碧い鱗

青が好きです。魚の体を覆っている鱗の様に今の私を形成している想いでや出来事をチラチラと散りばめて書こうかと・・・

棟上とビッキ

びいま友人が家を建てている。来月には完成するらしい。
人の家なのにとても待ち遠しい。東京に家を建てるというのは凄いことだと思う。
家を建てると言う事は最大の夢だ。娘でさえ、「宝くじが当たったらー、私の部屋はこんな風にして・・・」などと、時折妄想に捕り憑かれる。
古今東西、新築の家と言うのは憧れの的だ。

 

子どもの頃、みっこちゃん家が建て増しをする事になった。
元々大きい農家だったが、母屋の一部の改装とともに、二階を建て増しするそうだ。
私は毎日の様にみっこちゃん家の普請の様子を見に行き、大工さんの手元を眺めた。
木の匂いが充満してそれだけで幸せな気分になった。

 

ある日、祖母が「明日はみっこちゃん家の棟上やっけん、朝から行くけんね」と言われた。
「棟上てなんね、なんでかあちゃんが行くと?」
「棟上てゆうたら家の骨組みが出来上がるとばゆうと、そん時は餅ば撒くけん餅つきの手伝いやらご馳走やら作りにいくとばい」と説明してくれた。
餅とご馳走と聞いて私は喜んだ。田舎では葬式も餅つきも近所のおばちゃん達が集まって行う。
みっこちゃん家は大きな農家だったので、年末はみっこちゃん家で餅つきをするのが恒例だった。
しかし「棟上」という行事は始めてだった。

当日は手伝いに行く祖母と一緒に朝早くから出掛けた。
もち米を蒸かし、耕運機のエンジンを利用した餅つき機で搗き、おばちゃん達が総出で餅を丸める。
年末にはあんころ餅も作るのだが、今回は白餅だけだそうだ。
私は蒸したてのもち米が大好きで、蒸篭の端にくっついたもち米を拾って食べ、餅を丸めるのを手伝った。

「餅はこまく丸めんしゃい。今日は人の沢山来っけん、足らんごとなるけんばい」と言われみっこちゃんと二人せっせと小さめの餅を沢山丸めた。
「こいどがんすっと?」とみっこちゃんが聞くと、「夕方、モリちゃん(みっこちゃんのお父さん)が屋根から撒かすとばい」と教えられ
二人で顔を見合わせて驚いた。
出来上がった餅は大方固まった頃に一つづつ紙に包まれ、おひねりの山が出来上がった。

 

午後になり、あらかた準備が整ったので、おばちゃん達と遅いお昼を取ることになった。
座敷にはご馳走の準備がしてあったが、私達は台所と土間続きの食卓でご飯を食べた。
ほぼご馳走と同じような料理が並べられ、から揚げやフライがあった。
特に目を引いたのは足先にアルミホイルが撒きつけられた唐揚げだった。
「こい食べてよかと?」とみっこちゃんが聞いた。
「よかよ、食べんしゃい。唐揚げばい」と言われ、そのテレビでしか見たことないようなお洒落な唐揚げを二人は食べた。
唐揚げはとても美味しかった。二人とも「おいしかねー」を連発しながら2、3本ほど食べたとき、おばちゃんが言った。
「そがん美味しかね、そりゃそうたい、鶏肉より高っかとやもん」
「え、鶏肉やなかと?なんの肉ね」祖母はそう問う私にニヤニヤして、「アルミホイルば取ってみんしゃい」と言った。
アルミホイルを取ると見慣れないものが目に飛び込んだ。小さく開いた足だ。
「あ、こいビッキやなかと」とみっこちゃんが叫んだ。
「ほんなごて、ビッキんごた、こい何ね、ビッキね」と私も驚いた。
祖母は笑いながら「ビッキたい、食用蛙ばい」と言った。そして骨を持ったまま愕然としている二人に、
「今は蛙の方が高っかとば、昔は我がで(自分で)獲って食べよったとに」と教えてくれた。
「ほんなごてね、よう食べよったたい」と皆が頷きあうのを見て、
最初は「気持ち悪い」と思ったが、蛙を食べるのは普通の事で、今では珍しい食べ物なんだと気づくと「やっぱいおいしかね」と言い合った。
これが私の初めての蛙を食べた経験だった。

 

夕方前になって、大工さんたちはいつもより早くに作業を終了した。
外に出ると近所の人が大勢集まっていた。
こんなに大勢の人が集まるのは、お祭りくらいだ。
私もみっこちゃんと一緒に外に出て屋根の上を見上げた。

みっこちゃんのお父さんが大工さんと一緒に二階の屋根に登ったところだった。
そして、皆で作ったおひねりになった餅を掴み、盛大に投げた。
集まった人たちは我先にと餅を受け取り、拾い、みっこちゃん家の庭は大騒ぎだった。
庭にあった鶏小屋の中のチャボも大騒ぎだ。

私はみっこちゃんのお父さんを初めてかっこいいと思った。

 

棟上は無事に終わり近所の人たちはそれぞれ餅を貰って帰った。
祖母もいつの間にか割烹着の裾を持ち上げた中に餅を拾っていた。
「こいは明日お汁粉にすっけんね」と言われ私は棟上とはなんと素敵で美味しい行事なんだと思った。


しかし最近は棟上で餅を撒く風習は見かけなくなった。
都会では尚更だ。
大工さんたちに出前の寿司とお酒をご馳走して終わりらしい。
もしも、私が家を建てる事があったら、古式ゆかしく餅投げをしたいと思うのだが、それは夢また夢だ。

新築の家を建てている現場に行き会うとつい「地鎮祭はしたかな、棟上はいつかな」

と思ってしまう。

そして、もう味は忘れてしまったが、時々、みっこちゃんと初めて食べた蛙とそのとき見た小さな足と、みっこちゃんのお父さんの誇らしげな顔を思いだす。

 

 

三連休の収穫(おまけと言うかお詫びと言うか・・・)

私は大変な間違いを犯した。
先日書いた「三連休の収穫」の1と2の中で、「蛙の子は蛙」と表現したが、そのことわざは決して褒め言葉では無かった。
一度書いたものを修正するより、改めて訂正文として書くことにする。

私が言いたかったのは、親の才能を子が受け継ぐことが素晴らしいと言うことに他ならない。
しいて言うなら「青は藍より出でて藍より青し」だろうか?
別にことわざに拘るつもりは無いが、上記のことわざは時に「鳶が鷹を産む」と同じ様に使われているが、本当はそうではない。
又「鳶が~」の方は親が劣っている様に取られる。私が言いたいのはそうではないのだ。

青色の染料は、藍という原料から取れるが、ほおっておいても染料は取れない、難しい工程で抽出するらしい。
それによって、藍から取れた染料の青さは原料の藍よりも濃く、鮮やかになるのだ。
そういった事から、人にあてはめ、もともとの素質を、教育や努力でより高めた人のことを指すらしい。
いくら親から才能を受け継いだとしても本人の努力なしでは日の目を見ないのだ。
勿論、その努力の度合いは人によって違うかもしれない。
でも安穏としていては何も生まれないのは確かだ。
又、才能のある親を持つ子の苦悩もあるだろう。

きっとあの才能の影には人知れず苦悩と努力があるんだ。そう凡人である私は思いたい。

ことわざで思い出したが、祖母はよくことわざだか標語だかわからない事を言っいた。
きっと昔の人は皆そうだったんだろう。いや日本人が標語や語呂合わせが好きだ。きっと和歌や俳句の文化のせいだと思う。
第二次世界大戦の頃は特に標語が多かったと聞いている。(「欲しがりません勝までは」みたいな)

それはさておき、祖母が良く使っていたのは「早寝、早起き、早走り」だ。
「早走り」は出掛けにモタモタするなと言うことらしい。
その標語は時と場合によって変化する。
「早飯、早糞(失礼)、早走り」と言う風だ。
さっさと食べて、さっさと出して、出掛けるならさっさと出掛けろと言う事だ。
毎朝、半分寝ながら朝食を食べる娘と、出掛ける前になると必ず「あ、俺トイレ」と言って篭る旦那に言いたい。
ここにもし祖母が居たらな盛大に煽って急かしただろう。
「ほんなごってあんた達ゃーごっといんごと、のそのそして、早よーせんね、早飯、早糞、早走りばい!」

私は小さい頃から毎日のように祖母に言われ続け、おかげで、学校で便意をもようしても平気になった。
なぜなら、小の時の所要時間で大が出来るからだ。それはもう特技と言っていいと思っている。

小学生や中学生の頃は大でトイレに行くのがとても恥ずかしい事で、もし誰かに見つかったら大変な事になった。
女子はまだいい。常に個室だから。
男子は大変だ。個室に入ると上を確認しながらでないとおちおちしていられないと誰かが言っていた。
でも私は何食わぬ顔をして用を足す事ができた。
もちろん、体調が悪い時は別だ。不安でなかなか立ち上がれない。
そういう時は保健室に行き、誰も居ない授業中にゆっくり入るのだが、普通の時はこの特技が大いに役立った。

今でも勿論身についている。
大きな駅や、サービスエリアやコンサート会場で混雑したトイレでも何食わぬ顔して用を足す。
並んでいると、大体どの扉が長く閉まっているか判るのだ。
長く閉まっていたトイレに次に入るには一瞬勇気が必要だが、私の後の人はその勇気の準備も無く入ることになるので
少々気が引けるが、混雑したトイレはそれこそ「早糞」は美徳だと思う。

あぁ、すっかり脱線してしまったが、日本語は良く意味を知ってから使わないといけないと思った事と、
関係者に不快な気持ちにさせちゃったのでは?と思う気持ちで、お詫びを兼ねてみた。

お詫びになってないんじゃない?(心の中の自分の声)
そうかな、そうだね、シリメツだね(もう一人の心の中の自分)
いや、味噌糞じゃない?(心の中の自分の声)
・・・・・・・

三連休の収穫(2)/忘れないうちに書く第二弾

三連休最終日の12日は渋谷にある「アンティーク・ローズ」というカフェでのライブに出掛けた。
お目当ては杉山弘幸氏がギターを弾いている「バター・ドックBB」だ。

そもそも杉山さんと私の出会いは音楽だった。
確か初めて会ったのはライブハウスだったと思う。いや、スタジオだったかな。もう大分前の事で忘れてしまった。
最初私は杉山さんが怖かった。
誤解しないで欲しいが、杉山さんの見た目が怖いのではなく、後ろに控えている何かが怖かったのだ。
「近寄ったらヤバイ」と直感した。
しかし、その思いはある日完全に私の勘違いだった事に気づく。

ある日、バタードックのライブに知り合いの父兄も参加するということで聞きに行った。
ライブハウスと言うのは、大抵が地下にあり、音楽と欲望が渦巻き、色んな人とモノが集まる場所だ。

その日、本番直前、杉山さんが出番前にボーカルの小林大祐さんの背中を叩いたのを見た。
そうすると、何かが取れ、大祐さんの背中が明るくなったを視た気がした。

その後の打ち上げの席で杉山さんと話す機会があった。既に顔見知りではあったが、ちゃんと話のは始めてだったような気がする。
私は思い切って、大祐さんの背中を叩いて、何か祓ったのかと聞いた。
私の言葉に杉山さんは一瞬驚いたが、私の目をジーっとみて、「ああ、そういうことか」と言った。
その途端、杉山さんの後ろに控える何かがはっきり視えた。

その後、私たちは徐々に打ち解け、一緒にライブをやったりし、現在に至るのだが、この杉山さんとの間にも不思議な話があったりする。
その辺りは追々書いていくつもりだが、話を戻して12日のライブについて書こう。

12日のライブは杉山さんの大学の同級生のくみさんが率いる「スゴロク」で、杉山さんもギターで参加していた。
くみさんの歌声は優しい。いつもその歌声でほんわかした気分にさせてくれる。
12日は私は始めて聞くのだが、もう一人の別の女性ボーカリストと一緒に歌った。
そのボーカリストと一緒に歌うくみさんいつもとは違った感じに聴こえた。
杉山さんはというと、何やら妙に楽しそうに演奏していた。

二番手の出演は杉山さんの娘の「桃ちゃんBAND」だ。

彼女は凄い。
何が凄いって歌声と音域の幅と、音程の安定と、かもし出す雰囲気が凄いのだ。もうその歌声はプロだ。
巷で流れている若いグループの曲を歌ったとき、「あ、この歌ってこんなにいい歌なんだ、オリジナルのボーカルより好きだ」と思った。

又、作詞作曲も自分でこなし、ピアノのアレンジもつけ、さらっと披露して、「あ、オリジナルでした~」と来た。
何も気負っていなく、自然体で、ある意味天然の彼女の良さは、ライブの回を重ねても変わることなく、才能には益々磨きが掛かっていく。
そして私は又思うのだ。「蛙の子は蛙」なんだと。
リズムの取り方や、音の間の取り方が父親そっくりだ。
歌詞を書くのは母親譲りなんだと思う。
前言を撤回しよう、「蛙の子は蛙を超える」のだ。
とにかく彼女の将来が楽しみだ。

三番手が「バタードックBB」の演奏だ。
またまた杉山さんが登場し、すっかりギター小僧になった顔で演奏していた。
私はバタードックのボーカル、大祐さんの歌が大好きだ。彼の声も、パフォーマンスも好きだ。
勿論、杉山さんはギターがめちゃめちゃ上手いし、さすがプロと思わせる音色なのだが、この二人が揃った時の音楽は、どう表現すれば伝わるのか判らないが、とにかく良いのだ。
芸術を人に伝えるのは難しく、とにかく聴いて欲しいとしか言えない。

この日は「バタードック」時代の曲と、コピー曲を何曲か演奏してくれた。
最近レコーディングし、、Youtubeで動画をアップした「あらわれて笑って」と新曲の「セットリスト」もやってくれた。
「あらわれて笑って」は先日自分のブログで亡くなった友人の事を書いたばかりで、友人を思い出し、不覚にも号泣してしまった。
一緒に行った友人がそっとティッシュを渡してくれたが、私は歌の間中泣いていた。
きっと友人を思い出した心が、涙を流すことを欲求していたんだと思う。

大祐さんの歌声には心の琴線に触れる何かがある。

是非検索して聴いて欲しい。

 

杉山さんはと言うと、やっぱり始終ギター小僧だった。バタードックで演奏しているときが一番彼らしいのではないかと思う。

 

人のライブを観ると自分もやりたくなる。
さしあたっては11月に予定しているGospelライブが目標なのだが(実は私はGospelをもう何年も歌っているのだ)、GospelとRockをバンドでやるのは全然違う。
Gospelではコーラスをあわせる難しさと仕上がった時の迫力と達成感が醍醐味なのだが、人数が多い分問題も多いし、ライブ目前になると趣味でやっているはずなのに、苦行になってしまう。


そろそろライブ前練習が苦行になりつつある私は12日のライブを聴いて、むしょうにRockやPopsが唄いたくなった。
まあ、要は逃げだ。

 

12日は一緒に行った友人(彼女はGospel仲間であり、Band仲間でもあり、飲み仲間だ)とライブ後の感想を話したり、ため息ついたりの時間がとても楽しかった。

 

こんな風に三連休は終わってしまったが、実は次の11月の三連休も自分のGospelライブと、友人のライブが2個続いて音楽三昧の予定だ。

 

趣味が出来て、音楽に触れられる時間が取れるのは幸せな事だと思う。
そして音楽を通して色んな人と出会い、繋がっていけることも幸せなんだと思う。
家族や友人に改めて感謝だなと思えた三連休だった。

三連休の収穫(1)

段々と秋も深まり富士山では初冠雪のニュースを聞いた三連休。

私は都内でライブに行ったり、講演会に行ったりして過ごした。

 

講演会は杉山響子さんの「あの世のお話会」だ。

杉山響子さんは作家・佐藤愛子さんの娘だ。

こういう言い方をすると失礼かもしれないし、響子さんは嫌がるだろうが、「蛙の子は蛙」である。つくづく才能というのは持って生まれたものだと思う。

 

彼女との出会いはもう何年前だろうか、先にご主人の杉山弘幸氏に友人を通して出会い、その後奥様の響子さんに出会った。

響子さんの講演会は以前にも何度か聞きに行ったが、最初は少人数での講演会だった。

それが口コミで広まり、「あの世のお話し会」として講演会を定期的に行うと決まってからはいつも満席だそうだ。

 

響子さんはブログも書いている。「のろ猫プーデルのひゃっぺん飯」と言うタイトルで、これもまたとても面白い。

ブログを読むのが好きな友人に勧めているのだが、皆口をそろえて言う

「もうさ、困るんだけど!電車の中で読んで笑いが堪え切れず思わず噴出して、周りの人に変な顔されたんだから!」

そうなのだ、響子さんのブログは面白すぎて危険なのだ。くれぐれも閲覧注意で是非読んで欲しい。ただし、電車の中で噴いても私は一切関知しないためご了承あれ。

 

私もブログを始めたが、響子さんの様な文章はとても書けない。

そもそも土壌が違うのだから仕方ないが、たまには「ぶぶーっ!」と吹かせる様な文を書いてみたいと羨望している。

 

その響子さんの講演会もこれまた面白いのだ。

「あの世のお話し会」なのでタイトル通り、「人は死んだらどうなるのか、今生きているのはなんのためか、そしてどう生きていくのか」などをテーマにアシスタントのNaoさん(Naoさんは霊能者なのだ)との対話型で進んでいく。

内容については上手く伝える自信が無いのだが、いつもNaoさんには視えるが響子さんには視えないので、視える人からしたらかなり無謀な行動を取ってしまうらしい。

今回はパワースポットと呼ばれる場所にNaoさんと行き、怪しげなものと出くわしたが、視えない響子さんは例のごとく「だって視たいじゃない!」と好奇心旺盛に行動し、Naoさんしては堪ったモンじゃなかったという、そんな二人の珍道中の話で大いに沸かせた。

 

勿論それだけではない。

講演会で聞いた中でとても印象に残った話しがある。

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」についてだ。

かの有名な詩は日本人なら誰もが義務教育の時代に習う。そして先生は必ず「宮沢賢治のような立派な人になりましょう」と言うのだ。

しかし、響子さんはこう言った「『ソウイウ人ニ私ハナリタイ』と締めくくった宮沢賢治はそういう人ではなかったって事で、とても人間らしい」と

「あの詩は宮沢賢治の、そう成りたいとの希望で、そういう心がけを持って生きていくことに意味があると言いたかったのではないか」と。

確かにそうだ、あの詩のような人間になることは難しい。だから宮沢賢治も「ソウナリタイ」と締めくくったのだ。

 

響子さんはこうも言った。

東日本大震災の時の日本人は本来持っている他人への思いやりの心を持ってあの震災を乗り切った。犠牲も大きかったが得るものもあった」

「あれから4年しか経っていないのに、また凄惨な事件が起きている昨今。思いやりや慈悲の心を育てて行かないと益々日本は荒んだ国になってしまうだろうと危惧してやまない」と

参加した誰もが考えさせられた時間だった。

 

講演会の最後、宮沢賢治の詩ではなく、別の人物が書いた名言で、「よければトイレに貼ってください」と響子さんが書き写したという紙を貰ってくるのを忘れた。

誰の名言だったかも覚えていないので、得意のネットで検索する事も出来ない。

誰か知っている人が居たら是非教えて欲しい。

 

残念な事に響子さんの「あの世のお話し会」はあと一回で終了になる。次回は12月を予定しているそうだ。その後の予定は今のところ無いと言っていた。

次回参加出来るかどうかわからないが、またいつか講演会を開いて欲しいと思う。

 

そして、ブログの方も暫く休止すると言っていた。

こちらは終了ではなく休止と言うことだが、いつ再開するかはわからない。

私としては本にして欲しいと願っているのだが。

 

三連休の一日目は、心にほんわかと何かを思い出させてくれた収穫ある一日だった。

 

じいちゃんの遺品

じいちゃんの遺品を整理する事になった。といっても昔の人は荷物が少ない。

礼服用の着物と、普段着位しか無かったが、押入れの置くにとんでもないものが隠してあった。

 

祖母が押入れから次々と物を出し、私と大叔父が座敷で受け取っていたら、「ひゃー」と押入れから叫び声が聞こえた。

祖母は慌てて押入れから這いずり出て、大叔父に捕まって震えながら、「お、奥に、奥に・・・」と指を差した。

大叔父が入って出てくると、手には一升瓶が握られていた。

それはマムシ酒だった。

祖母が蛇が大嫌いで、「これか?」と大叔父が差し出した瓶を直視せず、腰を抜かした格好であとすざりした。

「はよー捨ててこんね!」と祖母は叫んだが、大叔父は「これは売れるったい。おいが持って帰るけん」と風呂敷に包んだ。

 

一升瓶は飲んだ形跡は無かったらしい。私もまじまじと見たわけでは無かったが、蛇が上向きで、とぐろを巻いて沈んでいた。

「ヨシオさん(じいちゃんの名前)が作らしたとやろか?」と大叔父は不思議がったが、祖母は「こがんとば隠して」と怒っていた。

 

謎はすぐ解けた。

三角形に隣り合った家のみっこちゃんのじいちゃんと、私のじいちゃんと、みなえちゃんの大叔父にあたる人と三人で良く酒を飲んだり、マージャンしたりして、仲良しだった。

みなえちゃんの大叔父さんは私のじいちゃんが死ぬ一年ほど前に亡くなっていた。

私は原因を知らなかったが、私のじいちゃんとみっこちゃんのじいちゃんはかなり落胆したらしい。

その頃、じいちゃんは体調不良を覚えていたらしい。そこで、みっこちゃんのじいちゃんがマムシ酒を拵えて渡したらしいのだが、大の蛇嫌いの祖母の前に出すことが出来ず、押入れの奥に仕舞ったようだ。(寝かす意味もあったかもしれない)

 

みっこちゃんのじいちゃんは、みなえちゃんのじいちゃんが亡くなって、更に私のじいちゃんまで体調が悪くなって死なれたら寂しくて仕方ないから、祖母の蛇嫌いは知っていたが、何とか元気になって欲しいと自分でマムシを捕まえて作ったらしい。

 

みっこちゃんのじいちゃんは祖母に謝ったらしい。祖母は最初は「あんな物」と言って怒っていたが、みっこちゃんのじいちゃんの気持ちと、私のじいちゃんの気遣いに気づき、「そがんならそうと、言うてくれるぎ良かったとに、マムシ酒を飲んで長生き出来るとやったら、おいは我慢したとに」と泣いた。

 

祖母はじいちゃんが亡くなってから涙もろくなっていた。

 

みっこちゃんのじいちゃんは私のじいちゃんが死んでから元気を無くし、結局それから一年もしないうちに亡くなった。大イビキをかいたまま亡くなったそうだ。多分脳の病気だろうと今ならわかる。

葬式の日、農家で広いみっこちゃんの家で遅くまでおばちゃん達が話していた。

「やっぱい、呼ばしたとかね」

「寂しか、寂しかて言いよらしたけんね」

「今頃三人で飲みよらすばいね」

皆は私のじいちゃんが亡くなった時から予測していたかの様に話しをしていた。なので、葬式だったがなんとなくほんわかした空気が漂っていた。

 

あのマムシ酒は売れて、そこそこの金額がついたらしい。それと皮のケースに入った古いカメラが二台もあったが、それは父の弟が形見として受け取った。

一台は普通のカメラで、もう一台は上から覗くタイプのカメラだったと記憶している。

私はじいちゃんがカメラを持っていた事に驚いたが、考えてみたら私の写真は二人に引き取られた頃からある。

 

じいちゃんの遺品はわずかばかりの衣服とカメラとマムシ酒と、そして不器用な愛だったのかもしれない。

 

 

北斗晶と福山雅治と友達の話

先週のテレビでの話題は北斗晶さんの乳がんの話で持ちきりだった。

そして福山雅治氏の結婚。

それぞれは全く別の話しだが、私の中では妙に符合してしまった。

子どもの頃の思い出をなるべく順を追って思い出しながら書いてきたブログだが、今回は割りと最近の話を書こうと思う。

(上記三名のお名前は敬称を略させて貰う)

 

三年前の6月、私は友人を亡くした。彼女は北斗晶と同じく乳がんだった。

彼女との出会いはそれより更に15年ほど前の、お互いの子どもが通う保育園だった。

若くして結婚した彼女は私より5歳若く、わが娘より2歳年上の女の子を通わせていた。

他のママ友の紹介で意気投合し、ママ飲みする仲間になった。

彼女の娘が一足先に小学校に上がってからも、保育園の娘のお迎えを頼んだり、子どもを預かったりする仲だった。

どちらかと言えば、私の方が沢山お世話になったと思う。

彼女はそのうち離婚して、私の家の近くに越して来た。それまでも頻繁に集まっていたが、更に親密になり、私は家の鍵を彼女に預けるまでになっていた。

 

彼女は猫好きで、私の家の猫を子ども達より先に面倒見る位だったが、家に来るようになって猫アレルギーになってしまった。

それでも、「猫は口が利けないから可哀相」と言って良く猫の面倒も見てくれた。

「ユミちゃんの煮物が好き」と言っては良く飲み、よくしゃべった。

大人になって友達を作るのはとても難しいと思うが、お互いに親友だよねと言い合うくらい好きだった。

 

そんな彼女が乳がんだと判ったのは彼女の娘が小学校5年生で私の娘が3年生の時だった。

いつもの様にもう一人の仲のいいママ友と三人で我が家で飲んでいるときに、彼女は切り出した。

「実はさ、今度入院するんだ」

「え、どっか悪いの?」

「うん、乳がんだったんだよね」

「ええ、でも早期なんだよね?」

「うーん、お胸取っちゃうしかなくてさ」彼女は笑顔で告げた。

「え、温存出来ないの?」もう一人の友人Cちゃんはもう泣いている。

「うん、脇まで転移してるんだって、だから取っちゃうんだよ」と平気そうな顔で告げた。

私はびっくりしたのと同時に泣きながら怒った。「なんで、もっと早く見つからなかったの?検診してたんでしょ!」

「そうなんだよね~しこりがあるなーっては思ったんだけどさ、なかなか行けなくて」

「そんな!何で笑ってんのよ!笑い事じゃないよ!」私はポロポロ涙を流しながら怒った。

「いっぱい泣いたよ~、何で私がっていっぱい泣いたよ。だから今は話せる様になったんだよ。だから二人とも泣かないで、私が泣いていないんだから泣かないで」

彼女の言葉を聞いて、私はハタッと冷静になった。(そうだ、一番泣きたいのは彼女なんだから)そう思い、「わかったお見舞いに行くから日程教えて、絶対だからね」と言った。

「うん、判ったお見舞いに来れる日を連絡するから、さ、この話はお終い!飲もう飲もう」と彼女は缶チュウハイを掲げた。

Cちゃんはまだ目に涙を浮かべながら、「大丈夫なんだよね、手術すれば大丈夫なんだよね」と鼻を啜りながら聞いた。

友人は「大丈夫だよ、多分。5年後の生存確率は50%って言われたけど、私はもっと長生きするから。そう思ってるから。でも子ども達には言わないでね、娘は知っているけど、やっと納得したから回りから同情されると動揺するかもだからさ」と言った。

 

それから暫く飲んだ頃、子ども達の話になった。Cちゃんの子どもは上が友人と同じで、下がわが娘を同じの男の子二人だ。彼女もシングルマザーで頑張っていた。

Cちゃんは男の子だから将来に自分がいたら迷惑なんじゃないかと心配していた。私は「そんな事無いよ、きっと二人はCちゃんの事もずっと大事にしてくれるよ」と答えた。

「そうかな、でもユミちゃんが言うなら信じて頑張るよ」と言った。

癌を告白した友人はEちゃんと言うが、「ねぇ、ユミちゃん、私、娘の成人式見れるかな」と唐突に聞いてきた。

私は暫く彼女を見詰め、「ごめん」としか言えなかった。

「そっか、あの子の成人式の日に私は居ないんだ」とEちゃんは言った。

「いや、単に今酔ってて視えないのかもしれないし、視えなくなっているかもだし」と私は慌てて繕ったが

「いいよ、ユミちゃんが視えないのは私の姿だけでしょ、娘の着物姿は視えたんでしょ、私覚悟してるから。知っていれば色々準備も出来るし」

「いや、その場面に居ないだけかも知れないし」となおも私は言い繕おうとしたけど、彼女は笑って、「わかった、わかった、大丈夫、きっと私病院なんだよ」と言った。

私は彼女の娘の振袖姿の横にはEちゃんは居ない事を視たが信じたくはなかった。

 

それから彼女は手術をして、私はお見舞いに行った。

抗がん剤治療も何度か受け、そのたび、髪や眉が抜けたりしたが、彼女は仕事を続けながら治療を続けた。

 

彼女には彼氏が居た。癌が見つかった時もその彼が励ましてくれたと言っていた。

私は癌でも支えになろうとしている彼をちょっと見直した。実は私はその彼を余り好きではなかったからだ。

 

彼女が癌になる前は毎年、海水浴や、スキーや、キャンプを彼女と彼女の娘と私の家族で行ったりしていた。

でも体調管理が難しくなったのと、胸を気にして彼女は一緒に旅行には行かなくなった。

それでも時々飲んではおしゃべりし、近況を報告しあった。

 

手術から5年が経ち、彼女は彼と一緒に住むために隣の駅に引っ越して行った。私は寂しかったが、このまま癌が落ち着いて、彼女が幸せになればいいと思った。

私の娘には告げていなかったので、5年達成だったが表向きには引越し祝いと言うことで集まった。

 

「早く籍を入れなよ」と私は彼氏に迫った。

「俺も入れたいんだけどさ、娘ちゃんがもうちょっとって言うんだ」と彼氏は彼女の娘を見た。

「だって苗字変わるの嫌なんだもん」そう言ってそっぽを向いた彼女の娘は高校生になっていた。

「ま、娘ちゃんの意思を尊重するよ」と彼女は笑った。

「それよりどうかな、成人式見れるかな」と聞いてきた。私は自分の娘が居たので困ってしまった。

「何、成人式がどうかしたの」と娘が聞いて来た。私は「いやー、もう高校生だからあっと言う間に成人式だな~、早いなーって話し」と答えた。

娘は「まだまだ先だよ」と笑ったが、彼女は違う意味で「やっぱそっか」と笑った。

帰り道、私の旦那は「あいつ以外といい奴なんだな」とボソッと言った。

 

その年のSMAPのコンサートにも一緒に行った。私はすっかり安心していた。

でもそれから一年半後彼女は帰らぬ人となった。

 

ある日彼氏から連絡を貰った。「春先から結構悪くって、今家に帰って来ているんだけど、夏は越せないかもと言われたので遭いに来て欲しい」

そういわれ、その日の内にお見舞いに行った。

リビングに介護ベッドが置かれ、自宅での治療にしたんだと言われた。治療はもう出来ないんだろう、自宅で死にたいと言う彼女の意思だったんだと思う。

私は後悔した。もっと早く、頻繁に会いに来ればよかったと。

彼女のエネルギーはもうほとんど感じなくなっていた。

 

半年前に、病状が進み、今じゃないと撮れないからと二人は結婚式の写真だけを撮ったんだと、彼女は写真を見せてくれた。

写真の中でドレスを着て微笑む彼女は私が今まで見た中で一番美しかった。

「なんだ、言ってくれれば行ったのに!」と私は笑って、素敵だと褒めた。

彼は保険屋さんと手続きをしていた。どうしたのと聞くと「今日籍を入れてきたんだ、娘ちゃんとも養子縁組してきたし」と嬉しそうに言った。

 

彼女は「やっぱり成人式は見れそうにないね。さすがユミちゃん当たったね」と笑った。

私は返す言葉が見つからなかった。そんな事なんか当たっても何の意味も無い。つくづく役に立たないと自分に腹が立った。

その日は急遽来たため、ろくな手土産も無かったので、今度は大きな花を買ってくることを約束した。

花が好きな彼女にお見舞いの花は何が良いか聞くと、花粉アレルギーがあるけど、くれるならヒマワリが良いと言った。

長い時間お邪魔すると彼女が疲れてしまうから、早めに切り上げたが、今度は私の娘も連れて来るからと約束した。

家に帰り私は始めて娘に彼女が癌でもう長くないことを告げた。

娘はずっと黙っていた私に、旦那に、彼女に、彼女の娘に怒った。それはそうだ、娘はのけ者にされた事に腹を立てた。

私は約束だったから言えなかったと謝った。謝るしかなかった。

そして今度一緒に会いに行こうと約束した。

 

彼女に最後に会った日が六月一日だった。

そして、六月八日朝早く彼女を息を引き取った。

 

朝から頭痛がし早起きしたが会社を休む連絡した直ぐ後にメールが来た。

私は直ぐに折り返し、私に出来ることをする事にした。

各所に連絡をした私は着替えて買い物に行った。

約束したヒマワリを買うためだ。

3件ほど花屋を回ってようやくヒマワリを見つけた。

私は出来るだけ大きい花束にしてくれと頼み、それを持って彼女の家に向かった。

晴れた日差しの中、ヒマワリの花束を抱え、泣きながら歩く私に周りの人は不思議に思っただろう。

 

彼女は安心したような顔をして寝ていた。

そして何もかも準備していた。

 

通夜と葬式の間、彼女が愛してやまなかった福山の曲が流れていた。彼女が選曲したそうだ。「家族になろうよ」がかかっていた。

彼女が彼と本当の家族になったのはたった一週間だった。

 

それまでも福山雅治の甘い歌声が私は好きではなかったが、葬式で聞いて益々嫌いになった。

 

福山雅治の結婚報道でテレビでは何度も「家族になろうよ」が流れた。私はそのたびに彼女を失った喪失感に襲われ、涙が出そうになった。

北斗晶の病状も彼女と一緒だった。ニュースで気丈に話しをする北斗を見ながら「頑張って欲しい」と涙ぐんだ。

 

癌で亡くなった川島なお美放射線治療をしなかったと聞いた。髪が抜けるからだ。

私は放射線治療で髪と眉、まつげまでも抜けてしまった彼女を思い出した。

どっちが正しいかは判らないが、二人とも覚悟して最後まで生きた。

 

「死にたいから殺してくれ」と頼んだ女子高生。

「殺してみたかった」と実行した女子高生や大学生。

そんな奴らに子どもを残して死ななければならなかった彼女の無念と、覚悟を教えてあげたい。

大切な人を失ってしまい残された者の哀しさを知って欲しい。

 

三年たってもこうして彼女を思い出し、そして泣きそうになる。

そうすると彼女の声が聞こえる様な気がする。

「泣かないでよ、ばーか」

可愛い顔で、おっとりしたしゃべり方で、辛辣に言い放つ彼女に会いたくてたまらない。

 

 

 

 

 

 

 

 

匂いの記憶

私の子どもの頃の生活は、ちょうど映画の「三丁目の夕日」のような生活だった。

あの映画は東京オリンピック前の高度成長期で、1960年代の東京の話だったが、田舎は都会より10年ほど遅れていたので、小学生の頃の生活と映画がちょうど同じ感じだと思っている。(ああ、歳がバレる)

都会ではないので、家々の間隔は広く、路地なんてものは余り無かったが、「三丁目の夕日」から感じる町の匂いが似ているのではないかと思う。

 

私の家の風呂は長いこと薪だった。

風呂焚きは私の仕事で、中学1年頃までは薪を割ったり、石炭をくべたりしていた。

かつて炭鉱があった町なので、石炭を掘った後の「ぼた山」なるものがあり、その「ぼた山」には商品にはならない石炭が打ち捨てられていた。

それを時々拾いに行って薪と一緒にくべるのだ。

小さい頃はなんの疑問も持っていなかったが、大きくなるにつれ、周りの家が石油やガスの風呂に変わっていってからは、薪の風呂がとても恥ずかしかった。

やっと石油になった時は、風呂焚きの仕事から解放された喜びと、他の家と変わらなくなった事で凄く嬉しかった事を覚えている。

 

でも、夜暗くなってから、火の様子を見るために外に出て、ボーっと火を見詰めたり、ついでに星を仰ぐことは無くなってしまった。

 

家の台所には竈があった。

竈は薪と木炭を使っていた。木炭はじいちゃんのこだわりで、ちょっと遠いところまで仕入れに行っていたらしい。

昔は竈でご飯を炊いていた。しかし、じいちゃんが死んでから直ぐに炊飯器を導入し、竈は使われなくなってしまい、いつしか竈自体も無くなってしまった。

井戸も家の中にあった。井戸は簡単に塞ぐことが出来なかったのか、家を壊すまではあったらしい。

 

魚は必ず七輪で家の外で焼いた。

冬の終わりには田んぼで「とっこ積み」を燃やし、灰を田んぼに撒いた。

 

町は一年中、どこからか何がしかが燃える匂いがした。

 

木造の家の外壁や、板塀にはタールを塗っていた。木が腐るのを防ぐためだ。

そのタールの匂いはアスファルトの道路を作る時と同じ匂いだ。

 

初めて家の前の道がアスファルトになったとき、綺麗で、嬉しくて、道路の上を転げまわった。

寝そべると、お日様とタールの匂いがした。

 

そんな匂いが「三丁目の夕日から」漂ってくるような気がするのはきっと私だけかも知れないが、テレビで再放送を見るたびに、郷愁に駆られてしまう。

 

いまでも道路工事現場の横を通り、アスファルトの匂いがすると懐かしくなる。

 

私に限らず、人の記憶は様々な匂いと共に記憶され、匂いと共に呼び覚まされると言われている。

匂いで風景を思い出し、風景で匂いを思い出す。

 

今、東京も金木犀の香りで満ちている。

東京生まれで東京育ちの娘でさえ、「秋だね~」と言う。

小さい頃からキャンプや海水浴や旅行に連れ出し、出来るだけ自然と触れ合えるように育ててきたし、色んな風景と匂いを記憶している娘だが、それでも私が感じている匂いの数には適わないだろう。

私は結構、鼻には自身があるのだ。

 

娘を見ていると、便利になった分、人間の五感が鈍くなっていくんだろうなと、老婆心ながら残念に思ってならない。