碧い鱗

青が好きです。魚の体を覆っている鱗の様に今の私を形成している想いでや出来事をチラチラと散りばめて書こうかと・・・

眠れない日々

じいちゃんが死んで店を畳んだ後、作業場だった場所を改装し私の部屋を作って貰った。

学習机を置き、自分だけの場所が出来てとても嬉しかった。

夜はそこに一人で布団を敷いて寝るようになった。

 

ある雨の夜。

窓の庇に当たる雨音を聞きながらうつらうつらしていると、雨の音に混ざって、足音が聞こえてきた。

それは数人の足音の様に聞こえた。

私は夢心地で「隣の家に誰か来たのかな」くらいに思っていた。

私の部屋の窓は隣の家の私道に面していたからだ。

しかし、その音は窓の横を通らずに、山の方に上がっていくような気がした。

山のほうにはお寺があるので、「ああ、お寺に向かったんだ」と思って、そのまま眠ってしまった。

 

それから又、雨の日の夜に同じ足音が聞こえた。

その日は何故かまだ眠っていなかったので、前回よりもはっきりと聞こえた。

その足音の主は、全員がブツブツ何かを言いながら通り過ぎていった。

 

次の日、祖母にその話しをしたら、「そがん時間にお寺にだい(誰)が行ったっちゅ?、夢ば見たか、気のせいたい。そいか他の家ん人やろ」と言われた。

確かにお寺に行く道は、お寺に曲がらなければもっと上まで民家があり、人が住んでいるため、何かの用で通っただけかも知れない。

私は何か違和感を感じていたが、祖母の意見になるほどと思い、忘れてしまった。

 

雨が降らない日は足音はしなかった。単に私が気が付かなかっただけなのかも知れないが、何となく雨の日だけ聞こえる音として認識していた。

それから暫くして、雨の日が続いた。

私は早くに寝ていたが、ある日何かの拍子に目が覚めた。

そうすると、あの足音が聞こえて来た。

 

以前聞いたときよりも更にはっきりと聞こえ、足音に混ざり、何かを叩く音と、念仏のようなものを唱える声が聞こえた。

足音は一定で、「ザッ、ザッ、ザッ」と「ジャリッ、ジャリッ、ジャリッ」が混ざった様な音がした。

私は足音に気が付いた時から感じていた違和感の理由に気が付いた。

家の前も、家の前からお寺に上がる道もアスファルトで舗装してあるので、砂利を踏むような音はしないのだ。

それなのに、近づいてくる足音は砂利道を踏んでいるような音だった。

 

隣家に入る私道なら舗装されていないため、そういった音がするかも知れない。

それで最初に聞いたとき、隣家に行くんだと思ったのだ。

「これは何かおかしい」と思った途端怖くなった。

私は布団にもぐり、足音が遠ざかるのを待った。

足音が遠ざかっても、戻ってくるのではと不安になり、その日はよく眠れなかった。

 

次の日朝、祖母に夕べの話しをした。特に、砂利の音がするのはおかしいと訴えた。

祖母は少し考えた後、「今度足音のしたぎ、お経ば唱えんさい」と助言してくれた。

私は素直に「わかったばい」と頷いた。

 

その日の夜も雨だった。

私は寝ていたはずなのに、やはり目が覚めてしまった。

まるで、誰かに起こされたような気がした。

なんで目が覚めたんだろうと思っているとやっぱり足音が聞こえて来た。

 

私は祖母に言われたとおり、布団の中でお経を唱えた。

「かんじーざい、ぼーさつ、ぎゃーじん、はんにゃーはーらーみーたー」と唱えながら足音が遠ざかるのを待った。

足音は念仏を唱えながら、家の前を通りすぎ、山に向かって遠ざかっていくはずだった。

しかし、一番足音が大きくなったとき、足音が止まった。

どうやら家の前で止まったのだ。足音は止まったが、念仏は聞こえていた。

 全員が窓の外で、こっちを見ているような気がした。

 

私は益々怖くなり、耳を塞ぎ、大きな声で唱えた。

しかし、耳を塞いでいるのに、念仏の声が聞こえる。

私は布団の中でパニックになりそうだった。

「ぎゃーてーぎゃーてーはらーみーた」と早く通り過ぎて欲しいと思いながら必死で唱えた。

そのうち、気が付くと念仏は聞こえなくなっていた。

私はまだ口の中でお経を唱えながら耳を澄ました。

外は雨が庇を叩く音しかしなかった。

誰の気配もしなかった。(そもそも人の気配を感じていたわけではないはずだが)

布団をかぶって辺りを窺いながら私はいつしか眠っていた。

 

次の日祖母に逆効果だったと怒って伝えた。でも祖母は何故か笑って、

「そいでよかと、また来たらくさ、そがんしてお経ば唱えっとさ、そいぎ、そんうち来んごとなっけん」と恐ろしい事を行った。

「また来っと!もうえすかとば(怖いんだけど)」と抗議すると、

「なんも怖かこた無か、多分お遍路さんやろう。悪かもんじゃなかけん大丈夫たい。そいけん、ちゃんとお経ば唱えんばいかん。ちゃんと唱えんぎ、もっとえすか事になっど」と脅すように言った。

「もっとえすか事!?どかん事?」と聞いたが、「そりゃ解らん」と暢気に笑った。

 

眠れない私にとっては冗談じゃないという気持ちの方が強かった。

「そーだ、起きなければいいんだ」と子どもながらに思ったが、雨の日の夜は何故か必ず目が覚めて、そして私が起きたのを待っていたかのように足音はやってきた。

段々怖さは無くなっていったが、目が覚めて暫く眠れないのが嫌だった。

 

そのうち、夜半から雨が降っていると「あー今日も来らすとかぁ」と思うようになっていた。

 

そうして何回の雨の夜を過ごしただろう。ある日、雨だったのに、朝までぐっすり寝ていて、目が覚めたとき「あれ?雨やったとに来んやった」と思った。

祖母に「昨日は雨やったとに、来らっさんやったば」と伝えると、「気が済んだとやろ」と言われた。

私は何が何だかわからなかったが、「もう来ない」と言うことが解ってホッとした。

 

大人になって父にこの事を話した。そうしたら父は「そういえば、昔あの辺りには裏遍路があったからな~」と教えてくれた。

裏遍路とは、病気とかで普通の偏路ルートを往来出来ない人たちが、別のルートでお遍路をする事らしい。

私たちが住んでいた田舎にもそのルートがあったと聞いた事があると父は教えてくれた。

なぜ雨の日だけなのかと聞くと、父は、「これは想像だけど、きっと雨の日の夜に何かトラブルがあって、思いを遂げられなかったんじゃないか?」と言った。

「それじゃ、なんで家の前で念仏唱えて気が済んだって事になったの?」と聞くと、

「だってさ、家には弘法大師の曰くつきの像があったじゃないか。お前のお経でそれに気づき、それをお参りして気が済んだんだろう」と言った。

私は「その想像合っていると思う、そしてばあさん、知っていたんだ、知っていて、私にやらせたな」と愕然とした。

父は「してやられたな」と笑った。

 

あれから何年も経つ。今でも、夜中に雨が降っていると何処からとも無くあの足音が聞こえるような気がする。

そして、怖いような、懐かしいような気持ちに包まれ、雨音を聞きながら眠りにつくのだ。

 

 

 

 

 

 

 

野生児上等!

子どもの頃の遊び場は山と川と田んぼと海だった。

誰かの土地でもお構いなしに入っては遊びまわっていた。

とは言っても勿論ルールはある。

 

水を張ってから稲を刈る前までの田んぼは入ってはいけない。稲を刈った後も、とっこ積(藁を積んで家の形にしたもの)は壊してはいけない。

川や山に仕掛けがしてある時は触ってはいけない。

畑の作物は基本取ってはいけない。(但し、大方収穫が終わって、形が悪いものや、鳥のために残して有るものはOK)

など、田舎の子どもならではのルールが数々あった。

多くはガキ大将から受け継がれ、何処が危険か、何処に何が生えていて、何時が食べ頃なのかを把握していくのが大事な事だった。

 

子どもの頃は色んなものを勝手に取って食べていた。

スモモ、ヤマモモ、枇杷、グミ(木の実)、柿、杏、みかん、金柑、栗、椎の実、アケビ、岩イチゴ、無花果、ナツメ。

季節ごとの果物はご馳走だった。

 

山菜取りにも良く行った。ゼンマイ、ワラビ、こごみ、石蕗ツワブキ)、フキノトウツクシ、セリ、山芋などは子どもにとっては遊び半分だったが立派な食料だった。

川には鰻を獲りに行った。前日に罠を仕掛け、引き上げに行くのによく付いて行った。

鰻が獲れた時は家の外で裁いて、そのまま醤油を塗りながら七厘で焼いて食べる。まぁ今のBBQの様な感じだろうか。

 

アサリの季節になると、家から海を眺めた。

午前中や、午後の早い時間から引き潮になる日はアサリ獲りが楽しみだった。

幼馴染のみっこちゃんを誘って海まで降りていく。子どもの足でも30分くらいで着いた。

バケツと熊手を持って行けばOKだ。ちょっと掘れば直ぐにバケツに一杯になった。

でも重たくなるのと、食べるだけ獲るのがルールだったので、バケツに半分ぐらいで終わりにしなければいけない。

それでもつい夢中になってしまうので、満ち潮が来て、よくパンツを濡らした。

 

沢山獲り過ぎた時は、祖母の生家の叔母さんのうちや本家に寄って分けて帰る。

そうしないと、帰り道は登りで、一時間くらい掛かるので大変だからだ。

 

朝獲れば夕飯に、夕方戻れば朝ごはんにアサリの味噌汁を出してくれた。

自分で獲ったアサリの味噌汁は格別に美味しかった。

 

小学生3年生位になると、よく釣りに連れて行って貰った。

子どもなので、磯釣りだったが、コチやキス、オコゼ、イシモチなどが釣れた。

小さい船を持っていた叔父は時々ナマコ獲りにも連れて行ってくれた。

私は水中眼鏡で海の中を覗くのが好きで、ゆらゆらと船に揺られながら何時までも海の中を覗いては、首の後ろを日焼けして真っ黒にしていた。

 

牡蠣も獲りに行った。

先ずは牡蠣を岩についている状態から蓋だけ外して剥き身にし、塩水で洗って食べる。

飽きたら今度は持参したポン酢をかけて食べる。

ひとしきり食べたら、食べる分だけを殻から外して身だけをバケツに入れる。

そうすれば戻ってすぐに調理出来るからだ。殻から外して持って帰った時は炊き込みご飯か、煮物か、カキフライだ。

それも海が近いから出来る事だったと思う。

 

東京に出てきて、潮干狩りに誘われて、久しぶりに腕が鳴った。

でも実際行って見て驚いた。入場料が必要だったからだ。

それに、獲った分はすべては持って帰れるわけではなく、キロ幾らの別料金が掛かった。

田舎では当たり前に獲っていたアサリは東京では有料のレジャーで、食べるものを獲るというよりは潮干狩り自体が目的だった。

考えてみると、都会ではほとんどのものが有料だ。

水仙を売っているのを見た時も驚いた。水仙は何処にでも咲いている花だったからだ。

山菜は生ではお目にかかれないし、鰻は高級料理だ。

 

そして、東京で出会った人は大抵が鮎が好きだ。八王子には川魚を囲炉裏端で焼いて食べさせる料理屋まである。しかも結構お高い。

私の住んでいた所は海が近いせいなのか、わざわざ川魚を食べる人は居なかった。

鮎は取り放題だったので夏の子どもの遊びで獲って帰っても、「猫またぎ」と呼ばれて、猫も食べないので、捨てて来いと言われた。

だから東京に来て、川魚が重宝されているのを見ると、「へー、所変われば価値観が違うんだな」と感心したものだ。

 

若い頃は東京の食べ物が何でも珍しかったし、美味しいと思った。

握り鮨、うな重、焼肉は東京で初めて食べた気がする。

おしゃれな店で、お高い料理を食べるのが好きで、自分も都会の人間になった様な気がして嬉しかった。

 

でも最近は子どもの頃がいかに贅沢だったのかを痛感している。

 

今では田舎も時代の流れに乗って、子ども達が野山を駆け回る事は無くなった様だ。

物騒な事件も起きる。

昔は何処で遊んでいても、いつも誰かが見ていてくれて、悪いことをしたら誰もが怒ってくれた。

そんな時代が懐かしい。

 

娘にそんな話しをすると「野生児だね~」と笑われた。

確かに野生児だった。でも、娘よ、貴女には判りようも無いことだけど、山の野生の枇杷の木に登って、冷たくないけど

自然な甘みの枇杷を食べながら眺める夕日はとっても素敵な風景なんだよ・・・・。

虫の知らせ

虫の知らせを体験した事があるだろうか。

以前書いたじいちゃんの話は私にとって、初めての虫の知らせだったと思う。
 
私の枕元にじいちゃんが来たと言ったとき、祖母は「もう長くない」と思ったそうだ。
後日祖母に「なしておい(俺:年寄りは自分の事をおいと呼ぶ)んとこに来んやったとや」と恨み言を言われたが、出られたほうは「そがん事言われたって」と思うしかない。
 
既に書いた通り、その日を堺に祖母は私を修行させようとしたのだ。
 
その成果があったかどうかわからないが、それから大分立ち、高校生になった私は、ある日突然叔父に会いたくなった。
叔父と言っても祖母の弟なので、大叔父になる。
祖父の死後、祖母の二人いた弟たちは何かと私たち二人の面倒を見てくれた。
その中でも一番私が好きだった叔父は高校から何とか歩いて行ける距離に店舗兼自宅を構えていた。
 
私は昼休みの後、午後の授業をサボってその店に行った。
突然の訪問に叔母はどうしたのかと聞いてきたが、自分でもわからない、ただ叔父に会いたかったと答えるしかなかった。
でも残念ながら叔父はその日は不在で、明日にならないと帰らないとの事だった。
 
私は適当に時間を潰し、祖母の待つ家に帰った。
当然、叔母から連絡が入り私が学校をサボった事は祖母にバレていた。
「なして学校サボったとね!」と祖母は怒ったが、「何や判らんけど、急に叔父さんに会いとうなったと」と理由を告げると、
いつもだったらガミガミと一時間くらい続く小言も無く、「そうや、今度、そがんことのあるぎ、学校の終わってから行くごと」とだけ言われ解放された。
「怒らんて珍しかぁ」と思いながらも次の日にはすっかり忘れていた。
 

それから約一週間後に叔父は突然亡くなった。死因は脳溢血だったか心臓発作だったか忘れてしまったが、
夜連絡が入り、祖母は電話口で暫く話をしていた。
 
電話を切った祖母は、
「叔父さんのさっき死なした。折角おいが、用心するごと言うたとに、どこも悪う無かけんて病院に行かんけんが、こがん早死にする事になると」と悔しそうに言った。
「病院に行くごと言いよったと?どこか悪かったと?」と聞くと祖母は
「わい(お前)が急に会いに行ったけん、虫の知らせと思ってば、検査するごつ助言したと」と言った。
 
私は困惑した、自分が会いに行ったから叔父は死んだんじゃないかと一瞬思った。
 
勿論そうではなかった、祖母はじいちゃんが私の夢枕に立った時から、私にはそういった事を感知する力があると信じていた。
そう言われても私は信じられなかったが、祖母から「力のあっとは良か事も悪か事もあるけん、ちゃんとせんば!」とまた読経を毎日するように言われ、うんざりした事を覚えている。
 
叔父には結局会わずじまいで別れる事になった。
 
確かに小さい頃から不思議な者や怖いものを視たり聞いたりしていた。でもそれは自分だけでは無いと思っていた。
小さい頃はそういったモノを視るのはちゃんとお経を読まないからだと思っていた。
それでも年齢を重ねるごとにそういったモノは視なくなったし、だんだん聞こえなくなった。
いや、何かを視たり聞いたりしても、「気のせい」にして向き合おうとしなかったのかも知れない。
 
しかし、虫の知らせは本人の意思など関係ないことを知る。
 
私は東京に出て、祖母とは別に暮らすことになった。しかし、祖母も歳なので名古屋の叔母の所に行くことが決まっていた。
祖母が引越しをする少し前に、私の物が残っていて処分するにあたり、東京の私に電話をかけてきた。
引越しに関する話をしているときに、ふと、祖母の生家に一人で住んでいるおばさんの事を思い出した。
 
その叔母さんは祖母とは血が繋がってはいないし、祖母の旧姓とも違ったが、長く旧本家に一人で住んでいた。
本家は祖母の兄が別の場所に家を建てたので場所が変わっていたが、元々の本家は海の側なのに日の当たらないその小さい家だ。
祖母にとっては思い出の土地であり、家だったので、寺参りをする時や、潮干狩りをするときは何時も寄っていた。
その家の叔母さんの事を急に思い出し、「そういえば、金子おばさんってどかんしとらす」と聞いた。
電話の向こうで祖母は「はっ」として、「急になんね」と言いながら近いうち様子を見に行くと言ってその日は電話を切った。
 
そして次の日祖母から電話があった。
「あれから気になってくさ、今日行って来たとばい。風邪引いたて言いよらしたばってん、元気しとらした」と報告があった。
私はちょっとホッとし、なんで又急に思い出したんだろうと思ったが、「ま、元気ならいっか」と思った。
 
そう、それから一週間位して、やっぱり叔母さんは亡くなった。
 
祖母から電話を貰った私は「まさか」と言う気持ちと、「やっぱり」と言う気持ちが交差した。
金子叔母さんは風邪をこじらせ、肺炎になり亡くなったそうだ。
 
祖母は電話口で嘆いていた。
「せっかくわいから言われたとに、直ぐに見に行ったとに、毎日行けば良かったとに」と自分がちゃんと見ていれば肺炎にならなかったかも知れないと後悔していた。
私は「私に虫の知らせが来た時は、きっと、もう決まっととばい。ばあちゃんのせいじゃなか」と言うしかなかった。
それより、私は祖母が名古屋に引っ越す前に送り出すことが出来て良かったのではないかと思った。
祖母にそう言うと、少し落ち着いたのか、「そうかもしれん、わいに言われんやったぎ、引越し直前まで行かんやったろうし、ゆっくり話せんやった」と言ってくれた。
 
祖母は葬儀を仕切り、叔母さんを見送った後、名古屋に引っ越した。
 
その後、暫く「虫の知らせ」的な事は無かった。
 
祖母が名古屋の叔母の許で暮らすようになって十年以上が経ったある日、私は夢を視た。
夢の中で、祖母が何かの列に並んでいた。
私はなぜこの列に並んでいるのか問うたが、祖母は答えず、動こうとしなかった。
先を見ると、ゴールと思える所は遥か遠く霞んでいて見えない。それなのに沢山の人が並んでいた。まだまだ祖母の番までは大分あると思った。
私はなんだか怖くなって何度も「かあちゃん、かあちゃん」と祖母を呼んで、手をひっぱたが、祖母は頑として動かなかった。
 
はっ、と目が覚めた私は泣いていた。久しぶりに祖母を「かあちゃん」と呼んだ事も不思議だった。
次の日、名古屋の叔母から電話があった。
電話のディスプレイを見たとき、一瞬だけ嫌な予感がしたが、電話に出ると、祖母が最近ボケが酷くなったので、入院する事になったとの報告だった。
私はほっとして、近いうちに会いに行くことを約束した。なんとなく、直ぐにどうこうと言う気がしなかったからだ。
 
数日後、1歳半位だった娘を連れて名古屋の祖母に会いに行った。
病床での祖母は一段と小さくなり、確かにボケていた。
私の娘を見て、「ユミ、ユミ」と言い、私を叔母の名前で呼んだ。
叔母が言うには、急にボケが酷くなって、良い時と悪い時の差が激しいそうだ。私が行ったその日は悪い時だったのかもしれない。
娘を愛おしそうに撫で、「ユミは良か子たい」と言っている祖母を見て、私は涙が止まらなくなった。
 
叔母は入院時に検査をしたら癌が見つかって、今度手術をするが体力的に心配だと医者に言われた告げた。
私は先日の夢の話をした。叔母は、きっとその列はあの世に行く受付の列だと思うと言った。
しかし、その列は大分長かったと話したら、叔母は「じゃあ直ぐには死なんね」とホッとしたような、残念だと言う様なため息を吐いた。
 
それから二年近く、祖母は益々ボケが進み、病院で寝たきりになったまま亡くなった。
 
葬式の日、叔母に「本当に長かった」と言われた。毎日のように世話をしに病院に通った叔母は大変だったと思う。
「あんたん所に虫の知らせがある時は大体一週間位やったとにね、ばあさん自分がボケたもんだから、早めに教えたかったとかね」と言われた。
確かに不思議な夢で、今でもその夢の映像は覚えている。
 
ところで、当の祖母の直前の虫の知らせだが、私の所には特になかった。
が、危篤と言われ、祖母の子ども達と私は急ぎ名古屋に集まった。しかし、着いてみると祖母は持ち直していた。
肩透かしを食らった顔で叔父は「せっかく皆が集まったから葬式の段取りをしとくか」と言い、宗派の確認や、葬儀社の確認など
各自が可能な連絡先などをまとめる事にした。
 
祖母はその一週間後に亡くなった。
 
葬式の日、父は私に「ばあさん、来たか?」と聞いたが、私は2年ほど前の夢以外来ていないと伝えた。
父は一旦危篤になった事で全員を呼び出したから気が済んだのだろうと言った。
 
「虫の知らせ」それはどんな風に来るのかは解らない。出来れば二度と私の所には来ないで欲しいと思う。

 

大雨の日に想い出す音

先日の台風に伴う大雨で、各地で大きな被害が出た。

被災された方には謹んでお悔やみ申し上げます。

 

台風といえば、私が子どもの頃住んだ町も、よく台風の直撃を受けた。

関東に来る台風とは比べ物にならない強い風が吹く。

台風の前は雨戸をしっかり閉め、飛ばない様に釘で打ちつけ、停電の準備をし、床下浸水に備え土嚢を積み、靴も仕舞う。

ほぼ毎年の事なので慣れたもんだ。

学校も直ぐ休校になる。学校は毎回グラウンドが湖の様になった。

当時(今もかも)水洗トイレではなく、汲み取り式のトイレが多い地域なので、床下浸水でも被害が大きい。

台風の後は、どこもかしこも消毒の匂いで満ちていた。

たまにテレビで、膝まで浸かって歩いている人を見たりするが、「浸水した水は汚いと」と子どもの頃のイメージが強く「うげっ」と思ってしまう。

 

家の近くには二本の川が流れていた。

一つは道路を挟んだ家の前で、幅は狭いが、かなり深いので、決壊する事は無かった。

もう一つは少しはなれていたが、田んぼの中を走る川で、広い川だった。

普段は水も多くなく、浅めのため、夏は魚とりをしたり、ダムを作って遊ぶ場所だ。

川の名前はわからないが、その広い川は雨が降ると途端に顔を変え、茶色の水が轟々と流れ、子どもの頃はとても怖かった。

 

これから書く事は、非人道的な話しだと思う。

又私の心に深い傷を残した出来事でもある。

自分でも酷い話だと思うが、心の傷と私の罪を敢えて書くことにより懺悔の意味を込めよう。

 

ある日、自分が幾つだったのかは忘れた。祖父は既に他界していたので、小学校2年生か3年生だったと思う。

その日は台風が来る前で、空は朝から雲が厚く、大粒の雨が降っていた。

川は増水し、轟々と音を立て流れていた。

 

家で遊んでいた私は、祖母に紙袋を渡され、それを広い川に捨ててくるように命じられた。

袋は動いていた。

それはみーが生んだ子猫だった。

みーがいつ生んだかは解らなかったが、生まれたばかりの様だった。

私は嫌だと言ったと思う。しかし祖母の命令は絶対だった。

私は雨の中傘をさし、紙袋を持って川に向かった。

 

袋の中で子猫が「みーみー」鳴いている。

私は川に着き、流れを見た。

こんな流れに落としたら、一瞬で死んでしまう。そう思った私は、袋をあけ、子猫を見た。

まだ目の開いていない子猫は狭い袋の中でもがいていた。袋を伝って子猫のぬくもりを感じた。

私は子猫たちが可哀想で「ごめんね、ごめんね」と泣き出してしまった。

しゃがみこみ、何とか助けられないだろうかと考えたが、ちっとも考えがつかず、ただ泣いて謝っているだけだった。

どれくらいそうしていただろう、余りにも帰りが遅い私を心配してか、祖母がやってきた。

 

泣いている私を見て祖母はため息をついて、「貸しんしゃい」と手を出した。

私はもしかしたら捨てるのを辞めてくれるのかも知れないと思い、袋を手渡したが、祖母を受け取るや否や、その袋を川に投げた。

「あ!」と袋を目で追ったが、袋は一瞬だけ流れて、直ぐに流れに飲み込まれてしまった。

祖母は「しょんなかと、沢山は飼いきれんけん」と言い、先にたって帰って行った。

私は暫く流れの中に袋を探したが、見つかるはずも無かった。

 

家に帰るとみーが子猫を探していた。

私に向かって、「にゃーにゃー」鳴き、家中を探して歩いていた。

 

祖母はその夜、いつものお経意外にも供養のお経をあげた。

私はお経をあげながら心の中で、「こんなお経をあげて何の意味があるんだ」と思っていた。

その頃からちょっとずつ、ちょっとずつ祖母の事とお経が嫌いになって行ったと思う。

 

その後もみーは何度か子どもを生んだが、気がつくと子猫は居なかった。

祖母は私には頼まず、自分で処分していたんだろう。

 

祖母の名誉の為に付け加えると、特別動物が嫌いだった訳ではない。店を営んでいる間は、結構大事にしていたと思う。

しかし、当時は避妊するという考えは無く、猫は自由に出入りしていた。よって直ぐに子どもをこさえてしまうのだ。

生まれた子猫はどこの家でもそうやって処分していた。

今では考えられないが当時はそれが普通だった。

以前、テレビで見たが、学校の先生が生まれた子猫を生徒に埋めさせて問題になった。

先生の言い分の様に、確かに昔は育てられない子猫や、子犬は飼い主の手で処分していた。

そうしないと野良猫や野良犬が増えてしまうからだ。

でも処分を子どもにやらせるのは間違っていると思う。

命は重たい。

あの生徒達も私と同じようにこれから心の傷を背負って一生生きて行く事になる。

普段忘れていても、何かの拍子に想い出すのだ。

 

私は今でも外で大雨が降っているなと思うと、いつまでも子猫を探して鳴いていたみーの声と、雨と川の音で本来は聞こえるはずの無かった、子猫の助けを求める鳴き声が聞こえる。

そして心の奥底が痛くなるのだ。

 

 

 

 

たまげた兄ちゃん

保育園か、小学校一年くらいの頃だったと思う。いつも一緒という訳では無かったが、近所のガキ大将と遊ぶことがあった。

そのガキ大将は同じ歳だったのだが、体が大きかったので、いつも威張っていた気がする。

近所だったが、正確には字(あざ)が違って、子供会や婦人会は別だった。

そのガキ大将のいるグループは男の子が多くて、山に基地を作ったり、川にダムを作ったり、ちょっと危険に思えるような遊びをいつもしていたので、ガキ大将は怖かったが、一緒に遊んで貰える時は嬉しかった事を覚えている。

 

いつの頃からか判らないけど、そのグループに「たまげた兄ちゃん」と呼ばれる大人の人が、一緒に遊ぶようになった。

ガキ大将だった男の子は、その「たまげた兄ちゃん」を崇拝していて、なんでも言うことを聞いていた。

「たまげた兄ちゃん」はいつも下駄を履いていて、子どもが何かすると「そりゃ魂消たばい」と言うのが口癖だったから「たまげた兄ちゃん」なんだと聞いていた。

私は祖母に、「良か大人とに子どもば引き連れて、何ば考えよっか判らんけん、一緒に遊んだら駄目ばい」と言われていた。

でも、「たまげた兄ちゃん」が来てから、そのグループの遊びはますます面白くなって行った。

山に遊びに行くときは、各自、鉈や小さい鎌や縄を持ち寄り、基地も頑丈に作るんだと、何日もかけて木の上に子どもにしては立派な基地を作った。

ガキ大将は「たまげた兄ちゃんはば、なんでん教えてくれると、良か人ばい」と自慢していた。

私は益々羨ましくなり、祖母に禁止されているにも関わらず、時々そのグループに入れて貰って遊んでいた。

 

「たまげた兄ちゃん」がいると、ガキ大将も誰かを苛める事は無かった。

「男は小まか子ば苛めたらいかん、特に女ん子には優しゅうせんば」と言われていたからだ。

勿論、そんな事は各自のじいちゃん、ばあちゃん、両親にはいつも言われている事だが、「たまげた兄ちゃん」が言われたほうが皆、素直に聞いたのだと思う。

大きい子は小さい子を面倒見て、ルールをり、統率の取れたグループで、とても楽しかったし、良い事だと思った。

しかし、周りの大人たちは違った様だ。

昼間から仕事もせず、小さい子ども相手に、山に入り、何をしているのか解らないと、警戒していた。

確かにそうだ、今だったら完全に不審者だ。

住んでいる家も、「たまげた兄ちゃん」の親も解っていたらしいが、いわゆる、よそ者だったらしい。

 

元々、ガキ大将のグループの住む部落は炭鉱町の名残りのある、長屋形式の借家が集まっている場所だった。

なので、私が住んでるほうの部落の人はその町の人をあまり良く思っていなかったようだ。

 

子どもは駄目だと言われると、益々隠れて遊ぶようになるものだ、私は幼馴染の女の子二人と遊ぶと言っては二人で後から基地に行って合流していた。

内緒事がとてもワクワクしたんだと思う。

 

そうしている内に、ある事件が起きた。

 

木の上の基地は、雨の日は頼りなく、滑って危ないため使ってはいけないというのがルールだった。

それで、雨の日は基地の近くにある防空壕跡で良く遊んだ。

防空壕跡は山の側面に掘ってあって、奥は塞がれていたが、入り口で雨宿りするくらいの広さがあった。

以前は不法投棄のゴミがあったが、皆で綺麗に掃除し、使えるようにしていた。

 

ある雨の日、その防空壕で小火騒ぎがあった。

暖を取ろうとした子どもが火を大きくしすぎて、何を燃やしたか解らないが、黒い煙があがり、村の人に見つかり、大騒ぎになった。

そこでは時々焚き火をしていたので、煙は見られていたはずだが、その日の煙は多かったらしい。

両方の部落の大人達が集まり、話し合いがあったらしい。

もともとその防空壕跡は立ち入り禁止だったらしく、そこで遊んだ事のある子どもはとても怒られた。

勿論私もちゃんとバレてて、祖母にこってり絞られた。

 

木の上の基地は壊され、防空壕跡は柵が取り付けられた。

しばらくして見に行ったら、壁に黒い煤の跡がついていて、火の大きさがわかった。

大きくはなかったが、焚き火をした子どもは少し火傷をしたと聞いた。

 

防空壕跡を見ていたらガキ大将がやってきて、「たまげた兄ちゃん」が大人たちに凄く怒られたと話してくれた。

私はその時、なぜ「たまげた兄ちゃん」が怒られなくてはいけないのか理解できなかった。

ガキ大将が言うには、大人たちは「たまげた兄ちゃん」が嫌いで、子どもに悪い遊びを教えたと決め付け、二度と子どもに近寄るなと言われたそうだ。

ガキ大将も、親に一緒に遊んだら駄目だと言われたらしい。

 

小火騒ぎが起きたとき、「たまげた兄ちゃん」はいなかったが、防空壕跡で焚き火が出来るように石を並べたのは彼の指示で、小火を起こした子どもは「たまげた兄ちゃん」の言うとおりにやったが、上手くいかず、不法投棄の何かを燃やしたら火が大きくなったと証言したらしく、そもそも子どもに火遊びを教えた「たまげた兄ちゃん」が悪いということになったらしい。

 

ガキ大将は、「あい達(あれ達:小火を起こした子ども達)は火ば使こうたらいかん子達やったとに、勝手に焚き火したけんこがんなったと」と怒っていた。

グループのルールでは年齢により火を使っていいかどうかが決まっていた。その子達は年上のメンバーが居ない時にルールを破ったのだ。

ガキ大将は悔しそうに壊された基地の残骸を見て、「基地まで壊さんでん良かとに・・・・」と言った。

もしかしたら泣いていたのかも知れない。

その後、時々散歩している風の「たまげた兄ちゃん」を見かけたが、いつも一人だった。

会えば、手を振ったりしたが、大人の目が怖くて話し掛けたりはしなかった。

 

そのうち「たまげた兄ちゃん」は村から居なくなってしまった。

 

 

 

 

 

かあちゃんの若い頃の出来事とそれにまつわる話

我が家の仏壇は実はちょっと変わっていたらしい。

私が毎日お経をあげていた(あげさせられていた)頃、要は二番目のじいちゃんが入った仏壇は「浄土真宗」だった。

でも仏壇にはお位牌があった。それは前のじいちゃんの物だった。

以前は「曹洞宗」だったらしいが、あることが理由で改宗したらしい。

なので、金ピカの仏壇の真ん中に阿弥陀如来の掛け軸があって、多分、親鸞聖人の絵があって、奥に前のじいちゃんの黒塗りの位牌、手前に次のじいちゃんの派手な布の過去帳があり、並んでいた。

そして、もっと奇妙だったのが、親鸞聖人の反対側に椅子に座ったお坊さんの小さい像があった事だ。
かあちゃんの話しではこの像は曰く付きで、宗派は違うけどお奉りしなければいけないと言っていた。

 

その像の話しを書こうと思う。

 

私と祖母は確か55歳離れている。私は父の25歳の時の子で、父は祖母の30歳の時の子どもだから、単純計算で55歳と言うことになる。
30歳の時の最初の子どもというのは、明治生まれの祖母にとっては大分行き遅れだ。
そこで、なんでそんなに結婚が遅くなったのかを聞いた事があった。

祖母は結婚適齢期の頃、好きあっていた人が居たそうだ。でもその人との結婚は周囲に反対されていた。
なぜ反対されたのかは忘れてしまったが、いわゆる身分の違いと言うものだったらしい。
思い悩んだ二人はなんと駆け落ちしたそうだ。
(その話しを聞いたのは中学生ぐらいだったのだが、かなりセンセーショナルだった事を覚えている)

追っ手を恐れた二人は九州から四国まで逃げた。
しかし、相手側の追っ手に見つかり、二人は引き離され、祖母は知り合いも居ない四国で一人途方に暮れたそうだ。
これからどうしようか、いっそのこと死んでしまおうかと若い祖母は思い悩んだ。
そんなとき、旅の坊さんに声を掛けられ、家に帰る様に諭された。
その坊さんが言うには、「貴女は人を助ける事が出来る力を持っている。その術を伝授するから、これからは人を救って生きて行きなさい」と
仏壇に置いてある例の像を渡し、まじないを教えて貰ったそうだ。

 

家に戻った若き祖母はその像を実家の仏壇に置いたが、宗派が違うので、その宗派のお寺に訳を話し、置いてくるように言われた。
仕方なく祖母はその像を納めに行ったが、不思議な事に翌日その像は仏壇に戻っていたそうだ。
その像は何度か他の者が置いてきても必ず仏壇に戻って来た。困った家族はその宗派の住職に相談したそうだ。
住職は祖母の話を聞き、「あなたはその旅の僧に言われた事をしなければいけない、そしてこの像はたとえ宗派が違っても今後一生あなたの守りとして持っているように」
と言ってくれたそうだ。
それで、祖母はその後その寺で、まじないの実施方法を学び、無償で困っている人を救ったそうだ。
なぜ無償なのかと聞いた事があったが、御代を頂くと効力がなくなるからだそうだ。
私はその時、その話しを聞いて「不思議な話があるもんだ」と思った。

 

祖母は依頼があると、前の日から肉と魚を一切絶ち、患者が来る前は2時間ほど仏壇の前でお経をあげ。
そうして準備してから患者に向き合い、口に水を含んで、口の中で呪文を唱えながらその水を患部に霧状に吹きかけるのだ。
呪文は声にだしてはいけないらしい。
祖母の呪文は体の表面にある出来物や湿疹などに効いた。

 

祖母の評判は人づてに広まり、なかなか忙しくて結婚する暇が無かったというのが、祖母の言い分だったが、駆け落ちまでした人を忘れられなかったんだろうと
ロマンスに興味のある年頃だった私は勝手にそう解釈した。

 

実際私もこどもの頃はやってもらった事がある。
でも私はそのまじないが嫌いだった。それは祖母の口が臭かったからだ。
効力はあったと思う。しかし如何せんあの口臭には子どもながらに辛いと思っていた。
でもそれは言えなかったなぁ

 

祖母はそのまじないを私に伝授すると言っていた。自分の子どもにはそれを受け継ぐ力が無いのと、孫では私だけしか受け取れないからと言っていた。
そのため、精進しなければいけないと、私に毎日お経をあげるように強いたのだった。
でも私も思春期になり、学校に部活に忙しくなってからは段々とサボるようになった。
いつしか覚えていた般若心経も忘れてしまった頃、祖母は私に伝授することを諦め、誰にも伝えずに墓まで持って行くと決めた。

 

そして祖母は本当に誰にも伝授する事も無く死んだ。

 

最近になって、その像の事をある人に話しをしたら、それは弘法大師の像だと教えてくれた。
確かにそうだと思う。父に聞くと、「知らなかったのか、あれは弘法大師で、多分婆さんのまじないは密教のまじないだったと思う」と言っていた。

今あの像は多分叔父の家にあると思う。位牌などを引き取って、墓を立てたのが叔父だからだ。
父に像を貰わなかったのかと聞いたが、「あれは自分には手に余る、何も知らない叔父が持っていたほうが良いだろう」と言った。
そして、もし私がまじないを伝授されていたらあの像は私がおまつりしなければいけなかったが、それと同時に重荷も背負った事になっただろう、と言った。
叔父たちは私がまじないを受け継ぐと思って、受け継いでいないと知った時残念がったが、父は反対だったらしい。
どっちが良かったのは今では判らないが、奇しくも近年、弘法大師に縁が出来てしまった私は、今更になって祖母の言葉を思い出す。

転校騒動

じいちゃんが死んで、饅頭屋は畳むことになった。誰も後を継ぐ人が居ないからだ。

私は小さい頃、婿を貰って店を継ぐ事をじいちゃんと約束していたが、如何せんまだ子どもだった。

祖母の子どもは私の父を筆頭に4人いたが、だれも祖母と一緒に住むことは無かった。

皆が東京に来る様に申し出ても祖母は田舎の家を離れるのを嫌がったと聞いた。

誰かが田舎に戻って一緒に住めば良かったのかも知れないが、それぞれ家庭を持ち、それぞれの暮らしがあって無理だったんだろう。

本来なら長男の私の父が田舎に戻ることが最善だったのだが。

 

話し合いの結果、父は私を手元に引き取ることに決め、早速手続きをした。

その頃、看護師をしていた父は病院の寮に住んでいたが、私と一緒に寮に住むことを許して貰っていたと後で聞いた。

 

クラスで「お別れの会」が開かれる事になった。

田舎の学校は転校生が来ることも、出て行くことも少ないため、お別れ会や歓迎会は一大イベントだった。ホームルームを使い、教室で出し物をしたり、先生の差し入れのお菓子やジュースを用意し、盛大に会を開く。

私は当時誰もがそうだったが、「転校生」という響きに憧れていたので、自分が当事者になったことが単純に嬉しかったし、皆にとっては「東京に行く」事は最大の憧れでもあった。

 

「東京に行ったら芸能人に会えるとやろ、良かね~」と言われ羨ましがられた。

いつもは仲の悪かった男の子も「東京に行ったらパンダの写真ば撮って、おい(俺)に送ってくれんね」と言ってくれた。(その時上野のパンダがブームだったからだ)

私は現金なもので、じいちゃんが死んだ事の悲しみや、友人たちとの別れなどは忘れ、急にちやほやされた事に有頂天になった。

飛行機に乗ることも楽しみだし、何より芸能人が居る東京が楽しみだった。とにかく子どもだったのだ。

 

東京へ出発する朝、私は余所行きの服を着て、後は父と一緒にバスに乗るだけの状態だった。

仏壇に手を合わせ、じいちゃんに向かって「行って来ます」と挨拶をした。

父に祖母にお礼の挨拶をするように言われ、「かあちゃん、ありがとうございました」とか何とか言ったと思う。

 

その時、祖母は私を抱きしめ、「やっぱいやらん、ユミはどこにもやらん!」と言い出した。

父は「決めたことじゃないか、手続きもしたし、もうバスも来る。それに乗らないと飛行機に遅れるから」とか何とか説得しようとしたが、祖母は泣きながら私を放そうとしなかった。

 

突然の成り行きに、私は呆然としていたと思う。父と祖母のやり取りを人事の様に感じていた。

とうとうバスが来て、父は迷いながらも一人乗り込んだ。

父を乗せたバスを祖母と見送りながら私は思った。

「お別れ会をしてもらったのに転校しないって、クラスの皆になんて言えばいんだろう」とそればかり考えていた。

 

次に学校に行くとき、祖母と一緒に登校した。職員室で祖母は担任と話し、私は担任と一緒に教室に入った。

担任は「ユミさんは転校の予定でしたが、家庭の事情で転校が取りやめになりました、良かったですね」とか何とか説明してくれた。

クラスの何人かは「なーんだ」とか「せっかくお別れ会したとに」とか言った。

そりゃそうだ、逆の立場なら私だってそう思う。

とにかく恥ずかしかった。有頂天になった自分が恨めしかった。こんな思いをする事になった祖母に腹が立った。

 

休み時間になり、パンダの写真を送ってくれと言った男の子が来た。

「来た!ぜったい意地悪言われる」と構えた私に男の子は「写真欲しかったな」とだけ言った。

「ごめんね」と謝ったと思う。

男の子はそれ以上転校については何も言わなかった。

私は心底ほっとしたのを覚えている。

 

田舎の良い所はクラスの子どもの大体の家庭事情は町中皆知っていると言う事だ。

私には母がいなく、祖父母に預けられ、父が東京で働いていることを皆が知っていた。

そして、田舎の悪いところは、よそん家の事が瞬く間に広まる事だ。

私の家は商売をしていたこともあって町の皆が私の事を知っていた。それこそバスの運転手もだ。

 

私が転校しなくなった事は休日の内に広まっていたのだろう。

何時もは何かと意地悪を言う子も家でそのことについて、意地悪を言ってはいけないと言われたのだと思う。

 

給食を食べる頃には私の気分もすっかり晴れていた。最初から何も無かった様な気分になった。

でもこの事は心の傷になり、後々にも影響するのだった。

 

その転校騒動から一年ほど過ぎた頃、父が女の人とやってきた。再婚する事にしたそうだ。

後で知ったが、私は以前その人に会っていた。祖父が元気だった頃祖母と三人で、一番下の叔父の結婚式に東京に行った事があった。

その時私だけ父の勤め先の病院の寮に行き、一晩か二晩泊まった。

その時私の世話を焼いた女の人がいたが、彼女がそうだったらしい。

その時私は彼女に懐いていたと言われたが、本人は覚えて居ない。

突然現れた新しいお母さんに戸惑いの方が大きかった。

 

再婚するにあたり、当然私を引き取る話が再燃した。

もちろん祖母は猛反対だ。再婚にも反対していた。

(再婚に反対だった理由は他にもあったが、それは別の話としよう)

 

私は以前の転校未遂を思い出した。

あんな思いは二度としたくない。そう思った私は祖母に味方し二人を猛攻撃した。

 

父を打ちのめしたのは私が「大人の都合で私の事を振り回さないで欲しい」と言った事らしい。

(今書いていて、確か、「子の心親知らず!」と言った事を思い出した)

二人は一泊位しかしないで直ぐに東京に帰って行き、父はその後その人と再婚した。

 

今思えば、祖母は二人で協力して生活していくことを私に刷り込んでいたんだと思う。だからどちらかが欠ける事はありえない話しなのだ。少なくとも私はそう信じていた。

 

祖母はそれからと言うもの今まで以上に厳しくなった。「手元に置いている以上、世間並み以上にしなければならない」と言うのが口癖になった。

しかも、祖母の思う「世間並み」は明治から大正までの女の人の事なので、たとえ田舎で都会から十年は遅れているにしろ、かなり時代錯誤だったと思う。

それでも私はそれが当たり前と思い祖母の言いつけを守ろうとした。

祖母にしてみれば義母に対するあてつけ的なところもあったと思う。

 

しかし祖母の言いつけの中で子どもだからこそ一番嫌だった事がある。

それは毎日の読経だ。

祖母が再婚だったのは以前書いたが、本当のじいちゃんとは死別だった。

その為我が家にはもともと仏壇があった。

その仏壇には毎朝ご飯をお供えし、線香をあげるのが日課だったが、私の知るじいちゃんが死んでからは毎日の読経に付き合わされた。

 

私は子どもながらに「かあちゃんの思う世間並みには般若心経を覚えることも含まれているんだ」と思ったが嫌で仕方なかった。

毎日嫌々ながら付き合っていたが、祖母には別の思惑があったようだ。

祖母の思惑については今後、追々書く事にする。