碧い鱗

青が好きです。魚の体を覆っている鱗の様に今の私を形成している想いでや出来事をチラチラと散りばめて書こうかと・・・

転校騒動

じいちゃんが死んで、饅頭屋は畳むことになった。誰も後を継ぐ人が居ないからだ。

私は小さい頃、婿を貰って店を継ぐ事をじいちゃんと約束していたが、如何せんまだ子どもだった。

祖母の子どもは私の父を筆頭に4人いたが、だれも祖母と一緒に住むことは無かった。

皆が東京に来る様に申し出ても祖母は田舎の家を離れるのを嫌がったと聞いた。

誰かが田舎に戻って一緒に住めば良かったのかも知れないが、それぞれ家庭を持ち、それぞれの暮らしがあって無理だったんだろう。

本来なら長男の私の父が田舎に戻ることが最善だったのだが。

 

話し合いの結果、父は私を手元に引き取ることに決め、早速手続きをした。

その頃、看護師をしていた父は病院の寮に住んでいたが、私と一緒に寮に住むことを許して貰っていたと後で聞いた。

 

クラスで「お別れの会」が開かれる事になった。

田舎の学校は転校生が来ることも、出て行くことも少ないため、お別れ会や歓迎会は一大イベントだった。ホームルームを使い、教室で出し物をしたり、先生の差し入れのお菓子やジュースを用意し、盛大に会を開く。

私は当時誰もがそうだったが、「転校生」という響きに憧れていたので、自分が当事者になったことが単純に嬉しかったし、皆にとっては「東京に行く」事は最大の憧れでもあった。

 

「東京に行ったら芸能人に会えるとやろ、良かね~」と言われ羨ましがられた。

いつもは仲の悪かった男の子も「東京に行ったらパンダの写真ば撮って、おい(俺)に送ってくれんね」と言ってくれた。(その時上野のパンダがブームだったからだ)

私は現金なもので、じいちゃんが死んだ事の悲しみや、友人たちとの別れなどは忘れ、急にちやほやされた事に有頂天になった。

飛行機に乗ることも楽しみだし、何より芸能人が居る東京が楽しみだった。とにかく子どもだったのだ。

 

東京へ出発する朝、私は余所行きの服を着て、後は父と一緒にバスに乗るだけの状態だった。

仏壇に手を合わせ、じいちゃんに向かって「行って来ます」と挨拶をした。

父に祖母にお礼の挨拶をするように言われ、「かあちゃん、ありがとうございました」とか何とか言ったと思う。

 

その時、祖母は私を抱きしめ、「やっぱいやらん、ユミはどこにもやらん!」と言い出した。

父は「決めたことじゃないか、手続きもしたし、もうバスも来る。それに乗らないと飛行機に遅れるから」とか何とか説得しようとしたが、祖母は泣きながら私を放そうとしなかった。

 

突然の成り行きに、私は呆然としていたと思う。父と祖母のやり取りを人事の様に感じていた。

とうとうバスが来て、父は迷いながらも一人乗り込んだ。

父を乗せたバスを祖母と見送りながら私は思った。

「お別れ会をしてもらったのに転校しないって、クラスの皆になんて言えばいんだろう」とそればかり考えていた。

 

次に学校に行くとき、祖母と一緒に登校した。職員室で祖母は担任と話し、私は担任と一緒に教室に入った。

担任は「ユミさんは転校の予定でしたが、家庭の事情で転校が取りやめになりました、良かったですね」とか何とか説明してくれた。

クラスの何人かは「なーんだ」とか「せっかくお別れ会したとに」とか言った。

そりゃそうだ、逆の立場なら私だってそう思う。

とにかく恥ずかしかった。有頂天になった自分が恨めしかった。こんな思いをする事になった祖母に腹が立った。

 

休み時間になり、パンダの写真を送ってくれと言った男の子が来た。

「来た!ぜったい意地悪言われる」と構えた私に男の子は「写真欲しかったな」とだけ言った。

「ごめんね」と謝ったと思う。

男の子はそれ以上転校については何も言わなかった。

私は心底ほっとしたのを覚えている。

 

田舎の良い所はクラスの子どもの大体の家庭事情は町中皆知っていると言う事だ。

私には母がいなく、祖父母に預けられ、父が東京で働いていることを皆が知っていた。

そして、田舎の悪いところは、よそん家の事が瞬く間に広まる事だ。

私の家は商売をしていたこともあって町の皆が私の事を知っていた。それこそバスの運転手もだ。

 

私が転校しなくなった事は休日の内に広まっていたのだろう。

何時もは何かと意地悪を言う子も家でそのことについて、意地悪を言ってはいけないと言われたのだと思う。

 

給食を食べる頃には私の気分もすっかり晴れていた。最初から何も無かった様な気分になった。

でもこの事は心の傷になり、後々にも影響するのだった。

 

その転校騒動から一年ほど過ぎた頃、父が女の人とやってきた。再婚する事にしたそうだ。

後で知ったが、私は以前その人に会っていた。祖父が元気だった頃祖母と三人で、一番下の叔父の結婚式に東京に行った事があった。

その時私だけ父の勤め先の病院の寮に行き、一晩か二晩泊まった。

その時私の世話を焼いた女の人がいたが、彼女がそうだったらしい。

その時私は彼女に懐いていたと言われたが、本人は覚えて居ない。

突然現れた新しいお母さんに戸惑いの方が大きかった。

 

再婚するにあたり、当然私を引き取る話が再燃した。

もちろん祖母は猛反対だ。再婚にも反対していた。

(再婚に反対だった理由は他にもあったが、それは別の話としよう)

 

私は以前の転校未遂を思い出した。

あんな思いは二度としたくない。そう思った私は祖母に味方し二人を猛攻撃した。

 

父を打ちのめしたのは私が「大人の都合で私の事を振り回さないで欲しい」と言った事らしい。

(今書いていて、確か、「子の心親知らず!」と言った事を思い出した)

二人は一泊位しかしないで直ぐに東京に帰って行き、父はその後その人と再婚した。

 

今思えば、祖母は二人で協力して生活していくことを私に刷り込んでいたんだと思う。だからどちらかが欠ける事はありえない話しなのだ。少なくとも私はそう信じていた。

 

祖母はそれからと言うもの今まで以上に厳しくなった。「手元に置いている以上、世間並み以上にしなければならない」と言うのが口癖になった。

しかも、祖母の思う「世間並み」は明治から大正までの女の人の事なので、たとえ田舎で都会から十年は遅れているにしろ、かなり時代錯誤だったと思う。

それでも私はそれが当たり前と思い祖母の言いつけを守ろうとした。

祖母にしてみれば義母に対するあてつけ的なところもあったと思う。

 

しかし祖母の言いつけの中で子どもだからこそ一番嫌だった事がある。

それは毎日の読経だ。

祖母が再婚だったのは以前書いたが、本当のじいちゃんとは死別だった。

その為我が家にはもともと仏壇があった。

その仏壇には毎朝ご飯をお供えし、線香をあげるのが日課だったが、私の知るじいちゃんが死んでからは毎日の読経に付き合わされた。

 

私は子どもながらに「かあちゃんの思う世間並みには般若心経を覚えることも含まれているんだ」と思ったが嫌で仕方なかった。

毎日嫌々ながら付き合っていたが、祖母には別の思惑があったようだ。

祖母の思惑については今後、追々書く事にする。