碧い鱗

青が好きです。魚の体を覆っている鱗の様に今の私を形成している想いでや出来事をチラチラと散りばめて書こうかと・・・

紅葉

先日、東京の奥にある秋川、桧原村でキャンプをした。
紅葉には少し早かったが、夜は冷え込み、焚き火を囲んで延々飲んで食べると言うのはキャンプならではだ。

 

保育園に通っていた頃。保育園の庭に紅葉した葉っぱが沢山落ちていて、それを使ってままごとをした。
赤や黄色の葉っぱはどれも綺麗で、私は夢中になって集めた。

葉っぱを沢山集めて、その上にバサッと倒れこんだり、両手いっぱいに抱えて、空に振りまいてみたり。
日に翳してみたり。楽しくて飽きなかった。

そんなある日、遊んでいる途中で顔や腕がとても痒くなった。
それはあっという間に広がり、全身に発疹が出来たため、保母さんに送られて家に帰った。
祖母は赤くはれた私の顔を見るなり、「こりゃ漆じゃなかね」と言い、送ってくれた保母さんに園庭に漆の木が無いか確認するように頼んだ。

漆は園庭では無く、山に生えていた。保育園の入り口近くの山を切り開いて駐車場にしている場所がちょっとだけ崖の様になっていて、
その上に漆の木があり、葉っぱを駐車場に散らしていたのだ。

私は園庭の色んなところから葉っぱを集めていたので、その中に漆が混じってしまったらしい。

祖母は早速、例のまじないで全身を吹いた。

でも急な事だったので、精進していない。
それでも少しはマシだろうと言い何度も私の顔や手に口に含んだ水を吹きかけた。


以前も書いたが私はそれが嫌いだった。
全身の痒さと吹きかけられた水の臭さで気分は最悪だったことを今でも覚えている。

 

その夜は高熱を出した。
祖父は病院に連れて行ったが良いのではと言ったらしいが、近所には夜中に診てもらえる病院は無い。
救急車を呼んで遠くの町まで運ばれるしか夜間診療はできないのだ。
祖母は救急車を呼ぶまでも無いと判断し、その夜祖母は寝ずの看病をしてくれた。

 

翌朝高熱では無くなったが、発疹は酷くなり、火傷の様な水ぶくれが出来た。
水ぶくれが潰れて、その汁が綺麗な皮膚に付くとそこも発疹が出来た。
そのため、元気にはなったが遊ぶことも友達に会うことも禁じられ、数日は家から出してもらえなかった。

 

保育園の先生がお見舞いに来てくれた。

漆にかぶれた原因は保育園にあると言って、菓子折りつきで謝りに来たのだ。
祖母は「よくあることやっけん、そがんせんで良か」と言いながら、先生が持って来た菓子折りを遠慮していたが、最後は受け取っていた。

先生が帰った後、「まんじゅう屋に菓子ば持って来るった、気が利かんね」とブツブツ言いながら仏壇に供えていた。
私は日頃から饅頭じゃないお菓子に憧れていたので、直ぐに食べたいとせがんだ。
いつもなら数日は仏壇にお供えするのだが、全身を腫らしている私を不憫に思ったのか、直ぐにお菓子を出してくれた。

菓子折りは水羊羹だった。
祖母は「なんね、季節はずれも良かとこたい、それにお寺のくせに、ケチくさかね、お中元の残りモンやなかとね」と更に文句を言っていたが、
熱っぽい私には冷たい水羊羹は食べやすかった。
「ユミが食べやすかごと水羊羹にさしたとやろ」と祖父に言われ、

祖母は「ふん、どがんか判らんたい」とそっぽを向いた。

 

それから水疱がかさぶたになって、保育園に行くようになっても、祖母による治療は続いた。
とにかく毎日が拷問だったのを覚えている。

 

しかし今考えると私を治療する間は祖母は肉も魚も絶っていたのだからありがたい話だ。
その治療が効果あったのかどうかわからないが、私は跡も残らず綺麗な肌に戻った。

 

漆にかぶれた以外にも、水疱瘡や麻疹に罹った時も祖母の治療を受けた。
勿論そのたび拷問の様に感じていたのは言うまでも無い。

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漆の紅葉した写真を見て、「これこれ」と私も思い出した。
漆の木の葉っぱはとても綺麗だ。
漆に触ってもかぶれない人がいると聞くが、かぶれた場合の辛さは尋常じゃないので、写真を見て覚えたほうが良いと思う。
と言っても、今はちゃんとした医療機関で、ちゃんとした薬で治療するのだから、そんなに恐れることは無いかも知れない。

 

私は今でも、湿疹が出来た時に「あー良く吹いてもらったな」と祖母を想い出し、届くところなら、呪文はわからないが、息を吹きかけてみる。
そのたびに、「あの呪文をちゃんと教われば良かった」と少しだけ後悔するのだ。

改宗とお墓の引越し

以前書いたが私の家の仏壇は三つの宗派が同居するという、今にして思えばかなりヘンテコな状態だった。
祖母が出会った謎の僧から受け取ったのは弘法大師の像で「真言宗」、前のじいちゃんの宗派が「曹洞宗」、そして私の知るじいちゃんが亡くなった
タイミングで、宗派替えしたため「浄土真宗」となった。

曹洞宗」の時は、お寺が近所にあったし、保育園も経営していたので、私はその保育園に通い、お寺のイベントにも参加していた。
保育園ではブッダの劇で傷ついた鳩の役と、涅槃の時に集まる動物の役をやった。(本当はブッダにミルクを届ける娘がやりたかった)
除夜の鐘も撞きに行き甘酒を飲むのが楽しみだった。
花祭りには甘茶を貰いに行った。お稚児さんをやりたかったが、檀家の女児の中で何故か私だけ選ばれなかった。
夏休みには毎朝座禅を組みに行った。座禅の後はお粥をいただき、禅宗の作法を習った。
(ちょうど今ドラマでお坊さんの話をやっているが、本当に音を立ててはいけないのだ。)

そんな風に生活の中で自然と曹洞宗と関わっていたが、改宗に伴い、各イベントには行かなくなった。
お寺の人は「好きな時に来ていいんだよ」と言ってくれたが、
祖母は「お寺の行事は檀家さんの物で、行ったら行ったで何がしかお布施ば包まんばいけんけん」と言って参加させてくれなかった。

そんなある日、近所のお寺にあった前のじいちゃんの墓を移すことになった。
大叔父とその息子達が来てくれて、墓を開け、骨を拾いに行くと言う。
祖母は「ユミも連れていかんね」と言って、私に一緒に行く様に言った。
私は墓を開けて、骨を拾うなんて嫌だと言ったが、「なんば言いよっと、じいちゃんの為たいね、そいに良う知っとる山やろうが、叔父さん達ば案内せんね」と言われた。
しかし、私は前のじいちゃんの墓が何処にあるか知らなかった。墓参りに行った記憶が無かったからだ。
祖母は、「小まか墓やっけん良う探しんしゃいね」と言って大まかな場所を教えてくれた。

場所を聞いて私はびっくりした。お寺兼保育園の墓地は良く知っていたはずなのに、じいちゃんの墓がある辺りはかなり上の方なので行った事が無かった。

保育園の庭から墓地に続く道があり、良く遊びに行っていた。
手前の方には大きな墓があり、お盆の時期はお供え物が沢山あげてあった。
子どもの頃、お供え物はお墓にきちんと手を合わせれば頂いても良いと思っていたので、虫に食べられる前に良く頂戴したものだ。
そして大きな墓は御影石が冷たくて、夏は腰掛けて涼んだりもした。
もちろん、よじ登ったりすると怒られるのだが。

そんな墓地の敷地の上の方に前のじいちゃんの墓はあった。
登っていくにつれ、道は段々細く、険しくなり、草もぼうぼうに生えていた。
やっとの思いで着いた最上段の墓地は、一部が土砂崩れで壊れた墓があったり、参る人が居ないのか、多くの墓が朽ちていた。

また、下の大きな墓とは大違いで、小さい墓石が多かった。
「この辺やっけどなぁ」と叔父が示した辺りは、墓石の足元の地面が半分崩れていた。
「よう探さんば、かっかえとー(落ちている)かも知れん」そういいながら皆で探したが、なかなか無かった。
私は足元が緩くなっているため、用心して下を覗いた。墓地の下は針葉樹が植わった斜面で、あまり良く見えなかったが、何か無いかと身を乗り出した。

とたん、私の足元が滑り、私は斜面を滑って落ちてしまった。
「なんしよっとか、危なかたい」と叔父は斜面の途中でこらえている私に声を掛けたが、斜面の途中で私との中間ほどにある埋もれた墓石を見つけ、その石を確認するように言った。
私は滑る斜面に苦労しながらもその石にたどり着き、泥を手でどかしながら刻まれた文字を読んだ。

はたして、その墓石は前のじいちゃんの物だった。

叔父は私に手を貸して引き上げた後、墓石を引き上げ、その墓石があったと思われる辺りを少し掘った。
そうすると割れた骨壷が見つかった。
骨壷には名前が書いてなかったが、他の墓と墓石の数を数えたりして、叔父は間違いないと確信し、その骨壷と割れた箇所からこぼれたと思われる土まみれの骨を拾った。

家に戻り、お骨を祖母に渡しながら、「やっぱいユミば連れて行って良かったばい」と行った。
祖母は「そうね、役にたったね」と問い、叔父から墓が見つかった経緯を聞いた。
「やっぱい、血の繋がっとうけんね。こがん時教えらすとかも知れんたい」と言った。

年寄りは迷信深く、何でも霊のせいや、妖怪や物の怪のせいにしたりする。
祖母は特にそういった事を強く信じていた。
おかげで、普段なら服を汚すととても叱られたのだが、その日はドロドロになった私に黙って着替えを出してくれた。

そうして前のじいちゃんの骨は新しいお寺の納骨堂に後のじいちゃんと仲良く一緒に葬られることになった。

納骨堂は分厚い扉を開けると正面に大きな観音様の立像があり、小さい3段ほどの戸棚が通路と壁を作っていた。
祖父達の棚は入って右側奥の下段だったと記憶している。
お彼岸やお盆や命日にはお参りに行っていたはずなのに、その場所がいっこうに覚えられなくて、私は毎回探したものだ。
納骨堂の古い木の匂いと線香が染み付いた匂いは入ったとたん、いつも私を不安にさせた。
入るといつも複数の誰かに見られている様な気がして落ち着かなかった。

祖母が亡くなった時、四十九日に叔父達と一緒に納骨をしに来た。
久しぶりに入った納骨堂は相変わらず古い木の匂いと、線香の匂いがした。
でも特に視線は感じなかった。大人になって感受性が減ったからなのだろうか。
小さい扉の中に骨壷を三つも入れるとギュウギュウで、ちょっと可哀相な気がしたがそこは我慢して貰うしか仕方ない。

その後、叔父が「お参りが大変だから」と言う理由で埼玉の自宅の近くの霊園にお墓を建てた。
最初の祖父にしてみたら二度目の引越しだ。
今回は全員飛行機で移動だ。
もし魂があって、祖父達の魂がまだ近くに居たとしたら何と言っただろう。
最初の祖父は「今度こそ落ち着くんだろうね」と思ったかもしれない。

墓を引越しした事でもうあの納骨堂には行くことが無くなった。

それはそれでちょっと寂しい気がしたが、他の色んな記憶と同じ様に、田舎に置き去りにするしかない。

 

新しい霊園の墓は叔父達も入る事を見越してそれなりの大きさだった。
「今度はゆったりだね」と私は手をあわせた。
叔父は祖母が亡くなった時に仏壇も新しくしてくれていた。多分のあの像も位牌も過去帳も移したと思う。
結局三つの宗教が同居する奇妙な仏壇になっているのかもしれない。

父に、「あの仏像は叔父さん家にあるんだよね」と確認したが、「多分」としか帰って来なかった。
「お父さん貰えば良かったのに」と言ったら、「あれは俺の手に負えないから良いんだ」と言った。
そして、「あの像の事はタツオ(叔父)には黙っとけよ」と言われた。
「なんで」と聞くと、「何にも知らないほうがいい事もあるんだよ」と言って悪い顔をした。

実は私は叔父の家に行った事が無い。墓参りには行くが、仏壇に手をあわせたことが無いのだ。
行くべきかどうかと思った事もあるが、「ま、墓参りしてれば良いさ」と一度も行く機会が無かった。
あの仏像がちゃんと叔父の所にあることだけでも確認したいのだが、叔父に切り出せずにいる。
変に切り出して理由を聞かれても困るからだ。

今回ブログを書くことでしっかり思い出してしまった。
これは会いに行くべきなんだろう。
そう思うと何だか怖くなって、「すみませんが、もうしばらくお待ちください」と誰にって訳ではないが心で念じてみるのだ。

 

蛙と言えば・・・・

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ブログを書くようになって一つの事柄から別の記憶が呼び起こされる。不思議だ。
続けたらボケ防止になるななどと我ながら感心している。

蛙と言えば思い出した事がある。
小学校の理科の時間で蛙の解剖をやることになった。

「来週は蛙の解剖ばすっけん、班で蛙ば持ってくるごと」と先生が言った。
「おー、おいね、捕まえっと得意かばい」と自慢する男子や、「捕まえきれるかわからん」と言う女子などがいた。
そこで手を挙げて発言したのがN君だ。
「先生、おいが皆の分捕まえてくるばい、うちの田んぼにようけおるけん」と言った。
普段は大人しいN君が自分から手を挙げて皆の分の蛙を用意すると宣言したことに先生は驚き、又喜んで、
「そいぎ、N君に頼もうかな、皆良かったたい、N君にお礼ば言うごと」と褒めた。
皆は口々にお礼を言った。
N君は照れくさそうに、「まかせんしゃい」と頭を掻いた。

次の週、いつも早めに教室にいるN君がいつもより遅かった。
仲のいい男子が「どがんしたとちゅ、休みやろか」
「いや、蛙の重たかとやなかか」などと話しをしていた。

ホームルームが始まる少し前、N君が教室に来た。お父さんと一緒だ。
お父さんは大きなポリバケツを重たそうに運び込んで、帰って行った。

ポリバケツは普段は農薬を溶かす為に使われるような黄色の大きな物だ。
都会では水色のゴミバケツくらいの一回り大きい位の大きさを思い浮かべて欲しい。

N君は誇らしげに、「重かったけん、父ちゃんに車で運んでもろうたとばい」と言った。
男子が蓋を開けると、そこには予測どおり蛙が入っていた。
ウシガエルと言われる大きな蛙だ。

ホームルームの時間になり先生が入って来た。
「先生、蛙のよんにゅか(沢山)ばい」と誰かが言った。
先生は教室の後ろまで来てバケツを覗き込み、一瞬怯んだ様に見えたが、
「N~、こがんは要らんばい。班に一匹で良かったと」と先生は笑いを堪えながら優しく言った。
N君はちょっとびっくりした後、「おい、一人一匹て思いよった、昨日一日頑張って獲ったとに」と哀しそうに言った。
先生は隣のクラスに蛙が必要か聞きに行った。幸い隣のクラスは明日が解剖の日だったのでまだ準備していないとの事で、
私のクラスと隣のクラス併せて15匹ほどの蛙は使うことになった。
先生はバケツやら、水槽やらをかき集めて、解剖用の蛙を選びだし、残りは逃がしてくるようにN君に言った。
N君は残念そうに「はい」と答え、数人の男子達と蛙達を学校の裏の田んぼとの堺になっている用水路に捨てに行った。

蛙は全部で50匹ほどいたらしい。
バケツはいっぱいで、下のほうの蛙は既に死んでいるものもいたと手伝った男子が言っていた。
それでも解放された蛙は元気よく田んぼに帰って行ったと言う。

解剖の時間までN君はしょげていたが、解剖を始める前に先生が
「頑張ってくれたN君に改めてお礼ば言うばい」と皆で声をそろえて「N君ありがとう」と言い、
「そして、命をくれる蛙と、死んでしまった蛙に合掌」と手をあわせた。

近年では解剖はやらないらしいが、私が子どもの頃はフナの解剖と蛙の解剖を経験している。
勿論フナも自分達で調達した。ホームルームの時間を使って、近所の川に釣りに行った。
釣れたかどうかは記憶に無いが、解剖はした記憶がある。
旦那は都会の小学生だったためか、区の施設まで行き、ネズミの解剖をしたことがあると言っていた。
ネズミは小学校で行うには衛生面的にも大変なのだろう。保健所のような所だったと言っていたが、流石都会は違うなと思う。

理科の時間が減らされていて、解剖にも賛否両論ある昨今だが、私達はこうして命の大切さを学んだような気がする。

ちなみに食用カエルはウシガエルだ。田舎には沢山居た。モーモー鳴いていたっけ。
しかし、解剖が唐揚げの後で良かった。解剖が先立ったら唐揚げを吐き出してしまったかもしれない。

カエルを食すと言うと、ゲテモノ喰いみたいに思われるが、カエルやヘビの方が古来から食されていて、
実は豚や牛を食べるほうが、150年くらい前まではゲテモノ喰いと言われていたのだ。

花札の一枚にもなっている小野 道風(おの の みちかぜ)の柳とカエルの逸話も、もしかしたら
「あー腹減ったなぁ」なんて最初は思ったのかも知れない。

棟上とビッキ

びいま友人が家を建てている。来月には完成するらしい。
人の家なのにとても待ち遠しい。東京に家を建てるというのは凄いことだと思う。
家を建てると言う事は最大の夢だ。娘でさえ、「宝くじが当たったらー、私の部屋はこんな風にして・・・」などと、時折妄想に捕り憑かれる。
古今東西、新築の家と言うのは憧れの的だ。

 

子どもの頃、みっこちゃん家が建て増しをする事になった。
元々大きい農家だったが、母屋の一部の改装とともに、二階を建て増しするそうだ。
私は毎日の様にみっこちゃん家の普請の様子を見に行き、大工さんの手元を眺めた。
木の匂いが充満してそれだけで幸せな気分になった。

 

ある日、祖母が「明日はみっこちゃん家の棟上やっけん、朝から行くけんね」と言われた。
「棟上てなんね、なんでかあちゃんが行くと?」
「棟上てゆうたら家の骨組みが出来上がるとばゆうと、そん時は餅ば撒くけん餅つきの手伝いやらご馳走やら作りにいくとばい」と説明してくれた。
餅とご馳走と聞いて私は喜んだ。田舎では葬式も餅つきも近所のおばちゃん達が集まって行う。
みっこちゃん家は大きな農家だったので、年末はみっこちゃん家で餅つきをするのが恒例だった。
しかし「棟上」という行事は始めてだった。

当日は手伝いに行く祖母と一緒に朝早くから出掛けた。
もち米を蒸かし、耕運機のエンジンを利用した餅つき機で搗き、おばちゃん達が総出で餅を丸める。
年末にはあんころ餅も作るのだが、今回は白餅だけだそうだ。
私は蒸したてのもち米が大好きで、蒸篭の端にくっついたもち米を拾って食べ、餅を丸めるのを手伝った。

「餅はこまく丸めんしゃい。今日は人の沢山来っけん、足らんごとなるけんばい」と言われみっこちゃんと二人せっせと小さめの餅を沢山丸めた。
「こいどがんすっと?」とみっこちゃんが聞くと、「夕方、モリちゃん(みっこちゃんのお父さん)が屋根から撒かすとばい」と教えられ
二人で顔を見合わせて驚いた。
出来上がった餅は大方固まった頃に一つづつ紙に包まれ、おひねりの山が出来上がった。

 

午後になり、あらかた準備が整ったので、おばちゃん達と遅いお昼を取ることになった。
座敷にはご馳走の準備がしてあったが、私達は台所と土間続きの食卓でご飯を食べた。
ほぼご馳走と同じような料理が並べられ、から揚げやフライがあった。
特に目を引いたのは足先にアルミホイルが撒きつけられた唐揚げだった。
「こい食べてよかと?」とみっこちゃんが聞いた。
「よかよ、食べんしゃい。唐揚げばい」と言われ、そのテレビでしか見たことないようなお洒落な唐揚げを二人は食べた。
唐揚げはとても美味しかった。二人とも「おいしかねー」を連発しながら2、3本ほど食べたとき、おばちゃんが言った。
「そがん美味しかね、そりゃそうたい、鶏肉より高っかとやもん」
「え、鶏肉やなかと?なんの肉ね」祖母はそう問う私にニヤニヤして、「アルミホイルば取ってみんしゃい」と言った。
アルミホイルを取ると見慣れないものが目に飛び込んだ。小さく開いた足だ。
「あ、こいビッキやなかと」とみっこちゃんが叫んだ。
「ほんなごて、ビッキんごた、こい何ね、ビッキね」と私も驚いた。
祖母は笑いながら「ビッキたい、食用蛙ばい」と言った。そして骨を持ったまま愕然としている二人に、
「今は蛙の方が高っかとば、昔は我がで(自分で)獲って食べよったとに」と教えてくれた。
「ほんなごてね、よう食べよったたい」と皆が頷きあうのを見て、
最初は「気持ち悪い」と思ったが、蛙を食べるのは普通の事で、今では珍しい食べ物なんだと気づくと「やっぱいおいしかね」と言い合った。
これが私の初めての蛙を食べた経験だった。

 

夕方前になって、大工さんたちはいつもより早くに作業を終了した。
外に出ると近所の人が大勢集まっていた。
こんなに大勢の人が集まるのは、お祭りくらいだ。
私もみっこちゃんと一緒に外に出て屋根の上を見上げた。

みっこちゃんのお父さんが大工さんと一緒に二階の屋根に登ったところだった。
そして、皆で作ったおひねりになった餅を掴み、盛大に投げた。
集まった人たちは我先にと餅を受け取り、拾い、みっこちゃん家の庭は大騒ぎだった。
庭にあった鶏小屋の中のチャボも大騒ぎだ。

私はみっこちゃんのお父さんを初めてかっこいいと思った。

 

棟上は無事に終わり近所の人たちはそれぞれ餅を貰って帰った。
祖母もいつの間にか割烹着の裾を持ち上げた中に餅を拾っていた。
「こいは明日お汁粉にすっけんね」と言われ私は棟上とはなんと素敵で美味しい行事なんだと思った。


しかし最近は棟上で餅を撒く風習は見かけなくなった。
都会では尚更だ。
大工さんたちに出前の寿司とお酒をご馳走して終わりらしい。
もしも、私が家を建てる事があったら、古式ゆかしく餅投げをしたいと思うのだが、それは夢また夢だ。

新築の家を建てている現場に行き会うとつい「地鎮祭はしたかな、棟上はいつかな」

と思ってしまう。

そして、もう味は忘れてしまったが、時々、みっこちゃんと初めて食べた蛙とそのとき見た小さな足と、みっこちゃんのお父さんの誇らしげな顔を思いだす。

 

 

三連休の収穫(おまけと言うかお詫びと言うか・・・)

私は大変な間違いを犯した。
先日書いた「三連休の収穫」の1と2の中で、「蛙の子は蛙」と表現したが、そのことわざは決して褒め言葉では無かった。
一度書いたものを修正するより、改めて訂正文として書くことにする。

私が言いたかったのは、親の才能を子が受け継ぐことが素晴らしいと言うことに他ならない。
しいて言うなら「青は藍より出でて藍より青し」だろうか?
別にことわざに拘るつもりは無いが、上記のことわざは時に「鳶が鷹を産む」と同じ様に使われているが、本当はそうではない。
又「鳶が~」の方は親が劣っている様に取られる。私が言いたいのはそうではないのだ。

青色の染料は、藍という原料から取れるが、ほおっておいても染料は取れない、難しい工程で抽出するらしい。
それによって、藍から取れた染料の青さは原料の藍よりも濃く、鮮やかになるのだ。
そういった事から、人にあてはめ、もともとの素質を、教育や努力でより高めた人のことを指すらしい。
いくら親から才能を受け継いだとしても本人の努力なしでは日の目を見ないのだ。
勿論、その努力の度合いは人によって違うかもしれない。
でも安穏としていては何も生まれないのは確かだ。
又、才能のある親を持つ子の苦悩もあるだろう。

きっとあの才能の影には人知れず苦悩と努力があるんだ。そう凡人である私は思いたい。

ことわざで思い出したが、祖母はよくことわざだか標語だかわからない事を言っいた。
きっと昔の人は皆そうだったんだろう。いや日本人が標語や語呂合わせが好きだ。きっと和歌や俳句の文化のせいだと思う。
第二次世界大戦の頃は特に標語が多かったと聞いている。(「欲しがりません勝までは」みたいな)

それはさておき、祖母が良く使っていたのは「早寝、早起き、早走り」だ。
「早走り」は出掛けにモタモタするなと言うことらしい。
その標語は時と場合によって変化する。
「早飯、早糞(失礼)、早走り」と言う風だ。
さっさと食べて、さっさと出して、出掛けるならさっさと出掛けろと言う事だ。
毎朝、半分寝ながら朝食を食べる娘と、出掛ける前になると必ず「あ、俺トイレ」と言って篭る旦那に言いたい。
ここにもし祖母が居たらな盛大に煽って急かしただろう。
「ほんなごってあんた達ゃーごっといんごと、のそのそして、早よーせんね、早飯、早糞、早走りばい!」

私は小さい頃から毎日のように祖母に言われ続け、おかげで、学校で便意をもようしても平気になった。
なぜなら、小の時の所要時間で大が出来るからだ。それはもう特技と言っていいと思っている。

小学生や中学生の頃は大でトイレに行くのがとても恥ずかしい事で、もし誰かに見つかったら大変な事になった。
女子はまだいい。常に個室だから。
男子は大変だ。個室に入ると上を確認しながらでないとおちおちしていられないと誰かが言っていた。
でも私は何食わぬ顔をして用を足す事ができた。
もちろん、体調が悪い時は別だ。不安でなかなか立ち上がれない。
そういう時は保健室に行き、誰も居ない授業中にゆっくり入るのだが、普通の時はこの特技が大いに役立った。

今でも勿論身についている。
大きな駅や、サービスエリアやコンサート会場で混雑したトイレでも何食わぬ顔して用を足す。
並んでいると、大体どの扉が長く閉まっているか判るのだ。
長く閉まっていたトイレに次に入るには一瞬勇気が必要だが、私の後の人はその勇気の準備も無く入ることになるので
少々気が引けるが、混雑したトイレはそれこそ「早糞」は美徳だと思う。

あぁ、すっかり脱線してしまったが、日本語は良く意味を知ってから使わないといけないと思った事と、
関係者に不快な気持ちにさせちゃったのでは?と思う気持ちで、お詫びを兼ねてみた。

お詫びになってないんじゃない?(心の中の自分の声)
そうかな、そうだね、シリメツだね(もう一人の心の中の自分)
いや、味噌糞じゃない?(心の中の自分の声)
・・・・・・・

三連休の収穫(2)/忘れないうちに書く第二弾

三連休最終日の12日は渋谷にある「アンティーク・ローズ」というカフェでのライブに出掛けた。
お目当ては杉山弘幸氏がギターを弾いている「バター・ドックBB」だ。

そもそも杉山さんと私の出会いは音楽だった。
確か初めて会ったのはライブハウスだったと思う。いや、スタジオだったかな。もう大分前の事で忘れてしまった。
最初私は杉山さんが怖かった。
誤解しないで欲しいが、杉山さんの見た目が怖いのではなく、後ろに控えている何かが怖かったのだ。
「近寄ったらヤバイ」と直感した。
しかし、その思いはある日完全に私の勘違いだった事に気づく。

ある日、バタードックのライブに知り合いの父兄も参加するということで聞きに行った。
ライブハウスと言うのは、大抵が地下にあり、音楽と欲望が渦巻き、色んな人とモノが集まる場所だ。

その日、本番直前、杉山さんが出番前にボーカルの小林大祐さんの背中を叩いたのを見た。
そうすると、何かが取れ、大祐さんの背中が明るくなったを視た気がした。

その後の打ち上げの席で杉山さんと話す機会があった。既に顔見知りではあったが、ちゃんと話のは始めてだったような気がする。
私は思い切って、大祐さんの背中を叩いて、何か祓ったのかと聞いた。
私の言葉に杉山さんは一瞬驚いたが、私の目をジーっとみて、「ああ、そういうことか」と言った。
その途端、杉山さんの後ろに控える何かがはっきり視えた。

その後、私たちは徐々に打ち解け、一緒にライブをやったりし、現在に至るのだが、この杉山さんとの間にも不思議な話があったりする。
その辺りは追々書いていくつもりだが、話を戻して12日のライブについて書こう。

12日のライブは杉山さんの大学の同級生のくみさんが率いる「スゴロク」で、杉山さんもギターで参加していた。
くみさんの歌声は優しい。いつもその歌声でほんわかした気分にさせてくれる。
12日は私は始めて聞くのだが、もう一人の別の女性ボーカリストと一緒に歌った。
そのボーカリストと一緒に歌うくみさんいつもとは違った感じに聴こえた。
杉山さんはというと、何やら妙に楽しそうに演奏していた。

二番手の出演は杉山さんの娘の「桃ちゃんBAND」だ。

彼女は凄い。
何が凄いって歌声と音域の幅と、音程の安定と、かもし出す雰囲気が凄いのだ。もうその歌声はプロだ。
巷で流れている若いグループの曲を歌ったとき、「あ、この歌ってこんなにいい歌なんだ、オリジナルのボーカルより好きだ」と思った。

又、作詞作曲も自分でこなし、ピアノのアレンジもつけ、さらっと披露して、「あ、オリジナルでした~」と来た。
何も気負っていなく、自然体で、ある意味天然の彼女の良さは、ライブの回を重ねても変わることなく、才能には益々磨きが掛かっていく。
そして私は又思うのだ。「蛙の子は蛙」なんだと。
リズムの取り方や、音の間の取り方が父親そっくりだ。
歌詞を書くのは母親譲りなんだと思う。
前言を撤回しよう、「蛙の子は蛙を超える」のだ。
とにかく彼女の将来が楽しみだ。

三番手が「バタードックBB」の演奏だ。
またまた杉山さんが登場し、すっかりギター小僧になった顔で演奏していた。
私はバタードックのボーカル、大祐さんの歌が大好きだ。彼の声も、パフォーマンスも好きだ。
勿論、杉山さんはギターがめちゃめちゃ上手いし、さすがプロと思わせる音色なのだが、この二人が揃った時の音楽は、どう表現すれば伝わるのか判らないが、とにかく良いのだ。
芸術を人に伝えるのは難しく、とにかく聴いて欲しいとしか言えない。

この日は「バタードック」時代の曲と、コピー曲を何曲か演奏してくれた。
最近レコーディングし、、Youtubeで動画をアップした「あらわれて笑って」と新曲の「セットリスト」もやってくれた。
「あらわれて笑って」は先日自分のブログで亡くなった友人の事を書いたばかりで、友人を思い出し、不覚にも号泣してしまった。
一緒に行った友人がそっとティッシュを渡してくれたが、私は歌の間中泣いていた。
きっと友人を思い出した心が、涙を流すことを欲求していたんだと思う。

大祐さんの歌声には心の琴線に触れる何かがある。

是非検索して聴いて欲しい。

 

杉山さんはと言うと、やっぱり始終ギター小僧だった。バタードックで演奏しているときが一番彼らしいのではないかと思う。

 

人のライブを観ると自分もやりたくなる。
さしあたっては11月に予定しているGospelライブが目標なのだが(実は私はGospelをもう何年も歌っているのだ)、GospelとRockをバンドでやるのは全然違う。
Gospelではコーラスをあわせる難しさと仕上がった時の迫力と達成感が醍醐味なのだが、人数が多い分問題も多いし、ライブ目前になると趣味でやっているはずなのに、苦行になってしまう。


そろそろライブ前練習が苦行になりつつある私は12日のライブを聴いて、むしょうにRockやPopsが唄いたくなった。
まあ、要は逃げだ。

 

12日は一緒に行った友人(彼女はGospel仲間であり、Band仲間でもあり、飲み仲間だ)とライブ後の感想を話したり、ため息ついたりの時間がとても楽しかった。

 

こんな風に三連休は終わってしまったが、実は次の11月の三連休も自分のGospelライブと、友人のライブが2個続いて音楽三昧の予定だ。

 

趣味が出来て、音楽に触れられる時間が取れるのは幸せな事だと思う。
そして音楽を通して色んな人と出会い、繋がっていけることも幸せなんだと思う。
家族や友人に改めて感謝だなと思えた三連休だった。

三連休の収穫(1)

段々と秋も深まり富士山では初冠雪のニュースを聞いた三連休。

私は都内でライブに行ったり、講演会に行ったりして過ごした。

 

講演会は杉山響子さんの「あの世のお話会」だ。

杉山響子さんは作家・佐藤愛子さんの娘だ。

こういう言い方をすると失礼かもしれないし、響子さんは嫌がるだろうが、「蛙の子は蛙」である。つくづく才能というのは持って生まれたものだと思う。

 

彼女との出会いはもう何年前だろうか、先にご主人の杉山弘幸氏に友人を通して出会い、その後奥様の響子さんに出会った。

響子さんの講演会は以前にも何度か聞きに行ったが、最初は少人数での講演会だった。

それが口コミで広まり、「あの世のお話し会」として講演会を定期的に行うと決まってからはいつも満席だそうだ。

 

響子さんはブログも書いている。「のろ猫プーデルのひゃっぺん飯」と言うタイトルで、これもまたとても面白い。

ブログを読むのが好きな友人に勧めているのだが、皆口をそろえて言う

「もうさ、困るんだけど!電車の中で読んで笑いが堪え切れず思わず噴出して、周りの人に変な顔されたんだから!」

そうなのだ、響子さんのブログは面白すぎて危険なのだ。くれぐれも閲覧注意で是非読んで欲しい。ただし、電車の中で噴いても私は一切関知しないためご了承あれ。

 

私もブログを始めたが、響子さんの様な文章はとても書けない。

そもそも土壌が違うのだから仕方ないが、たまには「ぶぶーっ!」と吹かせる様な文を書いてみたいと羨望している。

 

その響子さんの講演会もこれまた面白いのだ。

「あの世のお話し会」なのでタイトル通り、「人は死んだらどうなるのか、今生きているのはなんのためか、そしてどう生きていくのか」などをテーマにアシスタントのNaoさん(Naoさんは霊能者なのだ)との対話型で進んでいく。

内容については上手く伝える自信が無いのだが、いつもNaoさんには視えるが響子さんには視えないので、視える人からしたらかなり無謀な行動を取ってしまうらしい。

今回はパワースポットと呼ばれる場所にNaoさんと行き、怪しげなものと出くわしたが、視えない響子さんは例のごとく「だって視たいじゃない!」と好奇心旺盛に行動し、Naoさんしては堪ったモンじゃなかったという、そんな二人の珍道中の話で大いに沸かせた。

 

勿論それだけではない。

講演会で聞いた中でとても印象に残った話しがある。

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」についてだ。

かの有名な詩は日本人なら誰もが義務教育の時代に習う。そして先生は必ず「宮沢賢治のような立派な人になりましょう」と言うのだ。

しかし、響子さんはこう言った「『ソウイウ人ニ私ハナリタイ』と締めくくった宮沢賢治はそういう人ではなかったって事で、とても人間らしい」と

「あの詩は宮沢賢治の、そう成りたいとの希望で、そういう心がけを持って生きていくことに意味があると言いたかったのではないか」と。

確かにそうだ、あの詩のような人間になることは難しい。だから宮沢賢治も「ソウナリタイ」と締めくくったのだ。

 

響子さんはこうも言った。

東日本大震災の時の日本人は本来持っている他人への思いやりの心を持ってあの震災を乗り切った。犠牲も大きかったが得るものもあった」

「あれから4年しか経っていないのに、また凄惨な事件が起きている昨今。思いやりや慈悲の心を育てて行かないと益々日本は荒んだ国になってしまうだろうと危惧してやまない」と

参加した誰もが考えさせられた時間だった。

 

講演会の最後、宮沢賢治の詩ではなく、別の人物が書いた名言で、「よければトイレに貼ってください」と響子さんが書き写したという紙を貰ってくるのを忘れた。

誰の名言だったかも覚えていないので、得意のネットで検索する事も出来ない。

誰か知っている人が居たら是非教えて欲しい。

 

残念な事に響子さんの「あの世のお話し会」はあと一回で終了になる。次回は12月を予定しているそうだ。その後の予定は今のところ無いと言っていた。

次回参加出来るかどうかわからないが、またいつか講演会を開いて欲しいと思う。

 

そして、ブログの方も暫く休止すると言っていた。

こちらは終了ではなく休止と言うことだが、いつ再開するかはわからない。

私としては本にして欲しいと願っているのだが。

 

三連休の一日目は、心にほんわかと何かを思い出させてくれた収穫ある一日だった。