を振舞い、

これから取り調べをするという銀次親分と下っぴきのために番屋には差し入れをした。

 

「深沢さんにはお店を休ませてしまったね。ごめんなさい」と謝る由佳に、

「たまにはいいよ、それに今日はこんな天気だから開けたとしても大して忙しくはならなかっただろうし、ここで茉莉花ちゃんのお酌で飲むものいいもんだよぉ」と杯を空け茉莉花に差し出したが、

「一番働いたのは目黒さんだから深沢さんは手酌で飲んで」とあしらわれ、そんなぁと情けない声を出す深沢に一同大笑いした。

文太を名主に送ってもらい、そろそろお開きにしようかと言うとき、おふきが吉澤に

「気になることがあります」と呼び止めた。

おふきの話しでは雛屋は「時渡り」と言っていたが、時滑りの事を知っているようだと。

吉澤は「やはりそうでしたか、この件は若様にご報告しておきます。場合によってはおふき殿に呼び出しがあるかもしれませんので、その時はよろしくお願いいたします」と言って帰っていった。

 

夜のうちに雪はやみ、次の日は朝から快晴だった。

いつもの時間に文太もやって来ていつもどおりの一日が始まろうとしていた。

「みんな夕べはお疲れ様でした、今日はお天気もいいし、忙しくなると思うから気分も新たに頑張ってくださいね」と由佳も声を掛け気を引き締めた。

「おふきちゃん、これ修繕してくんねぇか」と文太がちぎれたお守りを差し出した。

「すっかり汚れちゃったね、大事なものなんでしょ洗って紐も新しくしてあげるよ」

「うん、死んだおっ母がくれたんだ。中にはお不動さんのお札が入ってるんだぜ。困った時はお不動様に頼むようにって言われたんだ。だからこの間もおいら咄嗟にこいつにお願いしたんだ」

「そうだったの、おっかさんとお不動様のおかげで、助けてもらったね」

と押し抱く様に拝み、中のおふだを取り出した。木のお札はすっかり薄くなっているが不動明王の文字がかろうじて読めた。裏には黄梅院とある。

「あら、お不動様だと言うから目黒かと思ったら違うのね」とおふきに言われ、

「そうなのけ、おいらもてっきり目黒のお不動様の事だと思ってたよ」とお札を受け取り、

裏を見てみた。最近は大分字を覚えた文太とおふきだが霞んでよく見えない。

茉莉花、これ読んでくれよ」と茉莉花に渡そうとしたとき、文太の手が滑って土間に落としてしまった。

「おっと」と慌てて拾い上げると、お札は二枚に別れ、そこから一分金が出てきた。

「お札の中に金が入ってたよ」と驚く文太にお札を見せてもらった茉莉花は、二枚の板を細工して一分金が隠せるようになっているのを確かめると、

「きっとおっ母さんがお金に困った時用に隠しておいたんだね。黄梅院って銭洗い不動だから、きっと文太がお金に困らない様に願掛けしてあるんだよ」と話した。

「おっかあ」おっ母さんの事を思い出したのか、暫くお守りと一分金を見ていた文太だったが、

「女将さん、これ預っておくれ、おいらこんなの首にぶら下げていたらオチオチお使いもできねぇから」と由佳に一分金を渡し、お札をお守り袋の中に戻しおふきに渡した。

「判った。確かに預かったから、必要になった時は言ってね」と由佳は一分金を預った。

 

 

マツリカの時ー8

秋も深くなり、師走に向けてなんとなく店も気持ちも慌ただしくなり、それでもなんとか平穏無事な日々を過ごしていたある日、

深沢が酉の市に行こうと誘いに来た。

今日は目黒の大鳥神社で酉の市が開かれると言う。酉の市に行って、ついでに村上のお店まで足を伸ばし、冷やかしに行くと言う。

午後からでも充分間に合うし、酉の市で熊手を買い、商売繁盛を祈願するというののだ。深沢は去年買った熊手を奉納する為に持って来ていた。

おつたの件もあるし、縁起物だからと熊手を求めに行くことにした。

おふきも誘ったが、店番すると言って遠慮したので、茉莉花だけ連れて行くことにした。

最近は準備さえしておけば、おふき一人でも店を取り回すことが出来るようになり、頼もしい限りだ。

あれからすぐにおつたに手紙を書き送った。おふきは江戸に来ると言う返事を早飛脚を使い直ぐに寄越した。

おつたが来るのは師走に入ってからになるが、その前にお店の工事も入るし、これから益々頑張らなくてはならない。

 

 ぶらぶら歩いて半刻ほどで着いた。最近はどこに行くのもほとんどが徒歩なので、このくらいなら難なく歩くことが出来るようになった。

茉莉花も意外と近かったね、と前までは絶対に言わなかったであろう事を言っているくらいだ。

神社は大盛況だった。三の酉まである年は火事が多いと聞くが、今年は二の酉までらしい、それでも多くの人が参拝に来ていた。

以前、府中にある大国玉神社の酉の市に行った事を思い出したのか、

「今の方が盛大だね、きっと今の人の方が信心深いんだね」と茉莉花も感想を漏らした。

確かにそうかもしれない、いつから日本人は信心を失くしたんだろう、そう思いながら混み合いながら手水を済ませ、お参りした。

 

 さて、どこで熊手を買おうとキョロキョロしたが、深沢は去年買った店にして、大きくしていくのは通例だからとすっかり江戸人の様な説明をし、その店を目指すというので、ついて行くことにした。

どうせどこで買っても同じだからと私たちもそこで買うことにする。サイズも色々あったが、最初の年だからと小さい物にした。深沢は去年より大きいのを一応値切って買う。値切ってもご祝儀として元の値段を払うのが粋なんだとこれまたすっかり江戸人だ。

「さぁさぁ、それでは深沢様の海風が益々繁盛することを願いまして、皆々様のお手を拝借いたします。それでは、よぉー」シャンシャンシャン、シャンシャンシャン、シャンシャンシャンシャンシャンと三三七拍子の盛大な締めをそれぞれ受けて大鳥神社を後にした。

ここから村上の店まですぐらしいので、甘酒を飲んで休憩したあと目黒不動を目指す。

「あー恥ずかしかった。かなり芝居がかっていたね」と茉莉花は笑いが止まらないようだった。

由佳も周りの客までも一緒になって手拍子するとは思わなかったので、かなり恥ずかしかったが、商売人にとって景気づけは大事なことだから、周りにお礼を言いながら頭を下げた。

「いい経験になったね。なかなか立派な女将さんでしたよ」と深沢は笑った。

 

 「ごめん」と店に入って来た客に「いらっしゃいまし」とおふきが出迎える。

「あら、目黒様」席を勧めながら

「あいにく女将さんと茉莉花さんは酉の市に出掛けてらして留守ですよ」

「いや何、先日食べた品を売り出したと聞いたもので、様子を見に来たのだ」

イカシュウマイですね。ご用意できますよ。食べて行かれますか」

「良いのかまだ中で食べるようにはしておらぬだろうに」

「目黒様なら良いと思いますよ。少々お待ちください。直ぐにご用意出来ますので」とおふきはいそいそと準備を始めた。

目黒は周りを見回しながら、

「どういう風に改装する予定になっておるのだ」と聞いた。

「ここは元々うどんやさんだったので殆ど手を入れずに入ったんです。でもお客様に若い娘さんが多いので、机を小ぶりな物に変えて、二人がけを増やすそうです」

「そうかそれは名案ですね」

お待たせしましたとシュウマイの皿を持って来たおふきに目黒は聞いてみた。

「先日の会でそなたも聞いておっただろうが、もしかしたら楠田様も帰ることがあるかも知れぬ。そうなったらこの店はどうなるのだ」

「はい、女将さんもそれを心配してくださって、この店は藩がご用意してくださった店なのですが、開店にかかった費用を工面して藩から買い取る準備をしてくれています。それに実はおっ母さんを呼んでくれて、おっ母さんも承知して、来月来ることになったのでございます。

それでもし女将さんたちが突然居なくなってもこの店を続けて行けるように藩にお話してくれるそうです」と説明した。

「そうか楠田様は先のことも考えておられるのだな。そなたも母御が来るのなら安心であろう」

「はい、それで、女将さんも色んな料理を教えてくださっているんです。いつでも私が出来るようにと。でも」

「でもなんだ」

「もし女将さんや茉莉花さんが居なくなったらと思うと私寂しくって。それじゃいけないのは判っているのですが」と涙ぐむ。

「しかしその方が彼らにとっては幸せなことであろうからの。そなたも笑って見送ってやらねば。彼らが安心して行けるように精進せねばの」

とおふきの涙に困った目黒はへどもどしながら諭した。どうも女の涙には弱い。

「はい、目黒様のおっしゃるとおりです。せいぜい精進いたします。」と笑顔で答えたおふきに目黒は安心したようにシュウマイに箸を伸ばした。

 

 村上の店は絹織物を扱う店で、反物や帯、袱紗や半衿などを扱っている。

今日は先日文左衛門からいただいた着物に合う、半衿帯締めを見立ててもらうつもりだ。

店は若い娘で繁盛していた。さほど広くないが、半衿を薄い枠にはめて見やすい様に吊るしてあったり、着物と小物一式をセットでディスプレイしてあったり

江戸にはちょっとない飾り付けも繁盛の理由の様だ。

私たちと言えば、相変わらずの軽袗姿で、こういった小物におよそ用があるようには見えないものだから、店にいた客に怪訝そうな顔をされてしまったが、

村上が由佳たちに気づき、

「これは楠田さん、ようこそお越しくださいました。申し訳ありませんがしばしお待ちください」と声をかけたものだから先に来ていた娘に睨まれる羽目になってしまった。

結局村上は着物を見ないと良い品を選べないと言うので、後日何点か持って店に来てくれるという。それで着物の色柄を伝えて、忙しそうなので早々に店を出た。

「あー怖かった。睨まれちゃったよ」と言う茉莉花に、

「村上さんは歌舞伎役者並みに人気があるからねぇ」と笑って深沢が言う。

「村上さんみたいな感じが江戸ではモテるんだね~私は全然好みじゃないけど」

「そうだよ、あんな色白より俺の方が良いって」

「いや、それも違うけど」

「なんだよ~」と相変わらずの軽さだ。

 

 帰りは深沢の提案で、川越藩下屋敷の場所を確認して帰る事にした。次の時の会の時は深沢が迎えに来てくれる事になっていたが、

何かあった時のため場所を知っていた方が良い。

一応場所を確認して右に海を眺めながらぶらぶら帰る。久しぶりにゆったりした気分になった。

「大木戸の先を左に行けば伊皿子坂です」と説明を受け、仕入れをして帰ると言う深沢に礼を言って木戸前で別れた。

 

「結構歩いたね、流石に足が痛いわ」と茉莉花と話しながら大木戸を過ぎ曲がろうとしたとき、

「大変だ、子供が海に落ちたぞ」と騒ぐ声がした。みると船着場に人が集まりだして、漁師だろうか、数人が海に飛び込んだ。

「もう冷たいのに、大丈夫かな」と茉莉花も気になるようなので、傍まで行ってみる。

「いたぞ、誰か医者を呼べ」「火を炊け」と騒然となっている。

引き上げられた子供をみて「文太」と茉莉花が叫んで駆け寄って行く。どれくらい沈んでいたのか文太は血の気の無い顔をしていた。

「あんた知り合いか」と漁師らしい男に聞かれ、

「近所の子どもですが、住んでいる場所までは知りません」と私が答えると。

「そうかい、直ぐに引き上げたんだがな、この冷たさだ、心の蔵が止まっていやがる。今医者を呼びに行かせたが駄目かも知れねえ」と言われた。

それを聞いた茉莉花

「お母さんどうしよう文太死んじゃう」と青くなっている。

由佳は咄嗟に「心肺蘇生してみよう。茉莉花、気道確保」と指示を出した。

「わかった」と茉莉花は下駄を脱いで文太の首の後ろにあてって顎を持ち上げた。

私は着物の前を開き、確か子供は指三本だっけと思い出しながら痩せた文太の胸に手をあて、肋骨の中に押し入れるように心臓マッサージを始めた。

数えながら

茉莉花、マウストゥーマウス」と指示をした。

茉莉花は躊躇せず、ちゃんと鼻をつまみ、顎を上げて息を吹きかける。

「一、二、三」と十まで心臓マッサージをし、マウストゥーマウスを数回繰り返しただろうか、もうダメかと思った時、文太が息を吹き返した。

水を飲んだのだろうゲホゲホとむせていたが、みるみる血の気を取り戻していく、これで一安心だ。その頃ようやく医者が到着した。

医者はちょっとだけ文太を診たが

「水を吐いたのならもう大丈夫でしょう。風邪ひかぬようにだけしておきなさい」と言ってあっさり帰って行った。

 

「あんたら大したもんだな。今のは何をしたんだい」とさっきの漁師らしい男に聞かれた。

咄嗟に動いてしまったが、この時代には心臓マッサージは無かったのかと不安になった。

「胸を押して水を吐かせるのはわかるが、あんたのは違ったよな。どこで習ったんだぃ」と男に聞かれ、由佳しまったと思ったが

「長崎で知り合いのバテレンに習ったんです。胸を押すと肋骨が折れる場合があるから、肋骨の下に手を入れて心の臓を押すんですよ」と説明した。

「へぇ長崎帰りかい、どおりで変わった格好していると思ったぜ、しかしこっちも助かったよ、子どもが死ぬと寝覚めが悪いしよ、助けたおいらも報われるってもんだい」

と納得してくれた。誰かが熾してくれた火にあたらせてから文太は送ってくれると言うので、

「元気になったらお店においでね」とだけ声をかけ呆然としている文太を残して急いでその場を後にした。

 

「やばいやばい、この時代は心臓マッサージって無かったのかな」

「お母さん、マウストゥーマウスってまで言っていたしね」

「いやぁ失敗したよ。でもほっとけなかったしさ」

「うん、助かって良かったよ」

茉莉花も良くマウストゥーマウスできたね。えらいよ」と言うと、

「ほら小学生の時の子供消防団に入っていた時にさ習ったんだよ、学校でも一回やったから覚えていたんだ。本物は初めてだったけど夢中だったから」

「そっか、今回は誤魔化せて良かったけど気をつけないとね」と小声で話ながら店まで急いで帰った。

 

そんな二人をじっと見ている男がいた。編笠を被った着流し姿の浪人のような風体だ。

二人はそんなこととは知らず、伊皿子坂を上がって行った。

 

 

 

 お酉様の次の日、店は朝から大忙しだった。どうやら昨日文太を助けた事が噂になり、お客が押し寄せたらしい。

章五郎が聞いて来たところによると、

「長崎帰りのめずらしい食べ物」が

「長崎帰りのありがたい食べ物」に変わり、

「長崎帰りの長寿の縁起物」になったようだ。

繁盛するのはありがたいが、間違った評判はかえって後々面倒になる。

「これを食べると無病息災だって」と聞く客には、他の客にも聞こえるように、

「長崎帰りはあってますが、縁起物でも長寿の食べ物でもありません」と付け加えなければならない。

「なんでぇ、違うのかぃ並んで損した」と怒る客も居て、いつもは薪などくべたり、中を担当してもらっている章五郎に表で何度も

「縁起物ではありません、珍しいだけです」と声を張り上げてもらう始末だ。

それでも珍しい物好きな江戸っ子は大勢居る様で、なかなか列が切れない。

 

先週から売り出したイカシュウマイはあっという間に売り切れになり、お焼きも種が尽きるまで焼いた。

材料が無くなった時点で店じまいするしか無いが、それでは並んでくれたお客に申し訳が立たないので、

明日で、良い人には明日お届けする事を約束して注文書を書いて貰い帰って貰った。

 

ようやく客が切れたのはもう夕方になろうかと言う時間だった。

通常は夕方の客を見込んで、仕込みをするのだが、材料は尽きてしまったし、朝から働き詰めだったので、

「本日は売り切れのため早仕舞いします」と張り紙をして店を閉めることにした。

いつもは残り物を食べるのだが、忙しすぎて夕飯の準備をする気にもなれず、夕飯には少し早いが、皆で外食しようと言うことになった。

そうと決まればよ、皆で片付けをしていたとき、「ごめんください」と表で声がした。

「すみません、今日はもうおしまいです」と茉莉花が断りに出たら、町名主と文太が立っていた。

「文太、あんたもう大丈夫なの風邪引かなかった」と茉莉花に言われ、情けない顔してうなずいた。

「これ、ちゃんとお礼を言わんか、このお方たちが通りかからなかったら、おめぇはあのまま心の臓が止まってお陀仏だったって話じゃないか」と頭を小突いた。

文太は消え入りそうな声で、「ありがとうございました」と頭を下げた。

「文太は何であんな所に居たの」と茉莉花に聞かれたが、俯いたままだ。

立ち話もなんですからと席を進め、おふきにお茶を入れてもらい名主の話を聞いた所によると、

文太はよく父親と喧嘩して家を飛び出しては、行くあてもなく海辺をふらついたり、漁師の獲物を盗んだり、店先の物を盗んだりして腹を満たし、父親が飲んだくれて寝入った頃長屋に戻っていたらしい。

昨日もそんな感じで、海辺に来て漁師の様子を見ていたらしいが、あまりにも腹が減りすぎて、艀から落ちてしまったというのだ。

名主は「私どもも、こいつの父親には酒を止めるように口酸っぱく言っているのですが、どうにも行けません。最近は誰も金を貸さないので、文太が盗みをしちゃぁ酒に変えて来る有様のようでして」

「そうだったんですか、それは親として許せないですね、何とか立ち直ってくれればいいんですが」というと名主は大きなため息をつき、

「もう手遅れだと医者も言っています。どうやら肝の臓がやられちまっているようで、最近は歩くこともままならねぇんです」と言う。

文太は俯きながらふてくされたように、

「おいらもあの時死ねば良かったんだ。海に落ちた時、もうどうでもいいやと思ったんだ」と不貞腐れたようにつぶやいた。

その時、

「ばか」と突然茉莉花が大声で叱った。

「文太の馬鹿せっかくの命なのに、無駄にしちゃダメなんだよ。あんたのお母さんがあの世で泣くよ」とまくし立てる。

「だって、おいらなんて死んだ方がいいんだ。死ねばおっ母さんにだって会えるし、腹も減らねぇ」と茉莉花の声に驚きながら、涙を浮かべ反論した。

「死んだ方がいい人間なんて居ないの、それに寿命を全うしないで死ねば天国に行けないで、地獄に落ちるんだから。あんたのお母さんはきっと天国にいるから、だから、だから、とにかくしっかりしなきゃダメなんだよ」と茉莉花も最後は泣きながらだ。

文太はたまらずおいおい泣き出した。茉莉花も泣いている。

そんな二人を見て名主は貰い泣きしながら、

「そんな訳で今日はお礼に伺いました。今後とも何かとご迷惑をおかけするかもしれませんが、どうか見守ってやってください。私どもも文太の先の事が立つように考えて行きますので」と頭をさげる。

おふきも手ぬぐいを茉莉花に渡し、文太に「お腹すいていないかい」と余りもののシュウマイを包んで渡した。

 

そんな様子を見ながら由佳は考えていたが、「そうだ」と思い立った。その声がちょっと大きかったのか、泣いていた二人も名主もきょとんとした顔を向けた。

「名主さん、文太をしばらく店に通わせるのはどうでしょうかお給金は出せませんが、ご飯なら食べさせられます」

「何をおっしゃいますやら、そんなご迷惑はかけられません」と慌てて手を振る名主に

「当然ただではありません。もちろん働いてもらいます」と思いついた事を説明した。

 

今日は思いのほかお客が多くて、材料がなくなってしまったので早仕舞いするのだが、明日届けるという注文を沢山貰っている。

遠いところは章五郎が担当するつもりで、近場は茉莉花かおふきに行って貰うつもりだが、

二人では道に明るくない。そこで文太に案内して貰えば章五郎の負担も減るし、茉莉花達も道を覚えられる。

何より早くにお客様に届けることが出来る。と説明した。

 

それを聞いた章五郎が「そりゃいい、今日みたいに注文が入るのがいつもって訳じゃねぇが、明日は特に手伝ってもらいてぇや」

「そうなんです。毎日注文が入るわけではないのですが、それ以外にもお使いなども頼めれば私どもは助かるんですよ」

と言うと名主は、文太の顔を見て、

「おまえ、そう言ってくださっているが、どうするのかい」と聞いた。文太は目に涙を貯めながら、「こんなおいらでもいいのかい、役にたつのかい」と聞いてきた。

由佳は、「もちろんだよ、ここらの道を知ってるでしょう近道とか教えてくださいな。できるだけ早くにお客様に届けたいからね」

「あぁ、おいらかっぱらって逃げるのに近道とか結構知ってるんだぜ」と得意顔で言って、名主に「これ調子に乗るんじゃない」と叱られた。

 

「文太でお役に立ちますかどうか」と名主は不安そうだが、

「先ずはやってみましょう。それじゃ決まりね。お給金は出ないよ、でもご飯は出せる。人はさ、腹が減ってちゃ何にも出来ないし、悪いことばっかり考えるからね。明日は朝五ツに店に来てね」と文太と約束した。

 

章五郎は二人を見送りながら、

「おかみさんも大概お人好しですね。ただでさえ人が増えて掛かりが増えるってぇのにあんな子まで面倒みるってんだから」と苦笑交じりで言ったので、

「章五郎さんだってほっとけなかったでしょ。茉莉花もほだされちゃったしね。でもね、私はお人好しで言ったんじゃないよ、文太は私たちが助けた子だから案外宣伝になるかも知れないと思ったんだよね。だから一石二鳥って訳」とペロッと舌をだして答えた。

「こりゃ驚いた、案外策士でしたか」と大げさに驚いて見せたがどうせ章五郎の事だからとっくにお見通しなんだろうと由佳は思った。

「しかし大丈夫ですかね、舘宮様に相談もなく決めちゃって」

「叱られちゃうかな」

「いや、怒られやしねぇでしょうが、色々知られちゃならねぇ事もありますんでねぇ」

「その点は気をつけます。いつまでもって訳でも無いし」

 

 次の日はいつもより二時間も早く起きて仕込みにかかった。

茉莉花とおふきは何度も表に目をやりながら文太が来るのを待った。

約束の時間の少し前、表に文太らしき子どもの影が映ったのを茉莉花は見逃さなかった。

さっと戸を開け、突然あいた戸に驚いた顔をして立ち竦んでいる文太に向かって、

「おはよ、時間どおりで偉いね。早く入って、手を洗って、朝ごはんは食べた」と急かす。

「おはよう、おかみさんもおはよう」ともごもごと挨拶した文太は茉莉花に促されるがままに手を洗い椅子に座らされた。

「ご飯食べてないでしょ」と茉莉花に聞かれ「おいら腹減って無いから」と遠慮するが

おふきが白飯と味噌汁とお菜を乗せたお盆をサッと用意し、

「今日は沢山歩くし、お昼も何時になるかわからないから、しっかり食べてしっかり案内してよ」と有無を言わさぬ表情で諭す。

「わ、わかったよ」と文太はしぶしぶ箸をとったが、お腹が空いていたのだろう、あっという間に平らげた。

二人の剣幕におどおどしながらも文太の表情は昨日までと打って変わって目に力が入っている。

それを確認してほっとした由佳は章五郎と茉莉花と文太に分かれて貰って配達の段取りを説明した。

茉莉花と文太は先ずは、主に白金の辺りに行って貰う。五件ほどなので午前中には一旦戻って来れるだろう。帰りに深沢の店に寄って、文太を紹介するように茉莉花に頼んだ。

章五郎には目黒の方をお願いして、配達に行く一行を見送った。

 

 茉莉花は文太の案内で先ずは遠い辺りから行くことにした。道すがら文太がおずおずと切り出した。

「あの、お嬢さん、長崎帰りって聞いたけど長崎ってどんな所なんだい」

「お嬢さんはやめてよ、茉莉花でいいよ」

「じゃ、茉莉花さん、おいらに長崎の話を聞かせてくれよ」

そう言われて茉莉花は困った。長崎は旅行で何度か行ったけど、それは令和の話で、江戸時代の長崎は知らないからだ。

しかし好奇心に目を輝かせる文太をがっかりさせるのは可愛そうに思えたので、当たり障りの無い話をすることにした。

「長崎はね、坂が多いんだよ、でも海がすぐだから景色も良くて、九十九島って島が沢山ある所なんかはね、船で回ると凄く綺麗なんだよ」とか

「出島には異人が居て、唐人も沢山居るんだよ。だから街の飾りも唐人風の提灯や飾りがあって、祭もやるんだ」

など覚えている事を差し障りの無い程度に話した。それでも文太は

「いいなー、おいらは江戸から出たことが無いからさ、いっぺんでいいから行ってみたいや」と羨ましそうに言う。

「文太だって大人になれば行けるかもしれないじゃない、長崎は無理でも伊勢や上方に行く機会があるかも知れないよ」

「そんなの無理だよ、どうせおいらは手習いもやって無いし、奉公先も決まらないし。第一おっ父の面倒も見ないといけないし、せいぜい日雇いで食い繋いでいくしかできねぇ、そんなんじゃいつまでたっても銭は貯まらねぇよ」

「そう言えば目黒さんってお武家さんの手習い所に行っていたんでしょ、又行けばいいじゃない。目黒さん気にしていたよ」

「手習い所に行く金がねぇよ。それにおいら、かっぱらいばっかりやってたから皆に嫌われちまってるし」としょんぼりする。

それを聞いた茉莉花

「もう盗みはしちゃだめだよ、約束出来る」と立ち止まって文太を見下ろした。

「うん、おいら茉莉花さんや女将さんに助けて貰った命でやり直す事に決めたんだ。だからもう絶対盗みや悪さはしねぇ。そう名主さんとも約束したんだ」と決心した顔で訴えた。

「本当」と茉莉花は文太の顔をじっと見つめた。

「本当だよ、信じて貰えないかも知れないけど、おいら頑張るって決めたんだ」文太は目を逸らさずに訴える。

茉莉花はふっと笑って、

「信じるよ。じゃあ今度私が字を教えてあげる。暇な時間にしか出来ないけどね」

「本当かい、茉莉花さんは手習いも出来るんだ、すげぇや」と驚く。

論語は出来ないよ、嫌いだし」と眉間に皺を寄せて言うと文太も

「おいらも論語は嫌いだ」と吐きそうな顔をした。

二人は顔を見合わせて大笑いしながら朝の白金を歩いて行った。

 

 

 

 日本橋のはずれ、魚河岸に近く、安くて新鮮な魚を出すと人気の煮売り屋はいつも仕事帰りの男たちで混雑していた。

そんな店の小上がりでうろんな二人が銚子を傾けていた。

連れ合いと言うには不釣合いの浪人と町人の二人連れだったが混雑した店では特に目立つわけでもなかった。

「ちぇっ、もう酒がねぇや」と政次がつぶやく。

「飲みすぎではないか」と静かに飲んでいた浪人風の男が政を窘めた。

「だってねぇ室井の旦那、酒でも飲まねぇとやってられませんぜ、ゆんべも負けちまったしよ、どっかに金になる話は転がってませんかねぇ」と政次はぼやく。

さっきから同じ話ばかりで少々うんざりしていた室井は鼻で笑うと杯を傾けた。

浪人風の男は室井といい、町人の男は政次と言った。二人が出会ったのは堵場で、負けが込んでいた室井にその時勝ち越していた政次が札を回したのが縁だ。

 

室井は西国の出身で藩が改易の憂き目に逢い浪人生活を送っていた。江戸に出てくれば仕事にありつけるかと思い下って来たが、そうそう仕事にはありつけず、用心棒をしながら虎口凌いでかれこれ二年になる。

政次は喧嘩の末相手に怪我をさせたため、人足寄場に入っていたが、最近出てきたと言う。

もとより定職につかず堵場に出入りし、元締めの使い走りをしながら小遣いを貰っているような生活で所謂ごろつきだ。

そんな二人はたまに会うと酒を飲んでは世間話をしたり、情報交換をしていた。

今日は室井が久しぶりに用心棒の仕事で懐が暖かかったので政次を誘ってこの店に来た。

 

「もう一本だけだぞ、それで今日は仕舞いだ」と言うと室井は酒を注文した。

「すいません旦那」と政次は後ろ頭に手をやり、ひねた笑いをこぼした。

「そういえば、先日、高輪辺りで長崎帰りと言う親子が海に落ちて死に掛けた子どもを助けたのを見た」と何気なく室井は話した。

「へぇ、そいつら親子は医者ですかい」政治は特に興味なさそうに相槌をうった。

「いや、煮売り屋の親子だそうだ、最近高輪辺りで商売を始めたそうだ。それより、近くで見ていた訳ではないが、二人掛かりで見たこと無いような方法で子どもの息を吹き返していたのが気になってな」

「へぇ、長崎で異人にでも教わった方法なんですかね、医者でもないのに人助けが出来るってのは重宝でさぁ。まてよ、そいつを覚えて医者の真似事でもすればちったぁ金になりますかね旦那」

「無理だろう、ほかの事は出来んのだから。それにそうしょっちゅう溺れる者に出くわす訳でもない」

「はは、それもそうですね、つまんねぇ事を言いやした」と政次は新しく来た銚子を室井に差し出した。

「何でもその親子の店は長崎の珍しい食い物を売っているそうだ。そっちを真似て商売にしたほうが儲かるかもしれんぞ」

「煮売り屋ですかい、今更性にあいませんや、それよりその親子は長崎から持ち帰った珍しいお宝でも持ってませんかね、そいつを盗んで売っぱらった方が手っ取り早いってもんですぜ」と言った政次は不穏な目つきをした。

「おいおい、物騒な事を考えるなよ、そんな事して今度捕まったら寄場送りでは済まんぞ、良くて遠島、悪けりゃ獄門だ」と室井は窘める。

「わかってまさぁ。でもね旦那、危ない橋でも渡らなきゃ大金は手に出来ませんぜ、旦那だって何時までも用心棒の仕事にあるつけるか分かりませんぜ」と政次は鋭い目で室井を見た。

「ふん」と室井は静かに杯を傾け「とは言ってもな」とひとりごちた。

勿論室井もこのままではゆくゆくは立ち行かなくなるであろう事を承知していた。今更仕官は叶うはずも無いが、剣の腕には自身がある。出来ればどこぞの道場で剣術指南役か、あわよくば道場主になることが出来たら本望だ。

しかし、浪人の身分ではそんなつても無く、用心棒を務めるのが関の山だ。

せめて口入れ屋から時折貰う仕事ではなく、どこぞの大店の専属の用心棒にでもなれれば暮らしは楽になるのだが。

そんな事を思いながら室井は政次の気持ちも分からぬでは無いが、物騒な事を言い出した政次をもてあましてしまった。

政次は室井に相手にされなかったのが不満だったのか、「ちぇ」と言うとそれから暫く無言で残った酒をちびちび飲んでいた。

 

無言で酒を飲む二人に「あのー、ちょいとよろしいですか」と小上がりの衝立の向こうから声がした。

衝立をずらしてにじり寄って来たのは二十四、五の手代風の男だった。

「先ほどのお二人の話が聞こえまして、ちょっとお伺いしたい事がありましてお声を掛けさせてもらいました」と手をついて頭を下げた。

「なんでぇ、人の話を盗み聞きするたぁ、事の次第によっちゃただでは置かねぇぜ」政次は物騒な話をしていた手前、片膝を立て凄んだ。

「いぇいぇ、盗み聞きではございません、たまたま聞こえただけで、滅相もございません」男はさらに頭を低くすると上目遣いに小声で、

「先ほど、長崎帰りの親子の話をされていましたが、そのことを詳しくお聞かせ願えないものかと思いまして」と抜け目の無い目を二人に向けて来た。

 

室井は「親子の何が知りたいのだ、拙者も偶々通りがかっただけで詳しくは知らんぞ」と言ったが、

「何でもよろしいのです。お武家様が気がついた事をお教えいただければ、もしかしたら私が探している親子かも知れませんので、お話をお聞かせ願えましたらお礼をさせていただきます」

そういうと男は店の小女に「ちょいと、こちらに酒二本とつまみを見繕って持ってきておくれ」と酒と肴の追加を頼んだ。

小女が酒と肴を置いて行ったのを見計らって男は二人に酒を注ぎ、

「申し送れましたが、私、日本橋にある雛屋と言う小間物屋の二番番頭で、菊太郎と申します」と頭を下げた。

「雛屋っていやぁ最近女子の間で流行っている店じゃねぇか、確か旦那は上方出身と聞いたぜ。何でも値段の割には豪奢な小物が売りだってな。その若さで二番番頭なんて、お前さんてぇしたもんだ」と政次が二番番頭と聞いて値踏みするように菊太郎を見た。

「よく知っているな」と室井は驚いたが、何でも政次の行きつけの飲み屋の女将がそんな事を言っていたのだと言った。政次も女将の事は憎からず想っていたので今度金が入ったら小物の一つでも買ってやろうかなんて思っていたらしい。

顔に似合わず照れながら話す政次に手代は

「恐れ入ります。手前どもの店をお知り置き、誠にありがとうございます。よろしければ、これをその女将さんにお渡しください」と懐から紙入れを取り出し気前よく政次に渡した。

「えぇ、いいのかい」と政次は驚いたが、「へぇ、確かに豪華な作りだ」と金糸を混ぜて織られた紙入れをまじまじと見た。

そんな政次を他所に、「それで、聞きたい事とはなんだ」と室井は菊太郎を促した。

菊太郎は膝を寄せて「はい、ご存知の通り、手前どもの店は旦那様と大番頭さんが上方の出身でして、私を始め手代以下は江戸雇いなのですが、上方より仕入れる小物が受けておかげさまで、繁盛しております。しかし最近隣に新しい小間物屋が出来まして、近頃客足が伸び悩んでおります」

「そんな事は商売をしていれば良くあることだろう。それとその親子と何の係わりがあるのだ」

「はい、実はその新しい小間物屋は錦屋と言うのですが、そこで出した引き物の根付が人気を呼び、意匠も変わっていて粋だと言う事で、それを知った手前どもも人を使い手に入れたのですが、確かにその根付は今までに無い新しいものでございました」

「ふーん、それで」と政次は紙入れを懐に仕舞ってやっと手代の話を聞く気になったようだ。

「それで色々調べました所、錦屋は雛屋に対抗するためにその長崎帰りの親子の知恵を借りたのだと言うことが分かったのです」

「なるほどな、それで雛屋の客が錦屋に流れたわけだ」

「はい、それを知った旦那様は大層ご立腹で、手前どもにもその親子の知恵を借りて、店を盛り上げたいと思っていらっしゃるのです。」

「それで、あんたにその親子の事を調べるように頼んだって訳かい」と紙入れを貰って気前を良くした政次が聞いた。

「いえ、実は親子を調べているのは私の独断でして」と言葉を濁した。

「わかった、あんたはその親子から知恵を貰って、あわよくば出世しようって魂胆だな」と政次が魂胆を見抜いたとばかり息巻いた。

「はい、実はその通りでございます。今の大番番頭さんは上方から旦那様と一緒に来た方で、もうお年もかなり召していらっしゃいます。このごろは疲れも溜まっていらっしゃる様で、そろそろ上方に帰りたいなんて言葉も吐かれるようになって気弱になっていらっしゃいます。

出来ましたらこの辺りで交代して差し上げたいのですが、何しろ私は若輩者でして、旦那様も大番頭さんもまだまだと思っていらっしゃいます。ですから私はここで一つ手柄を立てて、実力を示してお二人に認めて貰いたいと思っているのです」

「ふん、お前の魂胆は分かった。しかし親子を探し出してもおいそれと知恵を授けてくれるかどうかは分からんぞ、それにそれが大当たりするかどうかもな」

「はい、おっしゃる通りです。ですが、先ずは話を聞いてみたいと思っております。話しているうちに何か商品について使える事が出てくるかもしれません。そう思って親子の話を集めて回っているのです」

「なるほどな。しかし黙って付いて来るだろうか」と室井は思案した。

「そこです。親子は高輪で煮売り屋をしているそうですが、おおっぴらに話を聞きに行くのははばかられます。出来ましたら別の場所で密かに会うことが出来ないものかと思いまして」

「そこまでわかっているのなら、その店に手紙でも出して呼び出せばいいんじゃぁねんかい」

「ふん、それこそ怪しくて来ないだろう。町方に相談されて待ち合わせ場所でお縄になるのが落ちだ」と室井はおかしそうに政次を見て杯を傾けた。

「それもそうですね旦那、で菊太郎さんはどうしたいんだ」

「そこでお二人に相談なのですが、その助けられた子どもはその後、煮売り屋の小僧になって、娘と良く注文を届けに行っています。そこで、娘が使いに出た所でお二人に連れて来ていただきたいのです。なに、小僧には飴玉でも渡して時間を潰す様に言えば良いでしょう。」

菊次郎は室井と政次の顔を交互に見ながら二人の反応を窺った。

「おい、そりゃぁ拐あかしじゃねぇのか」と政次は小声ながら凄みのある声で菊太郎に詰め寄った。

「いえ、理由を話して連れて来てくだされば良いのです。決して拐あかしでは無く、合意の上で」

「もし拒まれたらどうする」室井も杯を置き、腕組みして聞いた。

「出来れば穏便に済ませたいのですが、万が一騒がれでもしたら厄介ですので、その時は脅してでも」と後の判断は二人に任せる意を含んで言葉を切った。

「そんな危ない仕事はご免こうむりたいぜ、万が一お縄になった日にゃ、それこそ遠島だ」と政次はこの話はおしまいだとばかりに手をひらひらと振ってそっぽを向いた。

「同感だな」室井は銚子の残りを確かめて杯に継ぎ足した。

「勿論お二人には謝礼をさせていただきます。十両ではいかがでしょうか」と菊太郎は食い下がった。

十両」政次は金額に一瞬喜色を見せたが、思い直したように「いや、駄目だ駄目だ、危なすぎるぜ」と室井の銚子を取り上げて傾けたが、

「ちぇ、もう空だぜ」と音を立て銚子を台に置いた。

「それでは、お二人に十両づつ、二十両ではいかがでしょうか」となおも菊太郎は提案する。

 

十両と言えば菊太郎でも大金だ。しかしそうまでしても菊太郎はあの親子に会う必要があると思っていた。

目の前の二人には言っていないが、万が一菊太郎の考えが正しければ、二十両は安いものになる。

 

なぜ菊太郎があの親子に執着するのかと言えば、数日前の雛屋の主と大番頭の会話にあった。

二人の会話をたまたま聞いた菊太郎は、あの親子が「時渡り」では無いかと言っていたのを耳に挟んだ。

最初は何の事か分からなかったが、偶々知り合った津藩の中間に何気なく聞いてみると、

「おぉ、聞いたことがあるぜ」と教えてくれた。

 

中間の話によれば、「時渡り」とは今の時代では無い違う時代から来た人間の事で、上方では時折その噂が出回るそうだ。

しかし、いつも噂の域を出ず、単なる妖怪の類い位に思われているようだ。

「そんな人間が居るわきゃねぇよ、本当にいるんならお目にかかりてぇや、でよ、先の事を聞いて一発当ててぇもんだぜ」と中間は笑っていた。

菊太郎も適当に相槌を打って笑ったが、内心はどきどきしていた。

 

主は上方や京に本店を持つ雛屋の分家で上方店の次男坊だ、京の本店は宮廷にも出入りが許されている老舗だと言うことで、宮廷の事にも詳しいのが自慢だ。

また、そんな店の血筋の者なので、普通の者が知らない様な事も良く知っている。

大番頭は江戸店開店の為に上方店から使わされた者で、時折京の本店にも行くことがあったと、これまた自慢気に話していた。

 

そんな二人が言っていたのなら「時渡り」は本当に居るのではないかと菊太郎は思ったのだ。

とりあえずは会って話が聞きたい。そう思い店で買い物をしたこともあるが、店にいる女将は特に変わった感じはしなかった。

でも娘を見たとき、菊太郎は違和感を覚えた。

着ている物はちょっと変わった袴くらいにしか見えないが、娘の身のこなしや時折唄っている歌などが菊太郎が知っているどの娘とも違うのだ。

長崎帰りと言われればそうかも知れないが、菊太郎は主と番頭の話と自分の勘を信じることにした。

そして、あの母娘が本当に「時渡り」であれば、誰も思いつかないような意匠を教えてもらい、大もうけできるのは間違いなしだ。

 

でも、このことを目の前の二人に言うつもりは無い。万が一あの母娘が金になると知ってしまえば、もっと高く買って貰える所に話を持ち込むだろう。

そうなってしまっては菊太郎の未来も無くなってしまう。

 

「いかがでしょうか」菊太郎は懇願する様に二人を窺った。

「ふむ、十両ではちと安いな」いままで腕組みして考え事をしていた室井が薄目を開けてつぶやいた。

「そろそろ江戸にも飽きた頃と思っていた。もう少し色を付けてもらえれば江戸を出る路銀になろう」と言った。

「え、旦那江戸を出るつもりですかい?それで何処へ」と政次は初めて聞いた室井の考えに驚いた。

「特にあては無い、だがこのまま江戸に居ても大して生活は変わらんだろうからな、まぁ気の向くままだ」と笑って酒を飲み干した。

「そうか、旦那は江戸を離れるんだ。俺もたまには江戸の外を見たいもんだ、旦那、俺も付いて行っちゃ駄目ですかい」と政次は室井に頼んでみた。室井はどうせ本気じゃないだろうと思い、

「ふん、好きにしろ」とだけ答えた。

「よし、そうと決まれば一人十両じゃとうてい足りねぇ、どうする菊太郎さんや」

「それではこれではいかがでしょう、私からお二人に二十両お支払いします、そして、この事を旦那様に私から話し、旦那様から仲介料を頂くのです。

旦那様もあの母娘には会いたいと思っていらっしゃいます。私が上手く話しを通しますので」

「それで旦那さんからはいくらもらえるんだい」と政次は金に眩んだか、目を輝かせた。

「そうですね、ちゃんとした方からの仲介と言うことにしますので、あまり安くても疑われます」とちょっと思案した菊次郎だったが、

「五十両位がいい線でしょう。お二人に二十五両づつ、私の支払いとあわせて三十五両づつ、それでいかがでしょう」と商人の目をして顔を上げた。

「三十五両か悪くない」

「そしたら、俺も堵場に溜まった借金を返して大腕振って江戸を出て行けらぁ」

「決まりと言うことでよろしいですね」と菊太郎は念を押した。

室井と政次は無言で頷き、杯を飲み干した。

「ところで、菊太郎さんよ、その娘は用が済んだらそのまま返すのかい、それは後々面倒になるんじゃねぇのか」

「そうですね、旦那様との話し次第でしょうが、もし娘が騒いだりしたら厄介です」

「その娘の見た目はどうだい、売れそうかい」

「そうですね、どちらかと言えば狸顔ですが、まぁ吉原は無理でも品川辺りならそれ相当の値段で引き取ってくれるでしょう」

「へぇそうかい、じゃぁいざとなりゃ俺がつてを頼って売り飛ばして路銀の足しにするか」と政次はさらに儲けようと算段した。

菊太郎はそんな政次を冷ややかに見て何かを言おうとしたがやめた。もし娘が居なくなったとしても、元々この世に居なかったはずの娘だ。どうなろうと知ったことではない。

また、万が一政次が捕まったとしてもただ仲介を頼んだだけの自分には大したお咎めもないだろうと踏んでいる。

何処に行こうかとしきりに室井に話しかける政次を見ながら、小女を呼んで酒を追加した

「それでは細かい事を決めなければなりません、が、その前に」と三人の杯に酒を満たした。

「三人の計画の為に乾杯と行きましょう」と杯をかざした。

その日は店が看板になるまで三人の入念な打ち合わせが続けられた。