碧い鱗

青が好きです。魚の体を覆っている鱗の様に今の私を形成している想いでや出来事をチラチラと散りばめて書こうかと・・・

やってはいけないと言われていることをやった結末・・こっくりさん3

宿泊所に着き、二泊三日の研修が始まった。
研修と言ってもメインは九重山への登山が最大の目的だったと思う。
もちろん他にも何か研修があったが全然覚えていない。

一日目の夜。部屋は四人から六人部屋だった。夕食後だったか、風呂の後だったか忘れたが、消灯までの時間に
女子が集まり、おしゃべりしたり、写真を撮ったりしていた。

二段ベットに群がり、ポーズを取ったりして交代で写真を撮った。
カメラを構えていたある子が「撮るよ~はい、YMCA」と言って撮った直後「キャー!」と悲鳴を上げた。
「どうした?」と聞くと、フラッシュを焚いた時窓の外に何か居たと言うのだ。

皆慌てて窓に駆け寄った。カーテンが半分くらい開いて、外が見えていたが、既に外は真っ暗だ。
叫び声をあげた子が、「窓ガラスに手をついて中を覗いていた」と説明したが、窓に手の跡とかはなく、勿論誰もいなかった。

そもそもベランダなどは無く、窓にタオルを干すくらいの手すりがあるだけで、人が立てる幅はない。
周りや上下を見渡しても誰かがいたような形跡がないため、みなぞっとして顔を見合わせた。

「見間違いやなかと?誰かの影の反射したととかさ」と誰かが言ったが、そのこは絶対に違うと言い張った。
上の階の男子のいたずらではないかと言う子も居たが、階下に外から身を乗り出しても窓に手を付く位まで降りるのは無理だ。
なぜなら、その建物は玄関側は駐車場もあり、平坦だが、裏側は石垣の上で、一段高くなっている。下は木が鬱蒼とした森だ。
どんな配置だったかは忘れたが私達の部屋は裏側に面していて、二階か三階だった。

男子の部屋は更にその上なので、ロープで窓から吊り下げないと無理だ。

そんな大掛かりないたずらをするとは思えない。

やはり幽霊なんじゃないかとなった。
今と違って、撮った写真を直ぐに確認できない。
一人が私に聞いた。「なんとおもう?幽霊?」そう聞かれても困るのだが、頭の中の声は『地縛霊』と教えてくれた。
それを伝えると、皆益々おびえ、半分喜び、「きゃー、どがんするぎよか?」と更に聞いて来た。
声は『入っては来ない』と教えてくれた。

又、『話をすると寄って来る』とも言われたので、皆に伝えた。

「ユミのおって良かった」と誰かが言った。「ユミのおっけん来らしたとやなか?」と言う子も居た。
私はなんとなく自分が居るから来たのでは無いかと思ったので申し訳ない気持ちになった。

 

当然この事は直ぐに広まった。

噂とはいい加減なもので、帰る頃には霊を呼んだのは私のせいになっていた。
別のクラスの子が「幽霊ば呼んだよやろ、凄かね~」と耳打ちして来た。
「そがん事しとらん、写真ば撮った子が呼んだとかも知れんし、元々のとが偶々来たとかも知れんし」と反論したが、
「またまた、良かて、隠さんで」と意味深な笑顔で去って行った。

帰りのバスで、行きに信号当てをした男子が「わい、幽霊も呼びゆっとか、そいぎ、UFOも呼びゆっとやなかか?」と言って来た。
幽霊とUFOは全然違うだろうと思ったけど、面白ければ何でも良いと思っている男子には通用しない。
男子は勝手に色々言っていたが、仕舞いには「こいになんじゃすっぎ祟られるぞ」とまで言われた。

私は祖母の言葉を思い出した。こんな力は人に見せびらかす物では無いのだ。
私はちやほやされたかったのかもしれない。
その日以降、誰かに探し物を聞かれたとしても「もうおらっさんけん判らん」と言ってやり過ごすことにした。
「本当におらんごとなったと?」と幼馴染のみっこちゃんにも聞かれたが、みっこちゃんはおしゃべりだ。
だから私はみっこちゃんにも「うん、おらっさん」と嘘を吐いた。

コックリさんも流行らなくなり、皆の関心も薄れていった。なにしろ中学生の流行はあっという間だ。


私は時々声と無言で会話をした。寂しい時や哀しいときは慰めになった。
嬉しいときは一緒に喜んでくれた。
時には叱ってくれる時もあった。

結果私は声の正体を掴みきれないまま、それから3年ほどその声と過ごすことになる。
それは良い時もあれば、鬱陶しく思う時もあり、又、自分は頭がおかしくなったんじゃ無いかと思う時もあった。


高校生になった時、ある晴れた何でも無い日、声は言って来た。
『もう行く』
私は何の事かわからなかった。考えてみれば声を聞くのは久しぶりだった。
「行くってどこへ」そう聞きなおしたが返事は無かった。
その代わり、頭の中の一部が急に軽くなったような、霞が晴れた様な気がした。
私は「ああ、本当に居なくなった」と悟った。
途端に寂しくなり、心細くなった。頭の中で幾ら声を掛けても無駄だった。

今でもあれは一体なんだったのだろう思う。
きっと、多くの人は、思春期のアンバランスな心が生み出したものじゃないかと言うだろう。
それか、何かにとり憑かれていたのではと思ってくれる人も居るかもしれない。
でも、自分では憑かれたというより、誰かが側にいてくれたと言う感覚だった。

発端はコックリさんだった。
勿論あれ以来私は二度とコックリさんをしていない。

私の場合は悪いものでは無かったが、どんな物が来るのか分からないのだ。
世界中にコックリさんの様なものがあるが、どうなるのか試してみてとは絶対に言わない。

やってはいけないと言われている事は、やっぱり、やってはいけないのだ。

やってはいけないと言われていることをやった結末・・こっくりさん2

その日以降、私はふとした時に誰かの声が聞こえるようになった。
最初は気のせいだと思った。頭の中で別の自分が答えているのだと思った。
当時は多重人格と言う言葉も知らなかったし、所謂、「自問自答とはこう言う事か」位に思っていた。
だから最初は特に誰かに相談する事も無かった。

どんな風に聞こえるかと言うと、たとえば「あれ、この道だったっけ?」と思った時に「右だ」と答えてくれたり、
ボーっと信号待ちをしている時、信号が変わったからと咄嗟に踏み出そうとしたとき、「止まれ」と危険を教えてくれるときがあった。

私は頭の中で聞こえるその声に次第に慣れていき、自分から質問したりするようになった。
声は答えてくれる時もあれば、全く沈黙する時もあった。
そして、時折意味不明な言葉とも音とも言える時もあった。

私はテストの時に答えが聞けないものかと試してみた事があったが、そういう時は決まって、声は沈黙するのだった。
「使えない」そう私は思ってしまったが、何となく声の主の事が知りたくなった。
声は家に戻ると聞こえなくなるのも不思議だった。

私は一緒にコックリさんをやったNに相談してみた。
「あのばい、あん時コックリさんて、ちゃんと帰らしたと思う?」
「あん時?あん時さ、Mの手ば離したろ?そいけんイカンっち思いよった。何?なんかあったと?」とNも実は不安だったと答えてくれた。
「あれからばい、声の時々聞こえるっちゃん」
「え、気のせいやなか?」と言ったが、真剣な私の顔を見て、
「気のせいやなかとね、そいで何て言わすと?」
「何てって言う感じじゃなし、ちょっと迷った時、こっちとか駄目とか・・・」私は説明が難しいと思った。
Nは「なんそい、便利かた!」と言った。
「そいでん、テストん時は何も言わっさんとさ」とちょっと笑って付け加えた。
「なーん、そいは使えんとね、そいでんその声の通りにしたらおうとる(合ってる)と?」
「大抵はおうとる。でん、違う時もあるとさ」
Nは少し考えて「そい、帰っとらっさんとかもしれん、どがんすると?」
「どがんしーゆか判らんと」
「無視するぎ、そのうちおらっさんごとならんかな(居なくならないか)?」
「そいはわからん。そもそも誰ちゅ?」
「うーん判らんね。暫く様子見たら?ごめん、そいしか言いえんばい」
確かそんな内容の会話だったと思う。私は他の人には言わないで欲しいとお願いし、暫く様子を見ることにした。

声は大きかったり、小さかったり、不明瞭だったり様々だった。
でも最初は一言、二言だったのが、次第に文として聞き取れる様になっていった。

ある日祖母に何気なく聞いてみた。
「コックリさんて知っとう?」
「しっとるばい」
「あれって誰の来らすと?狐の神さん?」そう聞く私に祖母は「フッ」と笑って、
「狐さんなもんか、呼び出す側の力によって色んなとの来ると、狐さんの来るごたんなら大した力ばってん、大概はもっと位の低か霊た」
と言った。
私はそれを聞いて怖くなった。
「位の低か霊ってなんね?」
「大体が動物霊やろうね、神様になりきれんやったとか、成仏しきれんやったとかが、悪戯したりするったい」
「そいぎ、コックリさんで答えらすとて、おうとらんと?」
「おうとる時もあるかも知れんけど、大抵気まぐれやっけんね。なんね、コックリさんばしたとね」
「うん・・・・」私は祖母には嘘がつけないと思って、そう答えた。だが声がする事は言わないで置こうと咄嗟に思った。

「変なかとの来るぎ厄介かけん、せんごと」
「どがん厄介か事になっと?」
「そりゃよう判らんばってん、狐憑きんごとなるかも知れん」
それを聞いて私は益々怖くなった。

狐憑き」の話は小さい頃祖母に聞いた事があった。
祖母曰く、「狐憑き」は低級な狐の霊や狸や人の霊が取り付いて、宿主を操ろうとする恐ろしいもので、
祖母が子どもの頃、狐憑きになった人が近所に居たと言っていた。
周りの人は気味悪がり、その人はお嫁にも行けず、早死にしたと聞いている。
その人の話は何度も聞いていたのだが、大正時代の話で、科学と迷信が半々だった頃だったため、病気なのを「狐憑き」と家族も
本人も思い込んでしまったんじゃないかと祖母は言っていた。
祖母だって「狐憑き」については半信半疑だったのかもしれない。

それでも「狐憑き」は子どもの私にとって、とても怖い話の一つだった。

私は子どもの頃の怖かった気持ちを思い出したが、声の主はそういったものとは違うと何故か思った。
祖母には声の事は黙ったまま、何とか自力で声の正体を知りたいと思った。
でもその事を頭の中で語りかけても、いつも返事はくれなかった。
それ以外の事を聞けば、何かしら返事をくれるのに、自分の正体については明かしたくないと思っているかのようだった。

社会化見学で、湯布院にバスで行った時の事だ。
行きのバスで、私は後ろのほうの席に座っていた。その近くの同じ小学校出身の男子が、
「わいさ、霊感のあっと?」と声を潜めるように聞いて来た。
私は「なん、そい?」と聞きなおしたが、「隠さんで良か、わいのばーちゃんもまじないばさすた、そいけん、わいにもあっとやろうもん」
土地は広いが、有る意味狭い田舎の事だ、祖母のまじないの事を知っている人は居た。
「みっこも言いよったばい、ユミには霊感のあるって」
それに私が体験したことを幼馴染のみっこちゃんは大体しっていた。
だから小学校が同じ子達は、みっこちゃんの言葉に納得したのだろう。
「そがん霊感て、虫の知らせのあったぐらいたい」私は当たり障りの無いような返事をした。
しかし男子は、「わい達、この間コックリさんばしたとやろ、そん後わいの霊感の強うなったって女子の言いよったばい」と言った。
私は驚いた、所詮「内緒」というのはこんなものだ。大抵だれかから漏れる。
確かに私はあの日以来、予言めいた言葉を発した事があったかもしれない、でもそれは頭の中の声が言った事を口に出してしまっただけで、
私自身の霊感が強くなったわけでは無かった。
私は説明に困ったが、自分自身が霊感少女と噂されるのは困るので、頭の中で、(どうしよう)と相談してみた。
答えは(うまくやれ)だった。
悩んだ私は、男子に「あのさ、うちの霊感じゃなしにば、たまに聞けば教えてくれる時のあっと」と説明した。
男子は「だいの?」と驚いて聞いたが、「だいかわからんとさ、そいけんあんまい聞くぎ怖かた?やっけん最近は聞かんごとしとっと」
男子は「そいはコックリさんの居らすとね?」と眉を寄せたが、「コックリさんとは違うと思っとるとばってんね」
男子は更に声を潜めて「そすとんは(その人)は何でん教えらすと?」と聞いて来た。
私は(あ、何かに聞きたい事があるんだ)と思ったので「何でんやなか、出来事は教えらすばってん、人の心とかは教えらっさん」と答えた。
「そうや・・・」と男子はちょっとがっかりしたようだ。
私は「そいにさ、テストの答えとかは教えらっさんばい」と声に力を込めて付け加えた。
これは重要な事だ。霊感を使ってテストを受けたなんて思われたらたまったもんじゃない。
男子は「ふーん、そいぎ、役に立つごた、立たんごた感じたいね」といい、納得してくれたようだった。
私はちょっとホッとして座りなおしたが、男子は思いついたように「そいぎ、これから何か当ててもらわん?」と言い出した。
「え、なんば?」
「うーん、例えば信号とか、次の信号の色とかどがんね」と良い思いつきの様に目を輝かした。
私はどうしようと思ったが頭の中で(やろう)と声が聞こえたので、「良かばい」と答えた。
それから信号が見える前に色を伝えた。時には連続で言う事もあった。
色は次々と当たった。男子はそのたび「おー」と声を出したが、私はこんなの三つしかないから別段凄いとは思わなかった。
それでも男子は喜び、「今度なんか考えとくけん、教えてくれんね」と言った。

こうして中学一年の社会化見学は始まった。
でも不思議な事はこれだけではなかった。

・・・・つづく・・・・

やってはいけないと言われていることをやった結末・・こっくりさん

中学の一年の時、女子の間でコックリさんが流行った。

確か小学校の時もちょっと流行っていた。でもその時の私は余り興味がなかったのか、
「誰々がやっているらしい」と聞いても、「ふーん」という感じだった。

だからコックリさんが具体的にどういうものかは把握していなかったのだが、名前からして良くない物だと言う事はなんとなく感じていた。
だって「コックリさん」て狐の事でしょう?
現在ではどうか知らないが、私が子どもの頃は「コックリさん」は狐の神様の事だった。

田舎の近所にあった神社は隣が公園で、子供会のソフトボールの練習はいつもそこだった。
その神社の横の山にはお稲荷さんが祀られていて、私はそこのお稲荷さんがなぜかとても怖かったのだ。

そのお稲荷さんの小さい祠はちょうど公園の山壁に途中にあった。なので、たまにホームランで、祠の近くまでボールが飛ぶことがあった。
ソフトボールチームでは外野をやっていたのだけど、その祠周辺にボールが行ってしまうと一人で取りに行くのが嫌だった。
それでも仕方ないので、「すみません、お邪魔します。ボールを取らせてください。」とお願いしながら取りに行ったものだ。

なぜそんなに怖かったのかは今でもわからないが、他のお稲荷様は平気でも、そこのお稲荷様は駄目だった。
もしかしたら、うんと小さい頃、祖母に何か吹き込まれたのかもしれない。

そんな記憶があったから小学校の頃は興味を示さなかった、いや、興味があっても恐怖の方が勝っていて、手を出さなかったのかもしれない。
それが中学になると、そんな事を怖がるのは可笑しいし、格好悪いとでも思ったのか、コックリさんに誘われたら、平気な顔をして、
「よかよ~」と気軽に手を出してしまったのだ。

最初はなんてこと無かった。
十円玉に置いた指が動くことはあっても、きっと誰かが動かしているんだろうと思った。
誰も動かしていないと言っても、心の中では誰もが、「誰かがやってる」と疑っていても、その事は遊びの中のルールで追求しないのだ。

しかし、何回かコックリさんに参加しているうちに、「ユミの入るぎ良う動くっちゃんね」と言われるようになった。
私は「そがん事なかさー、気のせいばい」と言いながら、ちょっと得意になった。
自分には霊能力があると思っていたし、その事は幼馴染達は何人か知っていた。
でも祖母に「言いふらしたらいけんばい」と言われていたので、「そがん事はなか」と言ってはいたが、完全に否定することは無かった。

コックリさんの紙の書き方は何通りかあった。
上に赤い鳥居を書き、次に数字を0から9まで書く、そして右から、縦書きで、ひらがなで50音順に表を作り、下段には「はい」「いいえ」を左右に振り分けて書く。これが一般的だ。
それか、数字と五十音と「はい、いいえ」の位置が前後した物だ。

しかし、その事が起きた日は誰だったか忘れたが、違うやり方をした。
なんでも良く当たるやり方なのだと言う。
誘ったのはAとNだ。どうしても一緒にやって欲しいと言ってきた。
その日は部活も無く、特に用事も無かったが、空模様が怪しかったので、傘を持っていない私は早く帰りたいと思っていた。
でも、「せっかく用意したとに、ユミのおらんぎつまらんし、大事か事ば聞きたかとやっけん、来てくれん?」そう言われて、断れなかった。
中学生にとっての大事な事は大抵が「好きな人」の事と「嫌いな人」の事だ。
大人から見ればつまらない事でも中学生にとっては「命がかかる」くらい大事な事だった。

コックリさんは一人から四人くらいまで出来る。要は十円玉に指が乗る人数までなのだろう。
その日は私を含め4人居た。
三人とも別の小学校から来ていて、内二人はAとNだが、残る一人に私は驚いた。
彼女Mさんは美人で頭も良く、スポーツも万能で、男子ならず女子の憧れの存在だった娘だったからだ。
コックリさんに興味があるような人物だと思っていなかったが、今回聞きたいことがあるのは彼女だったらしい。
「ごめんね、無理言うたごて、そいでん、どがんしてでん知りたかったと」とMさんは私に気遣った。
「良かよ、答えらすぎ良かね」と言い、なんだかドギマギして紙に注意を向けた。
彼女の知りたいことは好きな人のことだった。私は皆の憧れの人の秘密を共有してしまうのかと思ったら、有頂天になりそうだった。
だから平静を装って、その新しいやり方の紙に注意を向けた振りをしたのだ。

紙を見て、「あれ?」と思った。違うやり方と聞いていたが、別段変わった所が無かったからだ。
違うといえば、赤い鳥居の直ぐ下に「はい、いいえ」が書いてあり、数字、五十音となっているだけだ。
そのパターンのものは見たことがある。
「こい、いつもと変わらんごたっけど、なんが違うと?」と私は聞いた。
Nは「じゃーん」と言って、ポケットからチビタ鉛筆を取り出した。
二センチ位まで使い込んだ鉛筆だ。
「この鉛筆ばば、ここに置いて、「はい、いいえ」は鉛筆が教えらすとて」と赤い鳥居の下に鉛筆を置いた。
「言葉や数字は今までどおりたい」と説明した。
私は「ふーん、鉛筆の動くぎ怖かね」と何気無く言ったが皆は本当に信じていないのかどうか、「どがんなるかはやってみんぎ判らんたい」と興味津々なだけだった。

教室から見る校庭は段々暗くなり、風も出てきた様だった。
だが、コックリさんをやる時は窓を数センチ開けておかなければならない。そうじゃないとコックリさんが出入り出来ないからだ。
でも、教室のドアは誰かに見られたく無いので閉めてあった。

「そいぎ、始めようか」
「あ、その前にこの事は内緒にしといてくれんね」とMさんが言った。
「もちろんばい」と三人は返事をした。
その子は安心したかの様に十円玉に指を置いて、コックリさんを始める事になった。

お出迎えの言葉を唱え、皆で鉛筆を凝視した。
「コックリさん、コックリさん、おいでください。いらしたら「はい」とお知らせください」
何度か唱えたが、暫くは何も無かったが、鉛筆は不意に「はい」を指した。
四人は悲鳴を飲み込んだ様な「ヒッ」って音を出したが、誰も言葉を発しなかった。

目でMさんを見た。今回の質問者は彼女だからだ。
彼女は深呼吸をして、「コックリさんコックリさん○年の○○さんに彼女は居ますか」と聞いた。
鉛筆は転がったのか指したのか、「いいえ」方に寄った。
「こい、いいえって事かな。誰かの息のかかったとやなか?」と美人の彼女は言ったが、皆が首を振って違うと意思表示したので、
気を取り直して「○○さんに好きな人は居ますか」と続けた。
鉛筆は益々「いいえ」に転がった。
気を良くしたMさんは「告白したら付き合えますか?」と聞いた。
私は鉛筆を凝視した。出来れば「はい」に動いて欲しかったが、鉛筆は益々「いいえ」に転がり文字の上で止まった。
皆「えー」と声を出した。完璧のMさんに告白されてなびかない男がいるもんかと言う「えー」だ。
Mさんは「そうたいね、急に告白しても困らすたいね、ちょっとずつアピールするぎ良かかも」と気を取り直して、
「コックリさんコックリさん、○○さんと友達になれますか」と聞いた。
鉛筆は微かに「はい」の方に動いた。
Mさんは満足したのか「もう良かよ、聞きたか事聞けたけん」と言った。
別の友人が「もう良かと、他に聞く事なかと?」とつまらなそうに言った。
私もそう思ったが、さっきから頭痛がしていたので、早く終わらして帰りたいと思っていた。
それに、Mさんが好きな人は私と同じ小学校の出身で、家も割りと近かった。
私は「○○君、知っとうよ、家近かもん」と言った。
Mさんは「本当?そいぎ色々教えてくれんね」と目を輝かせて言った。私は嬉しくなり「うん、良かよ、応援すっけん」と答えた。
「そいぎ、本なごて終わりで良かね」と別の友人は言い、終わりの言葉を唱えた。
「コックリさん、コックリさん、ありがとうございました。お帰りください・・・・」とその時、教室の後ろのドアがガタガタと音を立てた。
びっくりしてドアの方を見ると、どうやら怪しい天気に早めに部活を切り上げた男子が入ってこようとしてドアを鳴らしたようだ。
「はよ、終わらんば」と言って続きを唱えようとしたNさんが「あっ」と声を上げた。
見ると十円玉からMさんの指が離れていたのだ。ドアの音に驚いた拍子に外れてしまったのだ。
急いで、Mさんは指を戻したが、コックリさんのルールではお帰りいただくまで指を離してはいけなかった。

鉛筆はと見ると、「いいえ」から動いていなかった。
「これ、はいに戻らんばいかんとやなか?」と誰かが言ったが、皆顔を見合わせるだけだった。廊下では、男子が今度は前のドアをガタガタ言わせた。
「だいかおっと?何、閉めとっと、開けてくれんね」と言っていた。
皆早く終わらせたかったが、コックリさんが帰ったかどうかわからなかった。

今度はちょっと開けた窓がガタガタ鳴り出した。風が強くなってきたのだと思うが、誰かが
「今帰らしたとやなか?窓から」と言った。みんなそう思いたかった。
皆で顔を見合わせて、もう一度帰りの言葉を言ったが、鉛筆も十円玉も微動だにしなかった。
そこで、「せーの」で十円玉から指を離した。
正確に言えばMさんは一度離していたのだが、皆そのことには触れなかった。

十円玉を離した途端「痛い」と私とMさんは言った。
Mさんは手を押さえていた。指がビリッとなったと言っていた。そして私はこめかみがビリッと痛くなり、頭を押さえた。

「早よう開けんか」と男子が怒って言っていたので「はーい、今開けるけん」とAがドアを開けた。
「何、閉めよっとか!」と怒りながら入って来た男子だったが、人気者のMさんを見て、「おっと」と黙った。
Mさんは男子に「ごめんねー、話よったけんさ、そいぎユミありがとうね、あ、うちんこともMって言うてね」と言ってAと教室を出て行った。
「大丈夫ね」とNが言った。私はズキズキしていたが、「うん、大丈夫。もう帰ろう」と言って帰り支度をした。
とにかく早く教室を出たかった。

それから私は一人バス停に向かいバスに乗って家に帰ったが、その間中頭が痛かった。
しかし、家に帰ったとたん痛みが無くなったため、その日の事は日常の色々な事に紛れてしまった。

しかし、コックリさんは帰っていなかった、頭痛は始まりだったのだ。

・・・・・つづく・・・・・

三本杉

自宅から山の稜線が見えていた。
町の外れにあるその尾根には三本杉と言われていた木があり、山の中腹の町を見下ろすように立っていた。
樹齢はわからないが、かなり古くから三本杉と呼ばれていたらしい。

その木は風景としていつもあり、特に気に留めて見ることは無かったが、ある日窓から山を眺めていると、
いつも三本見える木がその日は四本に見えた。

そこそこ遠いので、見間違いかと思って何度か角度を変えてみたが、やはり四本に見えた。
変だなとは思ったが、枝か何かのせいで四本に見えたのだろうと思った。
夕方になって、夕闇にシルエットで見えるようになった頃、また見てみたが、シルエットは三本だった。
「やっぱい、見間違いやったとね」と思った。

でも次の日も何気なく見てみるとやはり四本に見える。
三本杉は尾根から少し傾いて立っているのだが、そのうちの一本の木に寄り添うように四本目が見えるのだ。

私は祖母に、「三本杉のくさ、四本に見えるばい、木の生えたとやろうか?」と聞いた。
祖母は山を仰ぎ見て、「おいにゃ三本しか見えんばい」と言い
たまたま近くを通った近所の人にも「三本杉は三本あるね」と聞いてみた。
近所の人も同じようにみて、「うんさい、相変わらず三本たいね、なしてね」と言った。
「ユミが四本に見ゆってゆうけんさ、おいも目の悪かけん、みてもろうたと」と言って笑った。
近所の人は「おいも良うなかけんね、そいでん三本にみえたばい」と言って去って行った。

「おかしかね、四本に見ゆるとに。そいでん、夕方の影は三本にやっけん、うちが可笑しかとやろうか」
と首をかしげていると、祖母は「遠かけん確認にもいけんたいね」と言った。

それからも、ふと見上げると三本杉は四本に見えたり、三本だったりと私を悩ましたが、遠い場所の木の事なのでそのままだった。

私が四本に見えたと言っていたという話が町で自然と広まって、時々仰ぎ見ている人が居たが、それだけだった。
きっと皆、確認はするものの、やはり三本にしか見えず、「なんだ」と言う感じだったのだと思う。

ある日、衝撃的なニュースが舞い込んだ。
山菜取りに入った人が、偶々三本杉の辺りに行き、白骨を見つけたのだ。
そのニュースは瞬く間に町に広まった。
白骨は性別もわからない位古く、きっと三本杉で首を吊ったのだろうと言う事が分かるくらいだったそうだ。
カラスが騒いだりすれば判りそうな物と誰かが言ったが、田舎の山では獣が死ねばカラスが騒ぐので、まさか自殺なんてだれも思わず、
たとえカラスが騒いだ事があっても気にも留めないのだとも言った。
警察が来て、苦労して登り、又苦労して降ろして行ったと聞いた。
事件などめったに無い田舎なので、暫くその話で持ちきりだった。

祖母は「随分前のものんとんごたって、きっと見つけて欲しゅうてワイに見せたとやろか」そう言って、三本杉を仰ぎ見た。
「なして急に見せらしたとちゅ?」と聞く私に祖母は、「急じゃなかろ、ずっと見せよらしたとに、だいも気づかんやったとやろ、たまたまワイが気が付いたってことやろね」
と言って、ちょっと哀しそうな目で私を見た。
「見らんで良かもんまで見っとやろうね」そう言って仏壇に向かいお経をあげ始めた。

私は「見せられても、なんもしぃえんとに」そう思いながらいつもの様に窓から三本杉を見たが、発見された以降三本杉は三本にしか見えなかった。

田舎のトラップが尾を引いた話し

稲刈りの後の田んぼは子ども達のかっこうの遊び場だ。
広い田んぼを使ってキャッチボールをしたり、バドミントンをしたり、凧揚げをしたりして飛び回って遊んでいた。

 

冬休みの注意は「とっこ積みに登らない事」や「とっこ積みを燃やさない事」と言うのがプリントに書かれていた。
田舎ならではの注意事項だ。

 

「とっこ積み」というのは刈り取って、米を取った後の藁を家の形に組んだものだ。

私も良く、途中の藁を抜いて、くぼみを作り、暖を取ったりした。
藁の中は結構暖かいのだ。
藁を抜きすぎると崩れてしまうので、崩れるかどうかの所でSTOPするのがなかなか難しい。
まるでジェンガの様だったんだなと今気が付いた。

 

この「とっこ積み」は春になると燃やして灰にし、田んぼに撒くための物だと記憶している。
だから万が一燃やしてしまっても、なんとなく「ま、いっか」という考えがあった。
そのためか、時折本当に燃やしてしまう者が出てくるのだ。

 

よく「九州は暖かいでしょう?」と聞かれるが、阿蘇より下は暖かいかもしれないが、阿蘇より北にある県は以外と寒い。
風は冷たく、時には雪も降る。毎朝、霜柱が立ち、子どもは鼻水を垂らし、手足は霜焼けになるくらい寒いのだ。

 

それでも昔の子どもは外で駆け回っていた。
中には一年中半そで半ズボンの男の子達も居た。
しかし、稲刈り後の田んぼで遊ぶには半ズボンはとても危険だ。

 

稲を刈った後は稲株と言うらしいが、鎌で切った後が斜めに切り立っていて、うかつに乗ると薄いズックの底くらい貫通する場合がある。
私は体に刺さった事は無いが、切り傷や擦り傷を作った事はある。
又、足を取られて捻挫する事はざらだ。

 

それでも広い田んぼは魅力的で、毎年転びながら、時には血を出しながら遊んでいた。

しかし、田んぼには稲株よりもっと危険なものが潜んでいる場合がある。


ある、冬の寒い日、私はみっこちゃんとバドミントンをするのに田んぼに行った。
一番広い田んぼはすでに、隣の集落の子ども達が占領していて、三角ベースをやっていた。


バドミントンは余り場所を取らないので、私達は一段上の田んぼで遊び、時折三角ベースを見学したりしていた。

 

隣の集落の子ども達は男女合わせて8人くらい居たと思う。
同級生もいたし、あまり知らない子も居たが、みんな仲良く遊んでいた。

 

同級生の中でJちゃんと言う女の子が混ざっていた。その子は普段あまり男の子達と遊ばなかった子なので、珍しいなと思っていた。
多分、三角ベースをするのに人数が足りず借り出されたんだろう。
普段男の子と遊ばないJちゃんは当然外野を守っていた。

子ども達は田んぼの大きさを承知していて、上の段に入ったらホームラン、横はファールなど独自のルールを決めていた。
だからむやみにボールを追いかけたりしない。追いかけても稲株に足を取られて危ないし、田んぼから落ちる可能性もある。
ボールの軌道を判断しながら追いかけるかどうか決めるのだ。

 

でも、Jちゃんは違った。普段田んぼで三角ベースをしないから、打ちあがったボールを見ながら一生懸命追いかけた。
わたしとみっこちゃんは「あれはファールばい」と判断したが、Jちゃんは判断が付かなかったのかもしれない。
田んぼの縁まで追いかけた。

 

そこでJちゃんに悲劇が起こった。
三角ベースをやっていた田んぼの端で、上の段の田んぼの直ぐ下で、隣の田んぼとの接点になっているところに、ちょっとした平らになった場所があった。
そこにJちゃんが立ったとき、Jちゃんの足元が崩れ、Jちゃんの下半身は見えなくなった。

 

そこは肥溜めだった。Jちゃんは蓋をした肥溜めの上に乗ってしまい、腐っていた蓋を踏み抜いてしまったのだ。
「きゃー」とも「ぎゃー」とも聞こえた悲鳴で私達は声のした方にすぐに駆け出した。
そして、Jちゃんが、肥溜めから出ようとしているのをみて、足がすくんでしまった。

他の子ども達も一斉に駆け出したが、何が起こったのかを一瞬で理解し、皆同じように立ちすくんでいた。


肥溜めは暫く使われていなかったと思われる。

そこに肥溜めがあることを皆知らなかった。もちろん私達もだ。
暫く使われていなかったおかげで、本当の肥溜めの様な匂いはしていなかったが、それでも薄っすらと回りに匂いが漂っていた。

 

Jちゃんは「靴の脱げた。でも取りきれん」と皆に懇願の目を向けたが、誰一人助けようとはしなかった。
同じ集落の他の女の子が遅れて駆け寄ってきたが、「だいじょうぶね、怪我せんやったね」と声を掛けるだけで、近くには寄ろうとしなかった。


Jちゃんは「怪我はしとらんばってん、靴のかたっぽ脱げたと、どがんしゅう」と肥溜めの横に立って瓶を覗き込んでいた。
私とみっこちゃんは上の段から「なんか棒でさらってみんね」と助言した。
誰かが棒を持ってきてくれ、Jちゃんは暫く瓶をつついて、なんとか靴を拾うことが出来た。

一見、Jちゃんは泥に汚れただけに見えた。

しかし、なんとなく匂うその匂いは紛れも無く肥溜めの匂いと言う事を示していた。
同じ集落の女の子が「送って行こうか」と声を掛け、その子とJちゃんはトボトボと帰っていった。
送って行くと言っても、その女の子はJちゃんの二メートル斜め後ろを付いていくだけだ。
真後ろだとJちゃんの足跡を踏むことになるので、避けたのだと言う事が遠目でもわかった。

三角ベースをしていた子ども達は気がそがれたのか、それぞれ勝手にキャッチボールをしたり、肥溜めを覗きに行ったりしていた。


みっこちゃんを見ると、目がニヤニヤして笑いを堪えていた。

私はそれまで、Jちゃんが親に怒られるのではないかと心配していたが、
みっこちゃんの顔見た途端笑いがこみ上げて、二人で大笑いしてしまった。
Jちゃんには悪いが、肥溜めに落ちるなんてかなりレアな出来事だ。
二人は暫く笑いが止まらなかった。
他の子ども達も釣られたのか笑い出した。

 

ひとしきり笑ったあと、皆それぞれの遊びに戻り、その日は家に帰って、その話しをしたが、次の日にはもう忘れていた。

 

しかし、次に学校に行ったとき、Jちゃんの悲劇は終わっていないことに気が付いた。
同じ集落で一緒に遊んでいた男子が言いふらしたのか、Jちゃんのクラスの男子全員がJちゃんの横を通る時ジャンプして避けた。
私は同じクラスではなかったが、みっこちゃんとJちゃんは同じクラスだった。

廊下でみっこちゃんに会ったとき、「Jちゃん避けられよらす。男子が酷かとばい」と教えてくれた。
でも私は特に仲が良いわけでも無かったし、同じクラスでもなかったので、どうする事も出来なかった。

Jちゃんに対する男子の態度はどんどんエスカレートしていき、給食の時間に爆発した。
偶々その週はJちゃんは給食当番だった。

男子達は、「Jさんのよそった給食は食べられんばい、肥溜めの匂いのすっど」と囃し立てたらしい。
Jちゃんはとうとう泣き出してしまった。
騒ぎを聞きつけた担任がやって来て、Jちゃんを連れ出し、代わりの生徒に給食の給仕を任せ、その場を納めた。

給食の時は騒いではいけなかったが担任が戻って来ない事を良いことに、隣のクラスはかなり賑やかだった。
もう直ぐ給食の時間が終わるという頃に担任が戻って来て、給食を急いで食べ、片付けをさせた。
いつもなら給食当番以外は昼休みの時間なので、「ご馳走様」をした後は校庭に出たり、中庭で遊んだりとめいめいが好きに遊んでいいはずだが、
そのクラスは昼休みに遊ぶことは許されなかった。

後でみっこちゃんに聞いた話だが、囃し立てた男子全員を立たせ、一人ひとり、自分が肥溜めに落ちたらどんな気持ちか言わせた。
そして、特に庇わなかった女子もキツク叱られたそうだ。
クラス全員でJちゃんに謝り二度としないことを約束させられ、Jちゃんは午後の授業に出てきたそうだ。


そうしてこの件は一件落着したかに思われたが、実は先生の知らないところで、相変わらずJちゃんは横を通る度に飛ばれていた。
男子は無言で飛ぶ。

女子は巻き添えになりたくないために何も言わない。

そんな日々が小学校を卒業するまで続いた。

そして、それは中学校になっても続いた。


中学校は二つの小学校が同じ中学にあがる。
本来なら知らないはずの別の小学校出身の男子も、同じように横を通るたび飛んだ。
もちろんそういった事を全くしない男子も居た。
でも、やんちゃなグループは相変わらず飛んでいた。


いつだか、なぜそうするのか聞いてみたことがあった。

そしたら別の小学校から来た男子は、他の子がやっているからと答えた。

私は昔の事がいまだに尾を引いていることに驚いたが、

「なんも判らんとにそがんことすっと?」とは聞いたが、それ以上は何もしなかった。


Jちゃんと話す機会があった時に男子の態度について聞いてみたが、Jちゃんは「もう面倒くさかけんほっとくと、なんや言うぎ又なんかされるけん」と言っていた。
強いと思った。私なら耐えられないだろう。
黙っている私にJちゃんは「気にせんで良かよ、優しかね」と言ってくれた。
本当は違う。単なる好奇心で聞いただけだ。
私はバツが悪くなり、「そいぎ」と言って早々に離れたが、後味の悪さだけが残った。

冬の田んぼの映像を目にする時、ふとこの事を思い出しだした。
肥溜めに落ちたJちゃんを助けることもせず笑い、

苛められるJちゃんを助けることもせず、傍観していた自分の冷たさ。
好奇心で聞いてしまった後のバツの悪さ。

それぞれ別の高校に行き、私は東京に出たので、その後のJちゃんの事はわからない。
中学の同窓会にも出てこない。
今なら「あん時は偉かったね」と言えるのに。

 

 

ブッシュ・ド・ノエル

世の中はハロウィンが終わると、年末に向けて徐々に動き出す。
早いところは11月早々からクリスマスイベントの案内が始まって、なんだか「一年が早いなー」って気にさせられる。

クリスマスと言えば思い出すことがある。

私は子どもの頃祖母の事が余り好きではなかった。
理由は色々あったが、とにかく厳しかったからだ。

食事の時の作法は特に厳しかった。

祖母は嫁ぎ遅れたがコックの祖父とお見合いで最初の結婚をした。20歳代後半だったらしい。
祖父は当時、海軍で、将校専用の食事を作るフランス料理のコックだったらしい。

田舎の半農半漁の貧しい家で育った祖母はフランス料理のコックなんて嫌だと言ったそうだが、お見合いを断る事が出来なかったらしい。
祖母は向こうが気に入ってくれたから結婚したと言っていたが、祖父は彫りが深く、現代風のイケメンだった。

結婚当初は軍が与えてくれた宿舎で、昼間はお手伝いさんがいるのでする事は無く、夜は食事だ映画だと出歩く毎日だったらしい。
天皇陛下に食事を出した事があった祖父は当時はかなりの地位だったと言うのが祖母の自慢だった。

子どもができてからもその生活は変わらず、四人の子どもに恵まれた。
しかし、終戦と共に祖父は職を失い、不幸は重なるもので、結核になり入院。そして私の父が小学校に上がったばっかりの頃他界したということだ。

祖母は乳飲み子を抱え途方に暮れたらしいが、幸いすぐに再婚話があり、私の知るじいちゃんと再婚したらしい。
それまでお手伝いさんが居るような生活から小さい饅頭屋を手伝いながら子育てをする生活になったが、元々貧乏の家の出だったので苦労ではなかったと言っていた。

しかし、祖母は先夫の時に食事のマナーで恥ずかしい思いをしたらしく、子ども達に厳しくなったらしい。
私に対しても「外にでて恥ずかしい思いはさせたくない」と思ったらしく厳しく躾けられた。それは私から娘にも受け継がれている。はず。

小学校の頃のある日、友達のお母さんの自慢話を聞いて私は「ハンバーグが食べたい」と祖母にねだった。
祖母は「ハンバーグはよう作らん(得意じゃない)」と言いながらも作ってくれた。
しかし、席について驚いた。ちゃぶ台には洋食器に乗ったハンバーグやスープ、ご飯があり、箸は無く、ナイフとフォークとスプーンだった。
家にこんな食器やフォークなどがあった事にも驚いたが、私はその時洋食のマナーを知らなかったのでどうやって食べるのか困った。
祖母は前のじいちゃんと暮らした時に身に着けたらしく、器用にハンバーグを食べていた。
ナイフとフォークとスープスプーンの使い方を教えてくれたが、私はお腹が空いているのに食べるのに時間が掛かってくたびれてしまった。

祖母は「ハンバーグは洋食の練習するとに良かけん、こがんした。食器も出したけん、いつでんハンバーグやらステーキやら作るばい」と言った。

私は二度とハンバーグが食べたいと言わなくなった。

又、こんな事があった。

お母さんがクリスマスイブにケーキを焼いてくれると自慢していたクラスメイトに何故か対抗して、「うちのかあちゃんでん作りきらすと」と豪語し、クリスマスケーキをねだった。
祖母は「家は仏教徒やっけん、クリスマスは祝わんで良かと、そいにケーキば作るって面倒くさか」と言った。
それでも、「簡単かとで良かけん」と頼む私に根負けして作ってくれた。今思えばケーキは面倒だから無責任な事を言ったと思う。
遊びに行っても、ケーキの事が気になって仕方なかった。
もちろんみっこちゃんに自慢した。みっこちゃんは「良かったたい。ユミんとこの婆ちゃんはなんでんしいきらすね(出来る)」と一緒に喜んでくれた。

そうして、ワクワクしながら夕飯の食卓についたが、出てきたケーキを見て私はがっかりした。
予想したのは丸くて白い生クリームとフルーツやサンタの砂糖菓子が乗ったケーキだったが、祖母が作ったのはロールケーキと、小さく切ったスポンジが飛び出た形に何かでコーティングした茶色いケーキだった。
「なんこい、こいはクリスマスケーキじゃなか!」と私は抗議したが、「これが正しかクリスマスケーキたい、文句あんなら食わんでよか」と叱られた。
私は渋々そのケーキを食べたが、友達になんて言おうかと心配した。

次の日は終業式で、クリスマスイブを祝った子の自慢話が飛び交った。そのクラスメイトは私の所に来て、クリスマスケーキはどうだったかを聞いてきた。
私は祖母が作ったクリスマスケーキを説明し、それが正しいクリスマスケーキだと祖母に言われたと説明した。
しかし、そのクラスメイトは「可笑しか、そがんケーキ、クリスマスケーキじゃなか」と囃し立て、「あんたのかあちゃんは本当は婆ちゃんやっけん知らっさんとやろう」と馬鹿にして言った。
私は悔しかった。なぜ自分は普通の家庭ではないだろう。なんで私にはお母さんが居ないのだろう。
事あるごとに思っている疑問と不満で泣きながら家に帰った。でも、家に着く前に泣き止み、そのことは祖母には言わなかった。

三学期になってクラスに入ると、クリスマスケーキで意地悪を言った子が「おはよう、あけましておめでとう」と言って来た。
私は二学期の終業式の事があったので、「おはよう」とそっけなく言った。
その子は「あのばい」と言ってもじもじしながら私の席から離れようとしなかった。私は又意地悪を言われるのかと思って「なん」とちょっと怒った様に顔を見た。
その子は「クリスマスケーキの事ばってんくさ」と言いにくそうに切り出した。
私は忘れていたのに何を蒸し返すんだと思って相手の言葉を待った。多分かなり不機嫌な顔をしていたと思う。
「ごめんね、婆ちゃんやっけん知らっさんとか、クリスマスケーキじゃなかとか言うて」と謝ってきた。
私はびっくりし、意地悪を言われると構えていたので、肩透かしを食らった気分だった。
その子の説明によると、その子は家に帰ってその話しをしたらしい、
そうしたら母親に「それはブッシュ・ド・ノエルと言うクリスマスケーキで、ユミちゃんとこの婆ちゃんは正しいし、それを知っている婆ちゃんはハイカラだ」と言われたそうだ。
そして、「婆ちゃんやっけん」と意地悪を言った事を怒られたそうだ。
私はにっこりして「良かよ、気にせんで」と言い、その子はほっとした顔をして離れて行った。

私はその話しを聞いて嬉しかった。
家に帰って祖母にその話しをして、クリスマスケーキじゃないと言った事を謝った。
祖母は「ふん、おいはあれしか知らんだけたい」と言って、コックの祖父が作ってくれて、二人で食べた時の話をしてくれた。
戦況が良く、食料があった頃の祖母の裕福な生活に私は憧れ、いつも勝手な想像をしていた。
私の想像の中では、写真でしか見たことの無い祖父と祖母はいつか見た映画の様な二人だった。

クリスマスの頃になり、ブッシュ・ド・ノエルを見ると何故か想像の中の祖母と祖父がお洒落な格好をしてクリスマスの街を歩く、まるで白黒映画の様な光景を思い浮かべる。

方言通信 Vol1

私が育った場所は九州は佐賀の片田舎だ。
どちらかと言えば長崎寄りの伊万里と言う町で私は育った。
昔は栄えたらしいが、これと言った産業も無く、観光客も来ないので、商店街もシャッター通りと化している。
商店街にあった「黒澤明サテライトスタジオ」は閉館してしまったらしい。観光の目玉になるばずだったのだが残念だ。

方言についても、「九州弁>佐賀弁>伊万里弁」と言う具合に使われる方言も地域や出身によって違っていて、同じ市内でもちょっとずつ違いがあった。
私の祖母は「山代」と言う地区の出身なので、更に狭い範囲の方言を使っていたと思う。
その祖母に育てられた私もしかりだ。

そんな方言を想い出す順に紹介していく。
これを知れば九州弁はバッチシだ。但し、狭い範囲に限られるので、応用は各自に任せることになるのであしからず。

まずは基本

代名詞や指示詞の「あれ」「それ」などは語尾が「い」になる。
「あれ」「それ」「これ」「どれ」→「あい」「そい」「こい」「どい」と行った具合だ。
ただし、感動したときや、驚いたときに使う「あれ」は「ありゃ」と言う場合がある。
又、人称代名詞も同じく「れ」が「い」になる。「おれ」→「おい」といった具合だ。

指示詞で「の」が語尾の場合も基本は「い」になるが、「ナ行」は「ん」に変わる場合が多いので注意が必要だ。

感嘆や疑問を表す場合は言葉の最後に「と」がつく事が多い。
有名なのがタモリが良く言っていた「とっとっと?」だ。「取ってるの?」の意味だ。
それ以外に「しっとーと?」や「しっとっと?」と使う。意味は「知ってるの?」だ。
「とーと?」と伸ばすのは博多弁に近い。テレビで方言女子などの紹介では必ず「すいとーと?」とやっているが、
私が居た田舎では「すいとっと?」と伸ばさず使う。
ちょっと伸ばすと同姓に「カワイコぶってる」とか博多にカブレテいると思われるので要注意だ。

否定をする場合は「ん」に変わる場合が多い。語源は古文の「ぬ」らしい。
「せん」「こん」「けん」は「せぬ」「こぬ」「けぬ」から変化したと古文の先生が言っていた。
意味ま「しない」「こない」だが、「けん」だけは他の言葉とあわせて更に強調して使う。

後、混乱するのが、「行く」と「来る」だ。
私も上京したての時はこれの使い方で混乱した。
私が住んでいた地方は、「明日はマックで待ち合わせね。10時には行くからね」と言うのを
「明日はマックで待ち合わせやっけん。10時には来っけんね」と言う。
自分が向かう事を「来る」と言うのだ。勿論相手にも使う。そして「行く」も同時に使うので、「行く」と「来る」を混在させて話す事になる。
初めて聞いた人は人称がわからなくなり混乱するらしい。

そういえば、ちょっと前に「でんでらりゅうば」と言う歌と手遊びが全国的に流行った。
NHKの子ども番組で紹介されたそれは、長崎のわらべ歌だ。
と言っても長崎に近い伊万里でも普通に歌っていたので、長崎と紹介されていて、私は「へー初めて知った」と思うとともに、「長崎だけのもんじゃなかろうもん」とちょっと思った。
何しろ田舎出身者は地元の事が絡むと途端に心が狭くなる。
郷土愛と言う名の固執だ。まぁそれは置いといて、「でんでらりゅうば」だが、この歌も「行く」と「来る」が逆の意味で使われている。

『でんでらりゅうば でてくるばってん でんでられんけん でーてこんけん こんこられんけん こられられんけん こーんこん』
(出てくる事が出来るなら、出て行くけど、出ることが出来ないので、出て行かない、行く事が出来ないので、行けない、だから私は来ないよ)

こうなるともう慣れしかない、娘が「みんな意味わからないから呪文だと思ってるよ」と笑っていた。

しかし、これはあくまでも基本形だ。(と思う)
私が覚えているのは、もっと長かった。

『でんでらりゅうば、でてくるばってん、でんでられんけん、でてこられんけん、こんこられんけん、きーけられんけん、しーきられんけん、いーえられんけん、こーんこん』
だったと思う。
途中までは一緒だが、『きーけられんけん』以降は、
(行けない、出来ない、言えない、だから来ないよ)となる。
言葉遊びだけど、すべて否定になっているところが面白いと思う。
調べてみたら元は長崎の丸山町の遊女の手遊びが発祥だったらしい。だから否定的な心情を唄ったのだろう。
そう思うと、わらべ歌も奥が深い。

なんだか散らかってしまったが、方言の説明になっただろうか。
今日はここまで。
今後も思いついた時にまとめてみたいと思う。
そいぎ!(それじゃぁ)